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「ゆとり」関連デマのまとめ

円周率が3

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皆で手を繋いでゴール

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学力低下

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映画離れ

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睡眠離れ

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TIMSSの結果まとめ

PISAの結果まとめは以下

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TIMSSでは得点を等化する際に同時尺度調整法(concurrent caribration)を用いている。同時尺度調整法では異なる年度のデータを一まとめにして母数を推定するため、原理的に等化係数を計算する必要はない。PISAのようにLink Errorを算出する必要はなく、検定統計量は単に次式で求められる。\hat{\mu}_{a}, \hat{\mu}_{b}はそれぞれ調査年度a,bの平均得点、SE_{a}, SE_{b}はその標準誤差である。

 \frac{\hat{\mu}_{a}-\hat{\mu}_{b}}{\sqrt{SE^2_{a}+SE^2_{b}}}

それぞれの教科について、下表に各年度の平均得点、標準誤差の一覧を示した。矢印のついている箇所は成績が有意に変動した箇所である。

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算数・数学

小学校4年生ではTIMSS1995-2007の期間に有意な得点の変動はなかった。TIMSS2011以降の結果はTIMSS2007以前の全ての得点に対して有意に向上している。なお、順位の推移は3,3,4,5,5,5位である。中学校2年生ではTIMSS1995, 1999の結果に対してTIMSS2003, 2007の得点はいずれも有意に低下している。TIMSS2015, 2019の結果はそれ以前のほぼ全ての得点に対して有意に向上している。なお、順位の推移は3,5,5,5,5,5,5位である。

 

理科

小学校4年生ではTIMSS1999の結果に対してTIMSS2003, 2007の得点はいずれも有意に低下している。TIMSS2011, 2015の結果はそれ以前の全ての得点に対して有意に向上しているが、TIMSS2019の得点はTIMSS2011と比較して有意な変化が無く、TIMSS2015に対しては有意に低下している。なお、順位の推移は2,3,4,4,3,4位である。中学校2年生ではTIMSS1995-2007の期間に有意な得点の変動は無かった。TIMSS2015, TIMSS2019の結果はTIMSS2011以前の全ての得点に対して有意に向上している。なお、順位の推移は3,4,6,3,4,2,3位である。

 

得点と順位の関連

当たり前だが、国際的な順位の変動と年度間の得点の変動は関連が無い。小学校算数ではTIMSS2011以降に国際順位が低下しているが、得点はTIMSS2007以前と比較して有意に向上している。中学校数学ではTIMSS2003-2011の期間に得点が有意に低下する一方でTIMSS2015, 2019は過去最高の得点を記録するなど変動が激しいが、その順位は1999年以降一貫して韓国・台湾・香港・シンガポールに次ぐ5位である。理科も同様なので省略する。言うまでも無いが、経年的な学力の低下と世界における相対的な学力の低下が同時に起こる確率は単に一方が起こる確率よりも低い*1

 

ゆとり教育との関連

ゆとり教育とTIMSS得点の変動との関連、特に学力低下との関連を検討するにあたって、まず押さえておかねばならないことは、「ゆとり教育(98年改訂指導要領)による学力低下」と「脱ゆとり教育*2(08年改訂指導要領)による学力向上」は別々の現象であるということだ。言葉の上では「ゆとり教育」によって学力が低下するならば、必然的に「脱ゆとり教育」で学力が向上するはずであり、逆もまた然りである。

ただし、現実というものは概念上の産物では無いのでこの等式が当てはまるとは限らない。一方の教育法だけが効果的なのかもしれないし、或いは異なる二つの教育法が同じ効果を齎す可能性もある。そもそも、08年改訂指導要領は98年改訂指導要領の基本理念を引き継いでいるため、その意味でも「正反対」の教育ではない。ということを踏まえた上で、以下ゆとり教育とTIMSSとの関連を検討していく。

以下は各年度のTIMSS受験者が「ゆとり教育」を受けた年数を表にしたものである。網掛けの部分がその年数となっているが、2009年から実施された移行措置については新指導要領(08年改訂)の前倒しという性格が強かったためグレーにしている。

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この表から分かる通り、小学生を対象にした調査ならばTIMSS2011まで、中学生を対象にした調査ならばTIMSS2015まで、ゆとり教育を受けた生徒の結果が含まれている。この表と各年度のTIMSS得点の変化を突き合わせてみよう。以下の表は各年度を比較した結果が「ゆとり教育による学力低下」説を支持するか否かを示したものだ。

ゆとり教育を受けた年数が長い受験者の得点が(有意に)低下していた場合は、この説を積極的に支持するものとして〇を、逆に向上していた場合はこの説を積極的に棄却するものとして×を、ゆとり教育を受けた年数が異なるにも関わらず得点が変化していない場合は、この説を消極的に棄却するものとして△で示している*3。何となくアホっぽいがこの程度のことすらやらないアホしかいないのだから無意味ではないだろう。

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集計した結果はそれぞれ〇14、×10、△16であり、約3分の2が学力低下説を棄却した*4。便宜上"消極的に"という言葉と△という記号を使っているが、ゆとり教育を受けた年数が長い(短い)にも関わらず得点が変化していないならば、学力が低下したという説に対しては明確な反証となる。吠えなかった犬理論である。

 

「脱ゆとり」による学力向上は正しいか

藤井斉亮(としあきら)・東京学芸大名誉教授(数学教育)は「『ゆとり教育』でスリムになったカリキュラムが改められ、学びの充実が図られた結果と言える。

 

数学オリンピックの入賞者も輩出する、栄光学園中高(神奈川県)の数学教諭、井本陽久(はるひさ)さんも「TIMSSのように知識で正解できる問題は、やらせれば点数は上がる。ゆとりから学力重視に変わった成果だろう」とみる。

digital.asahi.com

冒頭の表を見ても分かる通り、TIMSS2015以降は全ての教科領域で過去最高の得点を記録している。したがって、2010年代半ばから日本の児童・生徒の学力が向上したこと、その要因を学習指導要領の改訂に求めること、数学界隈の人間が碌に報告書も読まずにPISAやTIMSSなどの国際学力調査の数字を誤って引用しては円周率を3.14に戻せなどと意味不明なうわ言をヒステリックに口走っていたことを忘れてまるで自らの手柄のようにTIMSSの結果を誇っているのは合理的である。ただし、それを「脱ゆとり」や「ゆとりからの転換」と表現するのは、これが単なる歴史的な記述でない限り誤りである。

仮に、近年の日本の児童・生徒が天地開闢以来最も学力の高い集団であるならば、言い得るのは単に近年の日本の学校教育が史上最も優れているという事実だけであり、これをわざわざ「脱縄文教育*5」と名付ける人間はいないはずである。にも関わらず「脱ゆとり」を強調するのは、「ゆとり教育による学力低下という事実」を念頭に置いているからであり、それに対する検討は上述の通りである。

ちなみに、TIMSS2015, 2019に参加した全ての国・地域の内、殆ど得点が変化していないカナダ(ケベック)を除くと、成績が向上したのは36ヵ国中27ヵ国であり、その平均は12.1点の増加である。成績が低下したのは9ヵ国であり、その平均は7.8点の低下である。世界中に脱ゆとり教育の波が広がっているのかもしれない*6

っていうかもう15年くらい「脱ゆとりの成果」って言われ続けてるんだけど。マスコミもいい加減に馬鹿御用達の用語を使うのをやめて改訂年度で表現するようにしろ。これだけ広範に使われてる言葉の定義が統一されてないってヤバくない?お前ら一体何について話してるんだ。現代のズンドコベロンチョだよ。

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*1:はずなのだがこの二つを結びつけると人はより説得力を感じるらしい。

*2:08年改訂の理念は文科省曰く「ゆとりではなく・詰込みでもなく」である。

*3:移行措置期間は1年につき0.5年ゆとり教育を受けたものとした。

*4:補足すると、TIMSSでは4年ごとに第4学年・第8学年の生徒を調査しているため、小学生の受験者を追跡調査することができる。TIMSS2003, 2007を受験した世代はTIMSS1995と比較して小学校4年生理科で得点が有意に低下しているが、4年後のTIMSS2007, 2011の中学校理科では有意な差は消失ないし向上している。

*5:余談だが「ゆとり教育では縄文時代を教えない」という民間伝承が存在する。実際は小学6年生で学ぶ内容が中学1年生へ移行されただけであり、2003年の指導要領一部改正後は小学生の歴史教科書にも縄文時代が記述されている。

*6:付記すると、ゆとり教育実施の前後の期間(TIMSS1995-2011)で最も得点の変化が小さかった国は日本である。

メモ

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孫・井上(1995) によれば,テストバイアスは次のように定義される。

テストが測定しようとしている構成概念とは別の要因のために,ある特定の受験者がテストに正答することが,他の受験者と比べて困難になり,その特定の受験者に不利な解釈が行われる”ときテストはバイアスを持つという。そしてテスト全体としてのバイアスをテストバイアス,テストに含まれる項目レベルで現れるバイアスを項目バイアスと呼ぶ。テストのバイアスが問題になるのは,社会経済的地位(socioeconomic status) の差,黒人か白人か,男性か女性かというような,所属集団の違いに起因する系統的差異が見られる場合である。

たとえば,学力調査におけるテストバイアスの一つの典型としては,言語的バイアスが挙げられる。テストで使用される言語によって,特定の母語を持つ受験者集団の成績が不利に解釈されるというバイアスである。テストの実施言語と受験者の母語が違う場合はわかりやすいだろうが,問題を翻訳する際にもバイアスは発生する。

たとえば,PISA2000で使われた問題は英語とフランス語では問題文の長さが異なっている。リード文に含まれるワード数は,英語よりもフランス語の方が12% 多くなっており,一つのワードに含まれる文字数が英語では4.83 文字となっているの対し,フランス語では5.09 文字となる。結果として,文字数の総計はフランス語の方が2 割弱長くなっているのである。もちろん,文字数だけではなく,言語概念の相違,用語の使用頻度,文法の複雑さなどによっても言語的バイアスは生じ得る。そのため,ほとんどの国際比較調査では翻訳過程について詳細な設計,分析を行っている。

ただし,テストバイアスの問題は,単にテストの技術的・客観的な問題というよりも,むしろ倫理的・主観的な側面をはらんでいる。たとえば,全体的(潜在的)な「数学の学力」が同じ男女の集団があるとして,特定の領域におけるテストでは女子の成績の方が悪いということがあるかもしれない。「数学の学力」という構成概念とは無関係に,性別によって成績が変化するならば,定義上はテストバイアスと言えるかもしれないが,もしそのテストが特定の領域における優秀な生徒を選抜する目的で使用されるならば,そのテストは妥当なものであるかもしれない(Coel and Moss 1992)。

一方で,こうした選抜自体が「女性に数学はできない・するべきではない」という社会規範を強化する可能性もある。特定領域における学力の差異が,全体的な数学の学力に敷衍されるという意味では,これもテストバイアスと呼べるだろうし,また,その領域についての学習機会や関心が減少することによって,さらに差異が拡大されるようなことがあれば社会的に対応すべき問題にもなる。これは,男女に見られる能力の差異が,仮に男女の生理的機構に負っているとした場合も同様である。集団間に見られる系統的差異がテストバイアスであるかどうか,或いはそれにどう対処すべきかという問題は,人間の倫理的・主観的判断を必要とする。

そのため「バイアス」という言葉に代わり,現在ではあるテスト・テスト項目に対する系統的集団差一般を意味する「差異項目機能(Differential Item Functioning=DIF) という,より価値中立的な用語が使われている。DIFはバイアスのようにテストやテスト項目に見られる集団差が「構成概念とは無関係な原因によって生じる不公正なもの」であるかは考慮しない。ただ,あるテスト・テスト項目に対して特徴的に付随する系統的な集団間の差をDIFと表現するのである。したがって,バイアスが存在するときは必ずDIFが存在するが,DIFが存在するからといってバイアスが存在するとは限らない。あるDIFがテストバイアス・項目バイアスであるかどうかは,そのテストが実施,解釈される文脈に依存する。と思う。詳しいことは分からん。

 

井上俊哉・孫媛, 1995, 「アメリカにおける差異項目機能(DIF)研究」, 『学術情報センター紀要』, 7号, pp.193-216

Coel, N. S., Moss, P. A., 2009, "Bias in test use", Linn, R. L., ed., "Educational Measurement", 3rd ed,. New York, American Council on Education/ Macmillan, pp.201-219

 

最近の若者は批判を嫌うのか

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東京外国語大の小野寺拓也講師(ドイツ現代史)は「皆で仲良くし、和を乱すべきではないと学んできた最近の大学生は『批判は良くない』と嫌う風潮がある」という。その上で「(安易に)白黒をつけるのではなく、考え続けることが大切。本音で議論できる場で、率直な意見を言い合う経験が必要だと伝えたい」と訴えている。

学究らしい知的誠実さに溢れた切実な訴えである。私が留置場の中で読んだ百田尚樹の本にも全く同じ事が書かれていた。この記事について、Twitter上で以下のようなやり取りがあった。

 

なるほど若者のみならず日本社会全般に敷衍される広範極まりない問題であったらしい。というわけで小野寺氏に以下のツイートを送った。

 

通知を切っているのか無視されているのかTwitter社の陰謀なのか知らないが返事が無かったので一人寂しく小野寺氏の主張を検討してみようと思う。

①「批判は良くないという風潮」は実在するのか

統計数理研究所が1953年より継続的に実施している『日本人の国民性調査』の結果から検討する。公開されている最新のデータが2013年調査のものと既に古くなっているが、他に適切な資料が無いためいたしかたない。上記の問いに多少なりとも答えられそうな設問は以下の三つである。

#2.1 しきたりに従うか
あなたは、自分が正しいと思えば世のしきたりに反しても、それをおし通すべきだと思いますか、それとも世間のしきたりに、従った方がまちがいないと思いますか?
1 おし通せ
2 従 え
3 場合による
4 その他[記入] 5 D.K.

全ての年代で「おし通せ」が減少し「場合による」が増加するという長期的な傾向が確認できる。1953年と2013年の20代を比較すると「おし通せ」「従え」「場合による」はそれぞれ27ポイントの減少、8ポイントの増加、23ポイントの増加となっている。

 

#2.2b スジかまるくか
[リスト]物事の「スジを通すこと」に重点をおく人と、物事を「まるくおさめること」に重点をおく人では、どちらがあなたの好きな“ひとがら”ですか?
1 「スジを通すこと」に重点をおく人
2 「まるくおさめること」に重点をおく人
3 その他[記入] 4 D.K.

1978年調査から登場する設問。基本的な傾向として中高年層よりも若年層の方が「スジを通すこと」の回答割合が高くなっているが、同年齢層の比較では2008年調査の結果を除き経年的な変化は無く安定的な推移である。

 

 #5.17 社会生活で注意しあう
[リスト]社会生活をするうえで、あなたはつぎのどちらがよいと思いますか?
1 自分では気がつかないことがあるから、お互いに注意しあう
2 自分自身はきちんとし、他人への注意はさしひかえる
3 その他[記入] 4 D.K.

20代を除く全ての年代で、前回調査と比較して「お互いに注意しあう」が減少し「他人への注意はさしひかえる」が増加しているが長期的に見れば大きな変化は無い。20代のみ、1973年調査時点と比較して「お互いに注意しあう」が10ポイント増加している。

 

というわけで、最近の若者(日本人)は馴れ合いを好むと主張したい人は「#2.1 しきたりに従うか」の結果を、時代は変わっても若者は変わらないと主張したい人は「#2.2b スジかまるくか」の結果を、東京外国語大の小野寺拓也講師(ドイツ現代史)の主張を否定したい人は「#5.17 社会生活で注意しあう」の結果だけを信じれば良い。統計とは便利なものである。

②最近の大学生は「皆で仲良くし、和を乱すべきではないと学んできた」のか

逆にこれを学ばなかった奴っているのか?形式的なものであれ実質的なものであれ「仲良くしなさい」なんて公私を問わず教育現場における常套句だと思うのだが。まあ氏の真意を察するにこれは「いかなる状況においてもとにかく盲目的に『仲良くすること』を強制されてきた」くらいに読むべきなのだろう。

こうした「最近の教育は盲目的○○(個性、平等、自由、協調)偏重が罷り通っている」という言説はここ100年ほど日本で大流行しているのだがその根拠が提示されることは稀である。むしろこのブログでも何度か紹介しているように、ベネッセの『学習指導基本調査』などの実態調査からは近年の学校教育が正反対の方向(画一・強制)へ進んでいることが確認できる。

それでは何故未だに小野寺さんのような勘違い野郎が後を絶たないのか、まあ率直に言ってデマが原因だろう。「運動会ではみんなで手をつないでゴール」だとか「最近の学校では競争を教えないことになった」だとか「2位じゃダメなんですか」とかそういう感じのアレだ。

勿論小野寺さんには小野寺さんなりの独自の理論と根拠があるのだろうし、仮にも大学の先生を軽々にデマを信じる馬鹿扱いするのは私も心苦しいのだが、私の無知故にこれ以上合理的な推論を思いつかないのでとりあえずそういうことにして話を進めよう。

皆で手をつないでゴール

デマである。根拠も糞も無い。単にそのような事実が確認できるような資料は現在のところ確認されていないと言っても良いのだが、一応このデマを真面目に調べた試みも存在する(注参照*1)。このデマについて、私が実際に自分の目で確認した中で最も古いのは次の記述である。国立教育研究所の木田宏によって「横並びの徒競走」のエピソードが語られている。

高校の先生から聞いた話だが、紛争の頃、運動会の一〇〇メートル競走で生徒がゴールの一歩手前で止まって一斉にゴールインするということがよくあった。そして、これは平等でしょうという。同じことを日本の学校は教室の中でやっているのと違うだろうか。

新教育課程と学校経営の課題(IV シンポジウム) 日本教行政学会年報 (7), 241-266, 1981-10-01

正確には「手をつないでゴール」では無いが、教育における悪平等の象徴として、運動会の徒競走における一斉ゴールが語られている点は同じである。この時点で既に伝聞、しかも学園紛争の頃にまで遡っていることは注目すべきである。

また、「手をつないでゴール」というエピソードは平等の肯定よりも競争主義の否定という側面がより強調されて語られることもある。そうした言説として私が確認した中で最も古いのは次の記述である。

 「競争主義の再点検を」
 ところで、私は不思議な話を聞いた。それは、日本のある地域の小中学校で生徒に対する採点をしないことに決めたというのである。何でも、その学校は、生徒の成績を五とか三とかの数字で表現するのは”差別”だと考えた先生がいるらしい。私にこの話を聞かせてくれた日本の大学教授は、さらに、その他の学校でも運動会に商品を出さぬ学校が増えていると説明した。
 これは明らかに競争原理の放棄であるが、私はかつて世界中でこれに類した話は聞いたことがない。

(中略)

 このような思想が蔓延して、日本の若者の間で競争意識の喪失が起こり、それが国全体の風潮となったとき、この愛すべき国は、きたるべき二十一世紀まで生き延びていけるのだろうか。
(中略)

 そういうときに”差別をなくす教育”と称して、少年少女から競争への意欲を取り上げるとは、日本人も平和と繁栄に呆けてしまったのだろうかと私は心配するのである。
ポール・ボネ, 『不思議の国ニッポン vol.3』, 1982,  角川文庫

角川文庫版しか持っていないので、もしかすると単行本には収録されていないかもしれない。文庫本が出版されたのは1982年、単行本が出版された年は不明だが著者あとがきの時期は1978年となっている。こちらでも、「競争主義の放棄」の象徴として運動会のエピソードが伝聞形式で挿入されている。ちなみにポール・ボネはフランス人ではない。れっきとした日本人であり、イザヤ・ベンダサンの亜種である。

付言しておくと、97年の第二次中教審答申では「平等」という言葉が15回出てくるが、その全てが否定的な文脈において使われている。これは当然であり、そもそもゆとり教育がその目的の一つとしていたのは、それまでの行き過ぎた・画一的な平等主義からの脱却である。

ちなみに、答申においては「平等」に対置する概念として「個性」が挙げられているのだが、どういうわけか悪平等と個性偏重を両立している人がしばしば見受けられる。どのように脳内で整合性を取っているのかは不明である。(ゆとり教育における「個性」についてはこちらのページを参照のこと)

補足

幼稚園の運動会などは例外である。言わずもがなではあるが、幼稚園においては「競争」という側面は殆ど重視されない。その理由は、第一に児童がその意味を理解できる程度に成熟していないこと、第二に生まれ月による影響が大きいこと、第三に保護者が競技結果を過重に受け止めかねないこと、第四に児童の発達段階的に往々にして競技が成立しないこと、等である。それ故、教員や保護者が児童の手を引くという事例は存在する。

同様の理由によって、障害児が参加する徒競走でも「手をつないでゴール」の存在が確認されている。

運動会、とっても楽しく見せていただきました。特に「二人は熱い仲」の競技は「なかよし学級」のお友達が、一生懸命、手をつないで走る姿を見て、とっても感動しました。竹組の子ども達も一緒に参加したことで、色々、学んだことが多かったと思います。 

高杉誠一, 2000, 競争から思いやりへ―学級通信の記録から―, 情緒障害教育研究紀要 (19), 58-60

補足2

「手を繋いでゴール」は未だ確認されていないが、「順位をつけない徒競走」は実在する。すぐ下の記述と重複してしまうのだが、89年改訂学習指導要領は競争主義的であると一部の教育関係者が受け止め、その反動として順位をつけない徒競走が90年代に流行したことがある(流行の度合いは不明)。これはNHKクローズアップ現代においても「競争のない運動会」として特集されている(1996年6月11日放送)。

この順位を明示しない徒競走は現在でも実施されている。Twitterで検索するとそれらしき報告談が複数確認されており、私もフォロワーさんから実例を教えてもらったことがある。できれば全国的な分布を知りたいのだが、(調査費用的な問題で)恐らく不可能なので、出来るだけ多くの実例を収集しているところである。

ゆとり教育では競争を教えない

逆である。何故このようなデマが広まったのかこちらが知りたいくらいなのだが、少なくとも教員の学習指導を直接的に拘束する学習指導要領を基準にすれば、98年改訂の学習指導要領はむしろ「競争主義的」とも批判された89年改訂をほぼそのまま引き継いだものであり、上で取り上げた「競争のない運動会」なども、それに対する反発として盛り上がった(とされた)という経緯があるのは以下の通りである。

1998年現在、学校5日制に対応する新学習指導要領の作成作業が進んでいる。その中で、教育実践現場では体育科の学習内容として、スポーツを本来の競技スポーツのありのまま、すなわち競争形式で実施する傾向が強まっている。その背景には、1989年改訂の学習指導要領による体育の学習指導では、競争を重視する方向が示されたことがあげられる。

その競争の重視傾向が学習指導に反映されている中、体育嫌いや運動嫌いなどの問題と競争、重要な学校行事である運動会の競争的種目と子どもの参加意欲、これらの関係に対する新たな議論が持ち上がっている。例えば、 1996年6月10日*2NHKがテレビで放送したクローズアップ現代の「競争のない運動会」。また、教育審議会第17回総会1997(平成 9)年 6月23日のある委員から「小学校で徒競走をやめてしまえとか、順番をつけるのはやめろとかいうのは、個性を伸ばすという点からいえば、まさに逆行」との発言があげられる。 

長津光雄, 1998, 体育の学習指導における競争の扱いに関する一考察, 体育科教育学研究 15(2), 1-8,

ただし、08年改訂以降の学習指導要領では再び競争主義的傾向が鳴りを潜めているのも事実である。1968年改訂以降の学習指導要領における小学校体育科の文言の変遷を実際に確認してみよう。

68年改訂・・・「競走では途中でやめないで最後まで走り通すことができるようにする(第二・第三学年)」「競争やゲームにおいて,規則を守り,最後まで努力する態度を養う(第三・第四学年)」「競争では,勝敗に対して正しい態度をとることができるようにする(第三・第四・第五・第六学年)」「競走では,遅れても途中でやめないで,最後まで走り通すこと(第四学年)」「競争やゲームで,規則を守り,最後まで努力し,勝敗の原因を考え,さらに進歩向上を図ろうとする態度を養う(第五・第六学年)」「競走では,勝敗にこだわらず,最後までがんばること(第五・第六学年」

基本部分は重複させつつ「途中でやめないで最後まで走りとおす」→「遅れても途中でやめないで最後まで走りとおす」、「競争やゲームにおいて、規則を守り、最後まで努力する」→「競争やゲームで,規則を守り,最後まで努力し,勝敗の原因を考え,さらに進歩向上を図ろうとする態度を養う」と発展していく形である。内容としては「勝敗にこだわらず」に象徴されているように、競争それ自体よりも自己修養が眼目である。

77年改訂・・・「互いに協力して練習や競争ができるようにし,競争では,勝敗に対して正しい態度がとれるようにする(第五・第六学年)」

これだけである。「競争」に関わる文言が大幅に削除されている。当時は「詰込み教育」が大バッシングを受け、代わって「ゆとりのある教育」が諸手を挙げて歓迎されていた時代でもある。そしてそれによって蓄積された教育学者達の怨念が爆発するのが20数年後のこと…ちなみに小野寺氏は1975年生まれなのでこの指導要領の下に教育を受けた世代である。

89年改訂・・・「(諸々の運動について)他人との競争、いろいろな課題への取組などを行うとともに、体の基本的な動きや各種の運動の基礎となる動きができるようにする(第一・第二・第三・第四学年)」「己の能力に通した課題をもって次の運動を行い、その技能を身に付け、競争したり、記録を高めたりすることができるようにする(第五・第六学年)」「互いに協力して、計画的に練習や競争ができるようにし、競争では、勝敗に対して正しい態度がとれるようにする(第五・第六学年)」

77年改訂に「競争」の文言を挿入した内容となっている。たとえば、77年改訂では「(諸々の運動によって)体の基本的な動きを身につけ,各種の運動の基礎となるよりよい動きができるようにする」となっているが、89年改訂ではここにわざわざ「他人との競争」が付け加えられている。77年改訂と比較すると競争志向に振れたのが浮き彫りとなっている。

98年改訂・・・「(諸々の運動について)仲間との競争,いろいろな課題への取組などを楽しく行うとともに,体の基本的な動きや各種の運動の基礎となる動きができるようにする(第一・第二・第三・第四学年)」「競争や運動の仕方を知り,活動を工夫することができるようにする(第一・第二学年)」「競争や運動の仕方の課題をもち,運動の楽しさを求めて活動を工夫することができるようにする(第三・第四学年)」「自己の能力に適した課題をもって次の運動を行い,その技能を身に付け,競争したり,記録を高めたりすることができるようにする(第五・第六学年)」「互いに協力して安全に練習や競争ができるようにするとともに,競争では,勝敗に対して正しい態度がとれるようにする(第五・第六学年)

89年改訂とほぼ同様であるが、違いは次の通りである。
「他人との競争」が「仲間との競争」に変更
「競争や運動の仕方(を知り,課題をもち)以下略」の追加
「互いに協力して、計画的に」が「互いに協力して安全に」に変更

「他人」が「仲間」になっているが単に健全な表現になったというべきだろう。ただし、この記述の変更に気付き、かつそれを実践した体育教師がどれほどいたか、定かではない。

08年改訂・・・「自己の能力に適した課題をもち,動きを身に付けるための活動や競争の仕方を工夫できるようにする(第三・第四学年)」「自己の能力に適した課題の解決の仕方,競争や記録への挑戦の仕方を工夫できるようにする(第五・第六学年)」

再び「競争」に関する文言が大幅に削除され、77年改訂並みに簡素な記述となっている。仮に指導要領の文言が児童・生徒の心性を直接的に規定するならば、今の大学生世代は小野寺世代並みに競争心に欠け他人との軋轢を忌避する世代ということになる。氏の懸念はもっともである。ちなみに68年改訂から08年改訂に至るまで「他人と仲良くする」ことはいずれの指導要領にも共通して記述されている。

2位じゃダメなんですか

蓮舫と教育には何の関連も無い

 

 

小、中学生“落ちこぼれ”深刻 日教組が実態調査 分数計算、特に弱い中1 小5書き取り、半分間違う

小、中学生“落ちこぼれ”深刻 日教組が実態調査 分数計算、特に弱い中1 小5書き取り、半分間違う

 日教組槙枝元文委員長)は十一日、昨年秋に小、中学生を対象にして行った「学力実態調査」(国語、算数・数学)の報告書をまとめ、発表した。それによると①小学校五年生の漢字書き取りで、半分以下しか書けなかった子どもが四十四%②中学校一年生の数学では、整数の割り算がまったくできなかった生徒が約三十%――など、学校の授業からの”落ちこぼれ”が予想以上に大きくなっていることを浮き彫りにしている。日教組では、現行の教育課程で、教科書の内容はレベルが上げられたものの「児童、生徒の学力は逆に伸び悩み、早期詰め込みによる学力低下を招いた」とし、現行教育課程の改善などを文部省に強く働きかけていく方針。(関連記事22面に) 


 日教組による学力調査は二十五、二十八年に実施されたのについで三回目。今回は国民教育研究所(森田俊男所長)と共同で、とくに現在のレベルの高いといわれる教育課程の中で、児童、生徒の学力が果たして伸びたのか、どうかを主目的にして実施された。この種の大がかりな学力調査は最近では、全国教育研究所連盟がさる四十六年に行った共同研究があるだけで、文部省の学力調査は四十二年以降中止されている。今回の調査は「基本」と「補充」の二本立てで実施された。

 「基本調査」はある県の小学校五年生と中学校一年生を対象に国語と算数・数学、「補充調査」は、他の五県で、より広い学年を対象に国語、算数・数学について、「過去との比較」を主内容にして行われた。この学力調査に参加した児童、生徒は約五万人であった。


【国語】
 中学校一年生には小学校で習った九百九十一の漢字、小学校五年生は四年生までに習った漢字の中から主として「読み」「書き」について調査が行われた。その結果、女子が男子を平均点で十点以上上回った。(中学校一年)が、全体としてみると、習得すべき漢字の数が増えているのに、児童、生徒の漢字能力は皮肉にも停滞していることが明らかになった。

<読み>
 中学校一年生。百語の読みの平均点は七七・二点とかなりの成績。といっても七〇点以下が二十六%、つまり四人に一人が教科書をスムーズに読めない状況。男女別にみると女子が八一・七点で男子の七三・七点を一〇点近く上回っている。正答率が低かったのは「勧める」「朗らか」の一〇%台で、このほか「討論」「是非」「休息」なども四〇%台と不成績。
 小学校五年生。平均得点は八四・五点と好成績。ただ、半分以下しか読めなかった子どもが六・七%も。正答率の低かったのは「改める」の二〇%台、「帯」の三〇%。

<書き>
 中学校一年生。五十字の出題で平均正答率は六〇・四%。半分以下しかできなかった生徒は三三・二%で、得点のばらつきが大きい。ここでも男女差が大きく、女子が六九・六%なのに男は一五%も低く五三・四%。できの悪かったのは善の一〇%台を筆頭に、「救」「招」「屈」「己」の二〇%台。
 小学校五年生。平均正答率は五二%。半分以下しか書けなかった子どもが全体の四四・二%。正答率三〇%以下は、五人に一人の二二%。「孫」「燈」「清」「治」の四字が最も不成績で、正答率は一〇%台にとどまっている。

<過去との比較>
 文部省がさる二十五年から二十六年にかけて行った「教育漢字百字テスト(書き)」調査と同一内容について、小学校四、六年生、中学校一、二、三年生を対象に実施。その結果、二十五年前の方が全般的に平均点が高く、学年が進むとともに正答率が上昇しているのに対し、今回は学年が進んでも停滞気味となっている。例えば「底」という字。二十五年前では小学校六年生で正答率が四一%なのが中学校三年生では八四%にはね上がっているのに、今回調査では小学校六年生で五三%、中学校三年生になっても、ほぼ同じの五二%にとどまっている。日教組では、「一九七一年の新教科書から小学校で百十五字漢字が増やされたが、これがかえって児童、生徒に消化不良を起こさせた」と指摘している。


【算数・数学】
 中学校一年生、小学校五年生とも、前学年までに習った「計算力」について調査された。小学校五年生の正答率は七五・六%とかなり高いのに反し、中学校一年生になると大きくダウン、四七・六%と極めて悪い。とくに小数、分数の”つまずき”が多く、学年が進むにつれて「できる子」「できない子」の分化が目立っている。

<中学校一年生>
 問題は整数の加減乗除、分数の通分まで計四十七題。その成績は、五二点満点で三〇点以下(正答率五七・六%)の生徒が十人のうち六人を占め、零点から一〇点(正答率一九・二%)の生徒が五人に一人にものぼっている。整数の簡単な割り算、たとえば

17541÷18=
28955÷36=

がまったくできなかった生徒が二八・七%いたのをはじめ、小数の割り算、

5.008÷5.6=
9÷43=

ができなかった生徒が約八〇%にものぼった。分数の計算(加減乗除、通分)は、二〇%以上の生徒が零点をとっている。

<小学校五年生>
 整数、小数、分数の加減乗除についての七十九題。その成績は七九点満点で、六四点(正答率八一%)以上の好成績の児童が五三・七%にのぼり、正答率五〇%以下の子どもは一三・二%にとどまり、中学校一年生とは対照的。やや悪いのは小数割り算。

6.61÷7=

など五題の問題で零点が一九・八%出たが、他の整数、分数の加減乗除、小数の加減乗は、成績上位者が多くを占める、いわゆる”逆L字形”となっている。日教組、国民教育研究所では、中学校一年生と小学校五年生の大きな得点差について「小学校五年生の成績は良好だが、小数の割り算など中学校一年生での”つまずき”がすでに五年生の段階で用意されている」と指摘、現行指導要領による「習熟」と「数の意味の理解」の不十分さを強調。

<過去との比較>
 戦前(昭和四年、田中寛一氏による調査)、戦後(二十六年の久保舜一氏による調査)と日教組の二十八年の算数調査――これら三つの調査と同一問題について小学校四、五、六年生を対象にして行われた。その結果は「今回は顕著な正答率を示し、最高の高さ」(日教組)となった。「久保調査」の問題に対しては、今回は、加減乗除でいずれも正答率が七〇%以上の成績で、二十六年当時より二二-二四%もいい。田中、日教組の問題でも今回の方が約七-二四%も高い。もっとも問題がないわけでなく「一定の問題以上だと手をつけない子どもが急増する傾向は強く、そういう問題では久保調査の方が高得点を示している」(日教組)という。


基礎学力の低下明白
 日教組の今村彰教育政策部長の話「この調査で、子どもたちの読み、書き、計算といった基礎的な学力が低下、あるいは停滞し、子どもたちの学力の格差が拡大していることが明らかになった。現行の教育課程、教科書の内容について抜本的な検討が必要であることを示すものだ」

意外な結果ではない
 文部省・沢田道也小学校教育課長の話「日教組の調査結果は意外なことではない。どこが調査してもこんな結果になるだろう。現在、教育課程の改訂に取り組んでいる文部省の教育課程審議会でも問題にしているところであり、秋の中間答申もこの方向で作業が進められているところだ」

読売新聞, 1976.05.12, 朝刊, 教育, 1(5)

追記

「個人向けデジタル化資料送信サービス」が開始されたことで、当該調査の報告書が記載された国民教育(29)がいつでもどこでも誰でも閲覧できるようになりました。ゆとり教育へと大きく方針転換する契機となった調査ですから是非ご一読ください。現代の教育議論との類似性に驚かれるかもしれません。

 

 

メモ

久々にブログを更新したので色々と情報収集していたら以下のような記事を見つけた。

コロナ禍と教育格差:ICT活用後進国ニッポンの大問題 松岡亮二

chuokoron.jp

では、休校によって「生まれ」と教育成果の関連は強まるのだろうか。この問いに対してヒントになるのは、「ゆとり教育」によって土曜日を休みにした影響を検討した研究だ。経済的・文化的・社会的な資源量の多寡を一つの数値にした社会経済的地位(Socioeconomic status、以下SES)によって、学習時間と学力の格差が拡大したことがわかっている。また、別の研究は「ゆとり教育」によって高収入世帯がより通塾と習い事に投資したことを明らかにしている。

 あのー…この研究って川口先生のこれ?

hajk334.hatenablog.jp

マジかよこれ未だに通用してんのかよと思って調べたら通用してるっぽいですね…なんかここまでくると私が致命的な勘違いをしているのではないかと疑いたくなってくる。誰も気づかないなんてそんなことあるのか?数学や統計に詳しい誰かが私の間違いを指摘してくれないでしょうか。

「標準化された介入が減少した分格差が拡大する」という仮説は本当にもっともだと思うのですが、それならば何故だれも「ゆとり後」の調査をやらないのですかね。上の記事にも書きましたけど社会生活基本調査って私のような一般人は利用できないのですよ。ここら辺の界隈の研究者って「データが大事」と馬鹿の一つ覚えのように繰り返す癖に全然やらねーんだから。何故これほど価値のある仮説を検証しないのか。

ちなみにPISAやTIMSSの場合はデータが公開されている上に親の学歴も調査しているので、こちらでも同様の分析が可能となっています。前に私がPISA2015までのデータを分析した時はしっかり格差が拡大していたはず…なんですがどこを探しても結果もスクリプトも見つからない。また一からやらなきゃならないの?学者先生無能すぎへん?(他責)

筒井勝美, 2012, 『学力低下問題、その後の学力推移と40年前との学力格差』

私が管理している別ブログで「このような論文があるのだがどう思うか」というコメントを頂いたので書きました。私は若者論研究者を自称しているくせに若者論の収集はめったにやらないものぐさなのでこうした情報提供は本当に有難いです。論文・記事・ブログ・Twitter・5ちゃん等々メディアは問いませんので、私に調べてほしい言説がありましたら大歓迎ですのでお気軽にお問い合わせください。

ci.nii.ac.jp

http://sfi-npo.net/ise/quality_education/no4_downloadfile_3.pdf

1.はじめに

1990 年代前半から、当館では、小・中学生の学力低下が顕著になっていることに気づき、教師間で話題になっていた。この現象は、当館だけでなく、他塾の塾長達も集まる会合等で、必ずといっていい程、誰もが口にしていた。
そこで、技術畑出身の私は学力低下を抽象論としてでなく、具体的事実として検証するため、当館生(中学 3 年生、約 2500 人)を対象に、毎年同一時期(全課程学習終了時)、同一問題で 94 年度から 96 年度まで 3 年連続で、学力テスト(数国理社英の 5 教科)を実施し、5 教科合計での学力推移の調査を行った。
すると、当館受験生の平均点は 95、96 年度と前年比約 3%ずつ下がり続けたのに反し、合格実績は逆に前年比 15%、16.5%と大幅な伸びを示した。つまり、このことは、当館生の学力は年 3%近く下がってはいたが、当館生以外の福岡地区の生徒の学力は、さらに大きく下がっていることを、明白にするものであった。

私は、一般の人よりはるかに教育に関心あるはずの大学や高専、高校の先生方が「ゆとり教育」の実態を知らないことに危機感を抱き、翌 99 年「理数教育が危ない」を PHP 研究所より出版した。

ここで筒井が言及しているように、当初の「ゆとり教育」批判が直接にその対象としていたのは90年代の教育なのだが、今では何故か綺麗さっぱり忘れ去られて30代・40代の世代が「これだからゆとりは~」などと言っているのを見ると隔世の感がある。論者によってはこの世代を真性ゆとり世代と認定していたりする。以下の記事が参考になるかもしれない。

hajk334.hatenablog.jp

 

以上のように、学力低下が深刻さを増している折りもおり、文科省は「ゆとり教育」転換後、第3回目の「理数教科内容を 3 割削減する」と公言した学習指導要領を、02 年度から実施すると発表した。かくして、学力低下への危機感が“るつぼ”と化し、学力低下論争に火がついた。(その時、“こういうことになるなら、94 年度から 3 年間取り続けた学力テストを、そのまま継続しておけばよかった。”と私は思った。)

このブログでも何度か言及しているが、文科省の「3割削減」について定量的な根拠はない。ちなみに文科省次官であった小野元之の独自教科書調査によれば1割の削減だそうである(調査手法明示せず)。また正確には3割の「削減」ではなく「軽減」である。このことについては以下の記事の冒頭部分で軽く触れているので参照してほしい。その内詳しく書こうと思う。

hajk334.hatenablog.jp

 

学力低下論争後、寺脇研氏は、「学習指導要領の取り扱い内容のレベルは、上限ではなく、下限である」と長年、上限としてきたものを、唐突に変更したり、「学習指導要領の改訂は、10 年に 1 度でなくても、もっと早目に見直していくことがある。」などと、内容削減の酷さに気づいたのか、従来と逆の方針を突如打ち出し、その狼狽振りが露呈した。

市川伸一が『学力低下論争』でも指摘しているように、「指導要領の最低基準性は文科省が苦し紛れに打ち出した方針である」というのは良くある誤解であり、むしろ学力低下議論の当初より文科省(寺脇)の側から積極的に明示していた方針である。同書はゆとり教育議論を語る上では必読の書なのだが読んでいないのかもしれない。

また、新指導要領の実施前後に早くもその見直しが図られたのは、実は「ゆとり教育」が初めてではなく、68・69年改訂指導要領、いわゆる「詰込み教育」も同じである。実施前から強く批判され、実施直後には「指導要領の弾力的運用」ですぐさま撤回されるという流れは「ゆとり」と「詰込み」でパラレルなのだが、これを指摘する人は何故か少ない。恐らく知らないのだろうと思われる。この辺りの事情については佐藤(2015)に詳しい。

ci.nii.ac.jp

多くの「ゆとり教育」派の文科省御用立つとおぼしき教育学者や教育評論家等の白い目の中、実証データなどを示し学力低下の警鐘を鳴らしてきた、西村和雄京都大教授など、多くの勇気ある学者や学習塾・予備校の有志がいた。それに耳を貸さなかった文科省関係者や教育学者、寺脇研氏等が、学力向上への教育施策を大幅に遅らせるなど、事態を悪化させた。まさに、2012 年度の本格的改訂まで、空白の 20 年間を招いたと言っても過言ではない。

情緒的な記述と言わざるを得ない。これまでにも何度か指摘しているが、「ゆとり教育」に関するデータの誤用・濫用に基づく理系界隈のパニックは「放射脳」と揶揄される人々の振る舞いにとても良く似ていると思う。思うのだがこれを認めた人はこれまでに一人もいない。「知性の守護者」という自認が脅かされるからだろうか。以下の記事が参考になるかもしれない。

hajk334.hatenablog.jp

 

2.2010 年 12 月実施の学力テスト結果から、“その後の学力推移”を検証する 

まず、“その後の学力推移”とは何を意味するのかについて説明する。前章で詳細に述べたが、02 年度から実施された学習内容と授業時間の大幅削減を機に、03 年度に当館の中学 3 年生対象に理数教科の学力テストを実施した。
その後、遠山文科大臣提唱の「学びのすすめ」や宿題の増加、中山成彬文科大臣による「ゆとり教育」の抜本見直しと全国一斉学力テストの再開、発展的学習を含む教科書の段階的な充実など、前章で触れたが、10 年に 1 度の学習指導要領改訂(2012 年改訂)を待たずに、異例の学力向上に向けた追加措置が次々に打ち出された。その間、国際学力テストの PISA や TIMSS(IEA)の結果が発表されたりした。そこで、当館としてもそれらの学力推移の検証もかね、04 年度、2010 年度に同一問題による学力テストを実施し、03 年度からの推移を“その後の学力推移”として調査した。

素晴らしい試みだとは思うのだが、その検証方法に致命的な欠陥があるので以下詳しく見ていこう。ちなみに、先述した通り詰込み教育の時も実施3年と持たずに実質撤回され様々な施策が実施されたので異例ではない。

調査の方法は、02 年度の福岡県立高校入試問題の数学と理科を使い、毎回、当館で中学全学年の学習内容が終了する 12 月中旬に、主に福岡地区在住の中学 3 年生に実施した。また、戦後最も理数教科の学習内容が充実していた、約40 年前(70 年度、昭和 45 年)の福岡県立高校入試問題の数学と理科を、同じ生徒達にさせ、40 年前との学力格差を調査した。因みに、70 年当時の福岡県立高校入試の平均得点率データはないが、私の記憶では(他の多くの同窓生や、先輩、後輩からの記憶収集からも)、当時でも県下の平均得点率は 60%前後であった。(出題者側の意図として、県立高校入試ゆえの難易度が継続的に現在まで平均点が 60%前後になるように設定されていることは、見事というほかはない)

以下、70年問題の平均正答率が60%であったという想定に基づき全ての分析が進められる。塾生の質的変化についてはクラス別の得点を出しているのでまだ許容できるが、これについては言語同断である。仮に当時の平均得点の記憶を皆が持っているならば、当然に元となったデータがあるはずだ。比較調査において比較対象となるデータを提示せずに比較するとは一体いかなる了見なのか。知的怠慢を通り越して知的荒廃の極みである。

ちなみに結果の概要は次の通りである。数学については02年問題に対して03年度受験生*1から緩やかな学力向上傾向が見られ、平均正答率はいずれの年度も7割前後である一方、70年問題についてはほぼ変化が無くその平均正答率は4割強程度である。理科については02年問題に対して2010年度受験生に若干の学力向上傾向が見られ、平均正答率はいずれの年度も5割前後である一方、70年問題についてはこちらも数学と同様にいずれの年度も4割強程度の平均正答率となっている。

つまり、2002年問題を受験した「ゆとり世代」の平均正答率は数学で7割、理科で5割となっているが、70年問題を受験した場合の平均正答率は4割強であるため、学力低下は明らかという趣旨である。当然だがこの主張を検証するには70年当時の平均正答率のデータが必要不可欠である。

 

つまり、今から 40 年前(70 年度)の中学生といえば、現在 55 歳前後の日本人であるが、今の 2 倍近い豊富な内容の理数教科書で学び、その頃は遊びもしたが遥かに多くの勉強をし、圧倒的に数学力が高かった。私の過去の教科書調査などでは、70 年頃をピークに、その 15 年前頃(55 年前後)までと、その 10 年後頃(80 年前後)までは、理数の授業時間数や教科書内容が豊富で、日本人の理数学力は世界トップレベルであるとの自負があった。
実際、81 年度調査の IEA(TIMSS,国際教育到達度評価学会)での国際学力テストでは、日本は数学で世界第1位、83 年度の調査では理科が世界第 2 位で、共に世界トップレベルであった付表1)。また、日本の優れた科学技術力や産業力は、高い理数学力効果と日本人独特の勤勉さで、少し遅れて現実のものとして現われ、70 年代半ばから 80 年代後半にかけ、“Japan as no.1”と言われるほど、米国に次ぐ産業大国、優れた技術立国となり、米国を脅す時代があった。
つまり、これら理数学力の高かった現在 45 歳前後以上の日本人が、厳しい環境の中で培われた逞しい精神力と努力で、日本の繁栄を築いてきたといっても過言ではない。今や、日本全体が過去築いてきた遺産を食い潰しながら、下降線を辿っているような気がしてならない。

 IEAが1981年に実施した調査はTIMSS(Trends in International Mathematics and Science Study)ではなくSIMS(Second International Mathematics Study)である。TIMSS以降はIRTを利用した評価手法を採用しているためそれ以前の年度と直接比較することは不可能である。順位については日本の学力変動だけではなく他国の学力変動によっても変化するため順位の低下によって学力低下を結論付けることは出来ない。また、2000年代以降のTIMSSにおいても日本の生徒の学力はトップレベルにある。

 

最近では、付表1)の PISA や TIMSS の国際学力推移を見ても明らかなように、アジアの中だけでも、日本の国際学力はシンガポールや韓国、香港、台湾、(上海)などより、下位にくることが多い。この実態に対して、文科省をはじめ教育学者や政治家、一般市民までもが、それが当然のごとく麻痺し慣れきってしまっているようだ。今から、40 年以上前の昔の日本人にとって、言葉は不適切かもしれないが、そのような数学力や技術力で、それらの国々に日本が負けることは、屈辱的なことと誰もが感じていた。それほど日本のレベルは高かった。

これまでにも何度か指摘しているが、「ゆとり教育」に関するデータの誤用・濫用に基づく理系界隈のパニックは「ネトウヨ」と揶揄される人々の振る舞いにとても良く似ていると思う。思うのだがこれを認めた人はこれまでに一人もいない。

 

理科については、(表4)~(表 6)及び図表 4 で明らかなように、短期的には 04 年度を底に学力低下傾向に歯止めがかかり、2010 年度では上昇傾向に転じている。このことは、理科は数学よりはその傾向がややはっきりしており、PISA や TIMSS の国際学力推移とも概ね符合している。この背景には、数学でも同様だが、1995、96 年頃から学力低下への様々な警鐘による危機意識、2000 年~03 年にかけての遠山文部科学大臣による「学びのすすめ」「ゆとりから確かな学力へ」の提唱、04 年~05 年の中山文部科学大臣による、学力低下を初めて認めての「ゆとり教育」の抜本見直しや「全国一斉学力テスト」の約 40 年ぶりの再開、宿題の出題頻度を世界最低レベルから増加への転換、理数教科中心に発展的学習の段階的増加など、学校現場をはじめ、国や地方の学力向上への意識が高まった結果だと考える。

冒頭に掲載した「正体不明の『ゆとり教育』」でも同じことを書いているのだが、「2000年代のゆとり教育」の前後に学習調査を実施した人間は不思議なことに皆同じ解釈を採用している。つまり「90年代ゆとりから2000年代脱ゆとりへの転換」である。このことはもっと広まってもいいのではないか。中年世代に大反対されそうだが結果が出ているのだからしょうがないではないか。

 

70 年当時の理科教科書内容や授業時間数は豊富で、1 例を紹介すれば中学で学習する化学反応式の数は 53 個、95 年頃の教科書には 1/5 の 12個、02 年からの教科書には僅か1/10 の6 個である付表2)。漸く、学力低下問題の浮上で、最近理科学習内容が充実してきたが、それでも09 年度教科書での化学反応式は僅か 9 個と非常に少ない。日本の理数学力が、70 年代をピークに 60 年代から 80年代にかけて、世界トップレベルであり、その結果、70 年代から80 年代後半にかけ、日本の科学技術力が、如何に世界を席捲したかは前述の通りである。

教科書については書き出すと長くなるので簡単にまとめておくと、80年代以降の教科書のページ数と学習内容の多寡はさほど関連が無い。たとえば、77年改訂と98年改訂の小学校第六学年社会科は授業時数・学習単元ともに殆ど変化は無いにも関わらず、教科書のページ数だけが244ページから172ページへと約3割減少している*2。これは歯止め規定が原因である。

歯止め規定自体はもともと教科書のページ数を抑制するために導入されたものである。当初は「教科書検定基準」を設けることで教科書の記述内容を削減しようという案があったが、それでは教科書の検定基準と指導基準(学習指導要領)の二重基準になってしまう。そこで学習指導要領に歯止め規定を設け、それを検定基準に反映させることで教科書の記述内容削減を実現したという経緯がある。

実際に、歯止め規定が見直されたことによって教科書のページ数は増加している。指導要領が一部改正されたのは2004 年度のことであるが、翌2005 年度からは改正された指導要領に準拠した教科書が使われている。社会科教科書の場合、ページ数は172 ページから196 ページへと20 ページ以上増加した。もちろん、指導要領の一部改正によって授業時数が増加したり、学習内容に追加があったわけではない。ただ歯止め規定が見直されただけである。

補足すると、歯止め規定は2004 年度に一部改正され、指導要領の最低基準性を明確にしているが、現行指導要領となる08年改訂では歯止め規定の完全な廃止が決定されている。「脱ゆとり教育で教科書が○○ % 増加」という話はよく聞くが、教科書のページ数が増えたのは実際の学習内容が増えたことに加え、歯止め規定の廃止を反映していることも大きい。実際に08年改訂では、小学校第6 学年社会科の授業時数は5% しか増加していないが、教科書のページ数は20% 増加している。学習単元についてはほとんど変化がないにも関わらずである。

 

2.2.成績上位層と下位層の学力格差の拡がり

母集団に対する栄進館の塾生のデータが無いため何とも言えない。参考として①格差が拡大している層だけを恣意的に抜き出しているケースと②サブカテゴリの結果を合成すると正反対の結論が導かれるケースを紹介しておく。ちなみにベネッセの『学習基本調査』によれば2000年代以降、進学塾の通塾率が高まる一方で補習塾の通塾率は下がっている*3。これをそのまま栄進館のTZ~Aクラスに当てはめると、上位クラスほど層が厚く下位クラスほど層が薄くなるため当然に格差が拡大することになる。

hajk334.hatenablog.jp

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最近、「ゆとり教育」を推進してきた教育学者のなかに、「ゆとり教育」の効果や総合学習の成果が、漸く実りだしたから、PISA 等の国際学力が向上してきたと言う人達がいるかと思えば、「学力低下は錯覚である。」とか、「学力低下論“批判”」などの著書では、「学力低下なんて騒ぎすぎだった」とか「学力低下はないとか、錯覚だ」と言わんばかりである。著者は共通して文科省の息のかかった大学教育学部系の教授等、教育学者、国立教育政策研究所の研究員だ。

学習塾を運営しているお前が言うんかい。ついでに言うとPISA2009以降積極的に「ゆとり教育の失敗」と「脱ゆとり教育の成果」を喧伝しているのは文科省の方である。調査の設計者も報告書も日本での調査主体も「ゆとり教育PISAとの関連」を否定しているにも関わらず何故文科省の言うことを信じるのだろうか。*4

私は、実際に国が実施する学力テストのからくりを、国立教育研究所の幹部から聞いた事がある。学力テストの平均正答率は問題の難易度でどうにでも変わる。日本の場合、国も地方も、出題の難易度はおよそ目標正答率が 60%前後になるように設定されている。今の「ゆとり教育」下の学力テストは、低レベル削減カリキュラムに沿った易しい問題での想定通過率に基づき、学力テストの実施結果を出しており、学力推移を判断するには不適切である。同一問題によるテストでの定点観測でなければ学力推移の精度を著しく欠くのである。

「幹部から聞いたここだけの話」を論文に書くという大学1年生ですらやらない所業を恬として恥じないその面の皮の厚さはともかく、太字部分はその通りである。何故実践できないのか。同一問題とは当然にその結果も含めてである。ちなみに論文の後段では「全国学力調査は全員に受験させるべき」と主張しているのでIRTはおろか学力調査の基本思想についても良く理解していないではないかと思われる。以下の本をお勧めしたい。

 

 

また、苅谷剛彦東京大学教授が、岩波の「科学」、2000 年 10 月号、特集「日本の教育はどこに向かおうとしているのか」で、明確に中学生の学力低下を指摘している。(829~830 頁)それも文部省が学習指導要領改訂に際し、1995年~96 年に実施した“教育課程実施状況調査”のうち、何故か報告書の刊行されなかった中学3年生理科で、明確に同一問題部分で、学力低下が判明している。(文部省は、この時点で大学生の学力低下は認めつつ、義務教育段階での学力低下はないと公式見解を出していた時期である。)

その通りである。ちなみに2004年に実施された教育課程実施状況調査では中1社会及び中1数学を除いた全ての教科学年において前回を有意に上回る問題数が有意に下回る問題数よりも多いという良好な成績を示したのだが「文科省の実施した調査は信頼できない」という一言のもとに打ち捨てられたのは周知の通りである。

40 年前と今の中学生との数学力の驚くべき学力格差は、2-1の図表 1~図表 3 で報告の通り、疑う余地のない事実である。また、70 年当時の数学教科書内容と 02 年版教科書との難易度比較ができるように、共著「どうする理数力崩壊」に数例を記述済みなので、ここでは省くが、40 年前の理数教科書は分厚く、圧倒的に内容が豊富で難しく、文章問題、図形その他の証明問題が豊富だった。

アメリカで使用されている教科書は日本と比較して遥かに分厚く内容も豊富である。他方でPISA・TIMSSのいずれの年度・調査領域においてもアメリカが日本より好成績を示したことは一度も無い。ちなみに今の学校教育では教科書と問題集が分離されていることが通常である。

また、当館では学力推移の正確さを期すため、同一問題にて、学力テスト日を予告せずに抜き打ちで、実施してきた。

傾向と対策は受験の基本だと思うのですが。念のため再説しておくと調査に使われたテストは福岡県の高校入試問題である。

 

3.2.何としても食い止めなければならない、教育の負の連鎖

ゆとり教育」が 1980 年に始まって、早くも 30 年を経過し、ゆとり世代が父親や母親となり子育てや社会へ進出をしており、悪いが、不安を感じずにはおれない。付表3)、付表4)の「わが国の義務教育の変遷とゆとり教育の流れ」に、「ゆとり教育」の内容や特色、その他を時系列で記載しているが、「ゆとり教育」になってから、理数教科の学習内容削減に加えて、学校が勉強の場から遊びの場、楽しさだけを追求した「ゆるみ教育」となった。その結果大切な成長期の子ども達を、自己中心的で、ぬるま湯にどっぷりつからせ、厳しさを知らない、環境の中に置き、精神的な悪影響を与えてきた。

90年代に学生、特に高校・大学生の学習時間が激減したのは事実だし余暇時間が最長となったのも事実なのだが、2000年代以降はその傾向が一転しているのでいい加減日本社会は「ゆとり教育(世代)」という言葉の用法を統一してくれないか。個人的には詰め込大バッシングに端を発する80~90年代のゆとり賛美の時代が「真性ゆとり教育」時代、一転して90年代後半のゆとり大バッシングに始まるのが「反ゆとり教育」時代、指導要領の改訂も行われ名実ともに「脱ゆとり教育」時代となったのだが2010年代以降というのがしっくりくる区分だ。そうしたレッテル貼りと図式的理解自体がいかんのだというのはその通りなのだがどうせ複雑なことを言っても分からんではないか。

 

私が、特に印象的で奇異に感じたのは、1980 年は、私が当館を僅か 16 名
の生徒から、創業したばかりの頃であり、二人の息子がちょうど小学 4 年生、2 年生だったから、私が育った頃の教育に比べて余りにも、その違いに驚いた。また、私は、ある大手電器メーカーの新製品開発技術者、管理職を経験してきたばかりだったので、妻や保護者から聞く話と生徒達の言動から、健全な競争意識の欠落に驚いたり、実社会の常識から逸脱した公教育現場のぬるま湯に愕然とし、日本の科学技術力を衰退させるような教育が、しかも国の税金を使って何故行われているのかと、怒りが込み上げてきたことを鮮明に覚えている。

怒りは人を狂わせるので自制した方が良いだろう。巷でネトウヨと馬鹿にされる方々も本当に馬鹿なのではなく、ただ国家の危機という刺激に生存本能が過剰に反応しているだけなのである。

話は変わるが、「ゆとり教育」を進め、学習内容削減に大きく関わった人物の 1 人に触れる。90 年代半ば、中央教育審議会会長だった文筆家で文化人である三浦朱門氏と直接会い、02 年からの学習指導内容の大幅削減の資料(化学反応式の激減など)を見せて抗議した。すると、その削減振りには驚きながらも、彼は「日本はもう立派な経済大国になったんだから、今までのキャッチアップ型教育から、もう少しゆったり型のゆとり教育でいいと思うよ」との返答が返ってきた。

三浦朱門氏は教育者でも教育学者でもないので。

PISA(読解力)や TIMSS の国際学力比較でも、当館の調査でも、ほぼ同様の結果で、2003 年から 06 年前後にかけて、日本の義務教育史上最悪の理数学力レベルとなったことが判明した。02 年度から実施の文科省公言の「理数教科 30%削減」の数年前から、学力低下が表面化し、慌てた文科省は、10 年後の 2012 年からの学習指導要領改訂を待たずに、異例の学力向上の追加措置を行った結果、2000 年代後半の理数学力は前述の三つの調査結果でも、上昇傾向がみられるようになった。

PISAの結果は以下の記事にまとめてある。PISA2003・PISA2006における理数科目の得点はそもそも比較不能である。また、比較可能な部分に限定しても得点に有意な低下は見られない。TIMSSにおいて有意な低下が見られたのは小学校理科・中学校数学の分野だが、4年後の追跡調査では中学校理科で得点差は消失しており、中学校数学についてはゆとり教育の前・中・後のいずれも台湾・韓国・香港・シンガポールに次ぐ5位となっており甚大な変化は見られない*5。TIMSSは1995年、PISAは2000年からスタートしたため日本の義務教育史上最悪の得点であったのかは不明である。

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最後に、資源小国の宿命を背負い、少子高齢化の進行、先進国中最悪の借金国家など日本の未来は、考えただけでも空恐ろしい。それに加えて「ゆとり教育」世代の人口がやがて、働き盛り労働者の半分以上を占めるようになる。日本再生の道は極めて厳しいが、科学技術力発展と産業力の復興のため、理数教育のさらなる充実と優秀な人材教育のため、教育への国家予算の増額と総合的教育のレベル向上に努めることが重要である。

子供の学力と国力の関係を検証するのは簡単である。たとえばTIMSSの結果とWEFの世界競争力指数の順位相関係数を計算するとその値はほぼゼロとなる。こんなド文系の私ですら30分でできる単純な計算すらせずに国家の競争力と教育の関係を論じる自称技術畑の人間がいるだろうか。いやいない。ちなみにPISAの結果とはそこそこ相関があるらしい。PISAでは今の20代前半の世代が最高の成績を収めているため日本の未来は明るいに違いない。

 

 

*1:当該調査は2003年度・2004年度・2010年度の3年度に実施されている。

*2:計算に使用した教科書は東京書籍が発行したものであり,ページ数の情報は公益財団法人教科書研究センターの教科書目録情報データベースを利用した。

*3:同調査では2006年調査以降に勉強を「ほとんどしない」が減少しているため、これをもって格差が拡大しているとすることはできない。学校の授業や宿題などで「基礎・基本の徹底」が図られた結果と理解することも可能である。

*4: Wu, M. 2009. Issues in Large-scale Assessments, Keynote address presented at PROMS 2009, July 28-30, 2009, Hong Kong.

OECD 2016. PISA 2015 Results:Excellence and Equity in Education Volume I p.161, p.172

袰岩晶 2016. 『大規模教育調査とエビデンスに基づく政策』日本行動計量学会大会抄録集

*5:TIMSS1995からTIMSS2007の期間において前回調査との差の絶対値総和がもっと小さい国も日本である。言い換えれば「ゆとり教育」期間中に世界で最も得点が安定していた国が日本である。