若者論を研究するブログ

打ち捨てられた知性の墓場

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最近の若者は批判を嫌うのか

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東京外国語大の小野寺拓也講師(ドイツ現代史)は「皆で仲良くし、和を乱すべきではないと学んできた最近の大学生は『批判は良くない』と嫌う風潮がある」という。その上で「(安易に)白黒をつけるのではなく、考え続けることが大切。本音で議論できる場で、率直な意見を言い合う経験が必要だと伝えたい」と訴えている。

学究らしい知的誠実さに溢れた切実な訴えである。私が留置場の中で読んだ百田尚樹の本にも全く同じ事が書かれていた。この記事について、Twitter上で以下のようなやり取りがあった。

 

なるほど若者のみならず日本社会全般に敷衍される広範極まりない問題であったらしい。というわけで小野寺氏に以下のツイートを送った。

 

通知を切っているのか無視されているのかTwitter社の陰謀なのか知らないが返事が無かったので一人寂しく小野寺氏の主張を検討してみようと思う。

①「批判は良くないという風潮」は実在するのか

統計数理研究所が1953年より継続的に実施している『日本人の国民性調査』の結果から検討する。公開されている最新のデータが2013年調査のものと既に古くなっているが、他に適切な資料が無いためいたしかたない。上記の問いに多少なりとも答えられそうな設問は以下の三つである。

#2.1 しきたりに従うか
あなたは、自分が正しいと思えば世のしきたりに反しても、それをおし通すべきだと思いますか、それとも世間のしきたりに、従った方がまちがいないと思いますか?
1 おし通せ
2 従 え
3 場合による
4 その他[記入] 5 D.K.

全ての年代で「おし通せ」が減少し「場合による」が増加するという長期的な傾向が確認できる。1953年と2013年の20代を比較すると「おし通せ」「従え」「場合による」はそれぞれ27ポイントの減少、8ポイントの増加、23ポイントの増加となっている。

 

#2.2b スジかまるくか
[リスト]物事の「スジを通すこと」に重点をおく人と、物事を「まるくおさめること」に重点をおく人では、どちらがあなたの好きな“ひとがら”ですか?
1 「スジを通すこと」に重点をおく人
2 「まるくおさめること」に重点をおく人
3 その他[記入] 4 D.K.

1978年調査から登場する設問。基本的な傾向として中高年層よりも若年層の方が「スジを通すこと」の回答割合が高くなっているが、同年齢層の比較では2008年調査の結果を除き経年的な変化は無く安定的な推移である。

 

 #5.17 社会生活で注意しあう
[リスト]社会生活をするうえで、あなたはつぎのどちらがよいと思いますか?
1 自分では気がつかないことがあるから、お互いに注意しあう
2 自分自身はきちんとし、他人への注意はさしひかえる
3 その他[記入] 4 D.K.

20代を除く全ての年代で、前回調査と比較して「お互いに注意しあう」が減少し「他人への注意はさしひかえる」が増加しているが長期的に見れば大きな変化は無い。20代のみ、1973年調査時点と比較して「お互いに注意しあう」が10ポイント増加している。

 

というわけで、最近の若者(日本人)は馴れ合いを好むと主張したい人は「#2.1 しきたりに従うか」の結果を、時代は変わっても若者は変わらないと主張したい人は「#2.2b スジかまるくか」の結果を、東京外国語大の小野寺拓也講師(ドイツ現代史)の主張を否定したい人は「#5.17 社会生活で注意しあう」の結果だけを信じれば良い。統計とは便利なものである。

②最近の大学生は「皆で仲良くし、和を乱すべきではないと学んできた」のか

逆にこれを学ばなかった奴っているのか?形式的なものであれ実質的なものであれ「仲良くしなさい」なんて公私を問わず教育現場における常套句だと思うのだが。まあ氏の真意を察するにこれは「いかなる状況においてもとにかく盲目的に『仲良くすること』を強制されてきた」くらいに読むべきなのだろう。

こうした「最近の教育は盲目的○○(個性、平等、自由、協調)偏重が罷り通っている」という言説はここ100年ほど日本で大流行しているのだがその根拠が提示されることは稀である。むしろこのブログでも何度か紹介しているように、ベネッセの『学習指導基本調査』などの実態調査からは近年の学校教育が正反対の方向(画一・強制)へ進んでいることが確認できる。

それでは何故未だに小野寺さんのような勘違い野郎が後を絶たないのか、まあ率直に言ってデマが原因だろう。「運動会ではみんなで手をつないでゴール」だとか「最近の学校では競争を教えないことになった」だとか「2位じゃダメなんですか」とかそういう感じのアレだ。

勿論小野寺さんには小野寺さんなりの独自の理論と根拠があるのだろうし、仮にも大学の先生を軽々にデマを信じる馬鹿扱いするのは私も心苦しいのだが、私の無知故にこれ以上合理的な推論を思いつかないのでとりあえずそういうことにして話を進めよう。

皆で手をつないでゴール

デマである。根拠も糞も無い。単にそのような事実が確認できるような資料は現在のところ確認されていないと言っても良いのだが、一応このデマを真面目に調べた試みも存在する(注参照*1)。このデマについて、私が実際に自分の目で確認した中で最も古いのは次の記述である。国立教育研究所の木田宏によって「横並びの徒競走」のエピソードが語られている。

高校の先生から聞いた話だが、紛争の頃、運動会の一〇〇メートル競走で生徒がゴールの一歩手前で止まって一斉にゴールインするということがよくあった。そして、これは平等でしょうという。同じことを日本の学校は教室の中でやっているのと違うだろうか。

新教育課程と学校経営の課題(IV シンポジウム) 日本教行政学会年報 (7), 241-266, 1981-10-01

正確には「手をつないでゴール」では無いが、教育における悪平等の象徴として、運動会の徒競走における一斉ゴールが語られている点は同じである。この時点で既に伝聞、しかも学園紛争の頃にまで遡っていることは注目すべきである。

また、「手をつないでゴール」というエピソードは平等の肯定よりも競争主義の否定という側面がより強調されて語られることもある。そうした言説として私が確認した中で最も古いのは次の記述である。

 「競争主義の再点検を」
 ところで、私は不思議な話を聞いた。それは、日本のある地域の小中学校で生徒に対する採点をしないことに決めたというのである。何でも、その学校は、生徒の成績を五とか三とかの数字で表現するのは”差別”だと考えた先生がいるらしい。私にこの話を聞かせてくれた日本の大学教授は、さらに、その他の学校でも運動会に商品を出さぬ学校が増えていると説明した。
 これは明らかに競争原理の放棄であるが、私はかつて世界中でこれに類した話は聞いたことがない。

(中略)

 このような思想が蔓延して、日本の若者の間で競争意識の喪失が起こり、それが国全体の風潮となったとき、この愛すべき国は、きたるべき二十一世紀まで生き延びていけるのだろうか。
(中略)

 そういうときに”差別をなくす教育”と称して、少年少女から競争への意欲を取り上げるとは、日本人も平和と繁栄に呆けてしまったのだろうかと私は心配するのである。
ポール・ボネ, 『不思議の国ニッポン vol.3』, 1982,  角川文庫

角川文庫版しか持っていないので、もしかすると単行本には収録されていないかもしれない。文庫本が出版されたのは1982年、単行本が出版された年は不明だが著者あとがきの時期は1978年となっている。こちらでも、「競争主義の放棄」の象徴として運動会のエピソードが伝聞形式で挿入されている。ちなみにポール・ボネはフランス人ではない。れっきとした日本人であり、イザヤ・ベンダサンの亜種である。

付言しておくと、97年の第二次中教審答申では「平等」という言葉が15回出てくるが、その全てが否定的な文脈において使われている。これは当然であり、そもそもゆとり教育がその目的の一つとしていたのは、それまでの行き過ぎた・画一的な平等主義からの脱却である。

ちなみに、答申においては「平等」に対置する概念として「個性」が挙げられているのだが、どういうわけか悪平等と個性偏重を両立している人がしばしば見受けられる。どのように脳内で整合性を取っているのかは不明である。(ゆとり教育における「個性」についてはこちらのページを参照のこと)

補足

幼稚園の運動会などは例外である。言わずもがなではあるが、幼稚園においては「競争」という側面は殆ど重視されない。その理由は、第一に児童がその意味を理解できる程度に成熟していないこと、第二に生まれ月による影響が大きいこと、第三に保護者が競技結果を過重に受け止めかねないこと、第四に児童の発達段階的に往々にして競技が成立しないこと、等である。それ故、教員や保護者が児童の手を引くという事例は存在する。

同様の理由によって、障害児が参加する徒競走でも「手をつないでゴール」の存在が確認されている。

運動会、とっても楽しく見せていただきました。特に「二人は熱い仲」の競技は「なかよし学級」のお友達が、一生懸命、手をつないで走る姿を見て、とっても感動しました。竹組の子ども達も一緒に参加したことで、色々、学んだことが多かったと思います。 

高杉誠一, 2000, 競争から思いやりへ―学級通信の記録から―, 情緒障害教育研究紀要 (19), 58-60

補足2

「手を繋いでゴール」は未だ確認されていないが、「順位をつけない徒競走」は実在する。すぐ下の記述と重複してしまうのだが、89年改訂学習指導要領は競争主義的であると一部の教育関係者が受け止め、その反動として順位をつけない徒競走が90年代に流行したことがある(流行の度合いは不明)。これはNHKクローズアップ現代においても「競争のない運動会」として特集されている(1996年6月11日放送)。

この順位を明示しない徒競走は現在でも実施されている。Twitterで検索するとそれらしき報告談が複数確認されており、私もフォロワーさんから実例を教えてもらったことがある。できれば全国的な分布を知りたいのだが、(調査費用的な問題で)恐らく不可能なので、出来るだけ多くの実例を収集しているところである。

ゆとり教育では競争を教えない

逆である。何故このようなデマが広まったのかこちらが知りたいくらいなのだが、少なくとも教員の学習指導を直接的に拘束する学習指導要領を基準にすれば、98年改訂の学習指導要領はむしろ「競争主義的」とも批判された89年改訂をほぼそのまま引き継いだものであり、上で取り上げた「競争のない運動会」なども、それに対する反発として盛り上がった(とされた)という経緯があるのは以下の通りである。

1998年現在、学校5日制に対応する新学習指導要領の作成作業が進んでいる。その中で、教育実践現場では体育科の学習内容として、スポーツを本来の競技スポーツのありのまま、すなわち競争形式で実施する傾向が強まっている。その背景には、1989年改訂の学習指導要領による体育の学習指導では、競争を重視する方向が示されたことがあげられる。

その競争の重視傾向が学習指導に反映されている中、体育嫌いや運動嫌いなどの問題と競争、重要な学校行事である運動会の競争的種目と子どもの参加意欲、これらの関係に対する新たな議論が持ち上がっている。例えば、 1996年6月10日*2NHKがテレビで放送したクローズアップ現代の「競争のない運動会」。また、教育審議会第17回総会1997(平成 9)年 6月23日のある委員から「小学校で徒競走をやめてしまえとか、順番をつけるのはやめろとかいうのは、個性を伸ばすという点からいえば、まさに逆行」との発言があげられる。 

長津光雄, 1998, 体育の学習指導における競争の扱いに関する一考察, 体育科教育学研究 15(2), 1-8,

ただし、08年改訂以降の学習指導要領では再び競争主義的傾向が鳴りを潜めているのも事実である。1968年改訂以降の学習指導要領における小学校体育科の文言の変遷を実際に確認してみよう。

68年改訂・・・「競走では途中でやめないで最後まで走り通すことができるようにする(第二・第三学年)」「競争やゲームにおいて,規則を守り,最後まで努力する態度を養う(第三・第四学年)」「競争では,勝敗に対して正しい態度をとることができるようにする(第三・第四・第五・第六学年)」「競走では,遅れても途中でやめないで,最後まで走り通すこと(第四学年)」「競争やゲームで,規則を守り,最後まで努力し,勝敗の原因を考え,さらに進歩向上を図ろうとする態度を養う(第五・第六学年)」「競走では,勝敗にこだわらず,最後までがんばること(第五・第六学年」

基本部分は重複させつつ「途中でやめないで最後まで走りとおす」→「遅れても途中でやめないで最後まで走りとおす」、「競争やゲームにおいて、規則を守り、最後まで努力する」→「競争やゲームで,規則を守り,最後まで努力し,勝敗の原因を考え,さらに進歩向上を図ろうとする態度を養う」と発展していく形である。内容としては「勝敗にこだわらず」に象徴されているように、競争それ自体よりも自己修養が眼目である。

77年改訂・・・「互いに協力して練習や競争ができるようにし,競争では,勝敗に対して正しい態度がとれるようにする(第五・第六学年)」

これだけである。「競争」に関わる文言が大幅に削除されている。当時は「詰込み教育」が大バッシングを受け、代わって「ゆとりのある教育」が諸手を挙げて歓迎されていた時代でもある。そしてそれによって蓄積された教育学者達の怨念が爆発するのが20数年後のこと…ちなみに小野寺氏は1975年生まれなのでこの指導要領の下に教育を受けた世代である。

89年改訂・・・「(諸々の運動について)他人との競争、いろいろな課題への取組などを行うとともに、体の基本的な動きや各種の運動の基礎となる動きができるようにする(第一・第二・第三・第四学年)」「己の能力に通した課題をもって次の運動を行い、その技能を身に付け、競争したり、記録を高めたりすることができるようにする(第五・第六学年)」「互いに協力して、計画的に練習や競争ができるようにし、競争では、勝敗に対して正しい態度がとれるようにする(第五・第六学年)」

77年改訂に「競争」の文言を挿入した内容となっている。たとえば、77年改訂では「(諸々の運動によって)体の基本的な動きを身につけ,各種の運動の基礎となるよりよい動きができるようにする」となっているが、89年改訂ではここにわざわざ「他人との競争」が付け加えられている。77年改訂と比較すると競争志向に振れたのが浮き彫りとなっている。

98年改訂・・・「(諸々の運動について)仲間との競争,いろいろな課題への取組などを楽しく行うとともに,体の基本的な動きや各種の運動の基礎となる動きができるようにする(第一・第二・第三・第四学年)」「競争や運動の仕方を知り,活動を工夫することができるようにする(第一・第二学年)」「競争や運動の仕方の課題をもち,運動の楽しさを求めて活動を工夫することができるようにする(第三・第四学年)」「自己の能力に適した課題をもって次の運動を行い,その技能を身に付け,競争したり,記録を高めたりすることができるようにする(第五・第六学年)」「互いに協力して安全に練習や競争ができるようにするとともに,競争では,勝敗に対して正しい態度がとれるようにする(第五・第六学年)

89年改訂とほぼ同様であるが、違いは次の通りである。
「他人との競争」が「仲間との競争」に変更
「競争や運動の仕方(を知り,課題をもち)以下略」の追加
「互いに協力して、計画的に」が「互いに協力して安全に」に変更

「他人」が「仲間」になっているが単に健全な表現になったというべきだろう。ただし、この記述の変更に気付き、かつそれを実践した体育教師がどれほどいたか、定かではない。

08年改訂・・・「自己の能力に適した課題をもち,動きを身に付けるための活動や競争の仕方を工夫できるようにする(第三・第四学年)」「自己の能力に適した課題の解決の仕方,競争や記録への挑戦の仕方を工夫できるようにする(第五・第六学年)」

再び「競争」に関する文言が大幅に削除され、77年改訂並みに簡素な記述となっている。仮に指導要領の文言が児童・生徒の心性を直接的に規定するならば、今の大学生世代は小野寺世代並みに競争心に欠け他人との軋轢を忌避する世代ということになる。氏の懸念はもっともである。ちなみに68年改訂から08年改訂に至るまで「他人と仲良くする」ことはいずれの指導要領にも共通して記述されている。

2位じゃダメなんですか

蓮舫と教育には何の関連も無い