若者論を研究するブログ

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若者論の構造②―二極化する若者論

前回

若者論はありとあらゆる道徳的語彙といいがかり資源の組み合わせでつくられている。その必然的帰結として,若者論は常に一貫した体系を持っているわけではなく,しばしば若者論同士が矛盾する関係にたつこともある。

たとえば,内藤の言う「凶悪系言説」と「情けな系言説」はその典型である。グッドマンも同様に,日本の若者論を「まるで不協和音を発するかのような複数の主張」(前掲 p.48)と表現している。筆者が作成した表においても,「勇気」から導かれる言説が,脆弱で内向的・逃避的な人物像を描くのに対し,「正義」から導かれる言説では,尊大で傲慢,傍若無人な人物像が描かれている。

自己中心的でわがままな子どもが増えたのか,他人の顔色をうかがう受け身な子どもが増えたのか,二つの主張は一見すると相反する主張に思える。自然に考えれば,両者の間で議論があってもおかしくはない。両者が争ってくれれば,若者論など放っておいても落ち着くところに落ち着くのではないか。

しかしそうはならない。一見して矛盾・対立しているように見える言説でも,若者論の世界では不思議なことに深刻な対立とはならないのである。「凶悪系論者」と「情けな系論者」が真剣に議論を闘わせることはない。両者は時に不干渉を貫き,時に手を取り合うことで若者論という枠組みの中で共存しているのである。

そうしたことが可能になるのは,両者が一見対立関係にあるように見えて,その実,同じ認識を共有しているからだ。

それは「自分たちは普通である」という認識だ。攻撃的な若者が増えたと言われれば,誰しもそれが問題であると直感する。他方,受け身な若者が増えたと言われても,やはり同じように問題だと感じてしまうものである。そうした直感が両立するのは,意識的にせよ無意識的にせよ,自分は攻撃的でも受け身でもない「普通の」人間であるという認識をもっているからに他ならない。

多くの若者論では基準が明示されることはない。性的モラルの崩壊を嘆く人間が「最適なセックス」の時期を教えてくれることはないし,最近の子どもは友達が多い,或いは少ないと言って問題視する人間が「最適な友達の数」を大真面目に分析することはない。基準が明示されないのは,それが当人にとって自明であるからだ。つまり,自己の経験がその基準なのである。

大学生でセックスを経験した人間にとって,高校生のセックスは性的モラルの崩壊であり,哀れな中年童貞は草食系男子のなれの果てである。五人の友人と楽しく少年時代を過ごした人間にとって,二人しか友達がいない人間は当然のごとくコミュニケーション能力に問題があり,十人も友達がいる人間は,それはそれでコミュニケーション能力に問題がある。十人も友達がいれば,薄く浅い友達づきあいしかできないからだ。

誰しも自分はまともだと思っているし,自分の人生経験というものは肯定的にしか語られない。それが本人の糧になっているのであれば,他人がとやかく言う問題ではないかもしれないが,逆もまたしかりである。

依存・離れ言説

自己の経験を無批判に基準化してしまうのは誰しもが陥る間違いだろうが,同時に若者論の顕著な特徴でもある。それが最も典型的に現れるのが「依存・離れ」言説である。若者のスマホ依存,テレビ離れ,ゲーム依存,アルコール離れなど,現代では様々な依存・離れ言説が日々生み出されている。

これらの依存・離れ言説の多くは,新聞や週刊誌,テレビなどのマス・メディアを通じて生産されるため,必然的に問題として主題化されることが多い。若者がゲームに依存するのは,現実と向き合えずに仮想の世界へ逃避する若者が増えたことが原因であり,若者のアルコール離れが深刻化しているのは,飲み会などの付き合いを嫌う「ゆとり(さとり)」が増えたからである。

しかし,依存・離れ言説に逆の視点が含まれることは稀である。余暇の大半をテレビ視聴に費やすことの問題性が議論されることもなければ,スマートフォンに生理的嫌悪をもよおす人間の病理が解明されることもない。依存・離れ言説論者にとっての基準とは,無前提的に自分たちのことであり,その基準が省みられることはほとんどない。若者論の辞書に自省という言葉は存在しないのである。

つまり,若者が何かに依存していることも,何かから離れていることも,その割合すらも本当の問題ではない。「われわれとは違う若者がいる」という事実こそが,若者論者にとっては何より真の問題であり娯楽なのである*1「依存」であるのか,「離れ」であるのかというのは,単に方向性の違いでしかない。

二極化・二面性言説

自分たちが「普通」であるという認識を共有しているからこそ,若者論は対立することがない。自分たちの主張とは異なる主張をする若者論者は,打倒するべき論敵なのではなく,かえって自分たちとは違う若者と闘う盟友なのである。

そのため,往々にして相反する若者論はまったく干渉しないか,或いは,相互に自説を強化しあうような関係をとり結ぶ。その際に多用されるのが,二極化・二面性というロジックである。一つ具体的な主張を見てみよう。生地新(2000)は現代(20年前)の大学生に見られる病理を次のように指摘している。

大学の保健管理センターに来談する学生たちの中で,自己愛の病理が問題となるケースが増えてきたという印象がある。(中略)彼らの万能で尊大な自己像の背後に,傷ついた無力な自己像が隠されている(生地 2000 p.191)。

このような自己愛的な青年の増加は,親の養育態度や子育て文化の変化や科学技術の進歩に伴う錯覚,子どもを取り巻く社会の価値の変化などが関係していると著者は考えている。現代の日本の社会では,子どもたちは,身体を通じた手触りのある体験や規範や伝統を伝えられるよりも,親の自己愛の延長として期待され,「過保護に」育てられる傾向があるように思われる。少子化がこの傾向を助長しているとも思われる。


そして,科学技術の進歩やエンターテイメントの産業の肥大化は,子どもたちから「歯ごたえ・手触り」の体験を奪い,バーチャル・リアリティの体験ばかり提供している。(中略)現代の親子関係は,ひどくべっとりとした相互依存関係か,ものを介した情緒に欠けた関係が多くなってきているようにも思われる。こうした状況の中で,子どもたちは自己愛的な空想の世界に閉じこもるようになっているようにみえる(同上 p.195)。

親の甘やかし,脱自然,少子化,バーチャル,娯楽の氾濫,全てがこの短い文章の中に詰め込まれている。もし,これが5年後に書かれていればインターネットとゆとり教育が加えられていたに違いない。しかし何より注目すべきは,この論説には二極化言説と二面性言説が共に含まれているという点である。

現代の青少年の自己愛が肥大化しているのは,「ひどくべったりとした相互依存関係」と「ものを介した情緒に欠けた関係」という二極化した親子関係が原因であり,彼らの自己愛には「万能で尊大な自己像」と「傷ついた無力な自己像」という二面性が隠されているのである。その声は我が友李徴子ではないか?

二極化,二面性言説は簡捷な議論を好む人には使い勝手が良い。第一に,この戦略をとれば自説の多様性が簡単に確保できる。若者を十把一絡げにする若者論といっても,自説が全ての若者に当てはまると思っている若者論者はそう多くはないはずだ。少子化といっても年間百万以上の子どもが生まれているのだ。どんな若者論であろうと,それに当てはまらない集団は確実に存在する。

そうであれば,若者の実像を把握するために必要なのは,若者の多様性を掬い上げることができるような実証調査である。しかし,二極化・二面性言説であればそのような面倒な手続きは必要ではない。

二極化言説ならば,仮に自説とは反対の主張があっても対立することはない。自分が問題としているのは「こちら」の若者であり、相手が問題としているのは「あちら」の若者だからである。或いは二面性言説ならば,自説と矛盾するような言説は,矛盾するどころかそのまま自説の根拠となりうる。

たとえば,「暴力的な子どもが増えている」という主張と,「大人しい子どもが増えている」という主張は真っ向から対立しているように見えるが,二面性言説においては「内向的な現代の子どもはキレると手がつけられない。少年犯罪の凶悪化がまた実証されてしまった」ということになる。

性の二極化言説

「性行動の低年齢化」はありふれた若者論である。年端もいかない少女がセックスをするという言説にロマンを感じるのか,本当に若者の性的乱れを憂慮しているのかは知らないが,「若者の性的乱れ」は若者論の中では盛んに主張されてきたものの一つである*2

しかし,近年では「草食系男子」に代表されるように若者のセックス離れとでも言うべき現象が報告され始めている。そのため,性行動の低年齢化言説が未だに根強い支持を得ている一方,現在は性の二極化論が台頭し始めている。つまり,未成熟なままセックスをする早熟な人間と,いつまでもセックスをしようとしない草食な人間の両極に分かれ始めているらしい。

週間ダイヤモンドの第100巻12号では『早熟と草食に二極化する女子中高生の“性の実態”』という刺激的なタイトルの特集が組まれている。同誌によれば,娘が日ごろ何を考え,どんな日常を過ごしているのかを知ることで,娘との関係をこじらせないための特集とのことである。こんな特集を真に受ける父親が娘にとっては何よりの絶望であり,不和の原因となるのではないか。

この特集では,二極化の実例として「初体験までの交際期間」の表を載せている。出典は『男女の生活と意識に関する調査』*3である。下表は,同誌に掲載された「19歳以下女性の性交に至るまでの交際期間」の推移,下図は,その中で二極化しているとされた第5回調査(2010年)の結果をグラフにしたものである。

二極化とは一体。筆者の理解が正しければ「極」というのは分布の峰(ピーク)のことを意味しているはずだ。二極化とはすなわち,二峰性の分布だということである。グラフの一つ目のピークは「1年未満」にある。二つ目のピークはどこに消えたのか。

つまり,若者論者の想定する「二極化」とはこういうことなのである。

ちなみに,同特集では「ゆとり世代は競争よりも協調が大事だと教えられてきた」というゆとり言説が唐突に登場する。なんでも,あるコミュニティサイトに登録している女子中高生に対し,「なぜ場合によってキャラを変えるのか」と尋ねた結果,「人間関係がスムーズになるから」「みんなで盛り上がれるから」という回答率が高かったことが根拠らしい。

年齢による効果,時代による効果,性別による効果,他集団のデータ,経年比較のための過去のデータ,標本集団の代表性,設問の妥当性,調査手法の信頼性,全てを乗り越え「ゆとり」に飛びつく言わばゆとり脳とでも言うべきこの現象の責任は報告書もまともに読めない理系の学者連中にこそあるという話は長くなるのでまた今度にしよう。

参考文献

生地新 (2000) 「現代の大学生における自己愛の病理」 『心身医学』 40巻3号 pp.191-197
小谷敏編 (1993) 「若者論を読む」 世界思想社
「早熟と草食に二極化する女子中高生の''性の実態''」 (2012) 『週刊ダイヤモンド』 100巻12号 pp.46-49
ロジャー・グッドマン/井本由紀/トゥーッカ・トイボネン[編著] 井本由紀[監訳] 西川美樹[訳] (2013) 『若者問題の社会学―視線と射程』 明石書店

*1:問題として捉え自己との同化を望む若者論を矯正的若者論、娯楽として捉えむしろ差異を強調する若者論を娯楽的若者論と呼ぶ。今考えた。

*2:若者論の特徴の一つは,その対象が男性に限定されていることである(小谷 1993 p.234)。一方,性の低年齢化言説は女性が対象にされることが多く,若者論としては比較的珍しい部類に入る。おそらく,特徴的な行動を見せる女性の場合,その原因が年齢ではなく性別に回収されやすいのだろう。
或いは小谷が可能性として提示しているように,若者論自体が「マッチョでセクシスト的」なジャンルなのかもしれない。たとえば,若者の幼稚化言説では時として,「現代の若者は女・子ども化している」と主張される。ここでいう若者とは無前提的に男性が想定されている。

*3:同調査は2002年に第1回調査が実施され,以降は2年ごとに実施されている。2002年から2010年の第5回調査までは,厚生労働科学研究費補助金による研究事業として行われ,その成果は厚生労働科学研究成果データベースで確認することができる。また,2012年に行われた第6回調査からは日本家族計画協会が独自に実施している。

デマを訂正するコストについて

一般に、デマが拡散する容易さとは対照的にその訂正はきわめて難しいとされている。その主因の一つは、面白おかしい、衝撃的なデマ情報に比べ、訂正情報は往々にしてつまらないからである。しかも自らの誤りを認めることになるため、デマを拡散した主体は訂正情報の拡散に非協力的となる。

もう一つの主因は、デマを訂正する側に発生する種々のコストである。そのコストは大まかに1.調査コスト2.説明コスト3.心理的コスト4.数的コストの四つに分けられる。本稿ではこの四つのコストを詳述する。折よく新しいデマに遭遇したので、この事例を都度参照しながら書いてみよう。

1. 調査コスト

まず第一に発生するのは、その情報がデマであるかどうか確認する調査に係るコストである。この調査コストは分散が大きく、殆ど0の場合(既にデマだと知っている場合)から、莫大な労力を要するもの(e.g."日本人は欧米に比べ集団主義的である")まで幅広く分布している。

ただし、デマの訂正において調査コストがネックとなることは余りない。多くのデマは数分、ものによっては数十秒あればデマであることを確認できる事例であり、にもかかわらずデマを訂正する試みはことごとく失敗に終わるからである。

コムケイの場合は小程度のコストだろうか。筆者は合格者の名前がどこに掲載されているか知っていたため、確認に係るコストは限りなく0に近かったが、そうでない場合は何を検索すれば良いか少し迷ってしまうかもしれない。

一瞬の逡巡でもあればそれが実行に移される確率は限りなく低くなる。私が訂正ツイートをするまでに約2500ほどのいいねが付いていたが、これはつまり彼らの誰一人として真偽を確かめようとしなかったということだ。

ちなみに何故覚えているのかというと、どれだけ訂正されようと(この後すぐにツイート主も訂正ツイートをしている)、このツイートが消されない限りどこまでも拡散すると確信していたからだ。訂正されてからの差分を示すことでデマを訂正する困難さを示そうという趣旨だった

のだが、私の思っている以上に伸びた。当該ツイートが投稿された約30時間後の現在、このツイートには約4.3万件のいいねがついている。これに対し、ツイート主の訂正ツイートに対するいいねは2000件強である*1つまり、訂正情報の約20倍はデマ情報が拡散された計算になる。

話が逸れたが、デマを訂正しようとする主体にとって調査コストは余り問題にならない。むしろ問題となるのはその調査の結果を受け取る側である。彼らに少しでも調査コストを要求すればデマを訂正する試みは失敗に終わる*2。なんとなれば、デマを訂正する試みはデマが拡散するシステムを利用するほかなく、そのためには何らの主体的動作も要しない、一目で理解できる分かりやすい情報が必要とされるからである。

2. 説明コスト

読んで字のごとく説明に係るコストだが、これは1の調査コストと相関している。つまり調査に要するコストが増えれば増えるほど、説明するコストも増える傾向にある。これは説明という行為が、自分が結論へ到達するまでの道のりを他者に再体験させる行為であると考えれば納得がいく。

しかし、調査コストの場合と同じく、説明コストはデマを訂正する側ではなく、訂正される側がより強く感じるようになっている。訂正する側は何らかの信念に基づいているため説明に負担を感じないことも多いが、他方、説明される側にとってそれは単に自分の誤りが暴かれる不快な体験でしかない。

一般に、その仕事が難しければ難しいほど、その報酬も大きくなるべきだと素朴に信じられている。デマを訂正するという行為はこの一般的な信念に反している。そこでは調べるのが難しければ難しいほど、説明するのも難しくなり、したがってその説明を聞き入れる人は少なくなってゆく。

コムケイの場合はどうかというと、説明するコストは殆ど0に近い。単に画像が合成であることを伝え、(確認しないだろうが)実際の合格者名簿のリンクでも張れば終わりである。うっかりデマ画像を信じてしまうことは誰にでもあるだろうし、それほど恥ずべきことでもない。

にもかかわらず、デマ情報を信じる人が絶えなかったのは、1で説明した通り、クリック(タップ)してリプライを確認するという僅かな作業を要求したからである。デマを訂正する側は(相手に負担させる)調査コスト、説明コスト共に0にしなければならないが、それは極めて難しい。

ただし、一定の場合には説明コストを省略することができる。それは何がしかの権威がお墨付きを与えた場合である。たとえば、日本心理学会が「血液型性格診断はニセ科学である」と公表すれば、多くの人は日本心理学会の権威によってそれが事実であると認識する。この場合は説明が不要であり、デマを訂正する側はどの権威が味方になっているのかを知らせるだけで良い。

この点において研究者の責任は極めて大きい。研究者による承認は世間においては最高位の信頼が与えられているからである。特に、テレビに出演したり一般向けの書籍を執筆する研究者*3にはこれ以上ない良識と能力が要求されなければならない。現状そうなってはいないのは残念である。

3. 心理的コスト

一般に、他者と議論を闘わせることを好む人は少ない。これは議論によって生じると予想される様々な不利益―侮蔑や嘲笑、誹謗中傷、なかんずく自分の意見をまげなければならない事態―を恐れているからである。

デマを訂正するという行為は、必然的に意見の異なる他者を相手に、正にその異なる意見が間違っていると伝える行為だ。そこに衝突が生じることは殆ど不可避であり、どれだけ丁重に伝えても好意的な反応が返ってくることは稀である。

こうした他者との衝突によって生じる心理的コストは、人によっては甚大なものとなる。そこでコストを低減する何らかの仕組みが必要なのだが、残念ながら現在に至るまでそうした仕組みはつくられていない。したがって、この点に関しては個々人のレジリエンスに恃むしかない。

ただし、SNSが発達した現代においては必ずしも他者と闘う必要はない。十分な数のフォロワーがいれば彼らに向けて情報を発信すれば良い。デマを終息させるために必要なのは、直接相手を説き伏せることではなく、大多数の第三者を味方につけることだ。相手が間違っているという「空気」が醸成された時が、デマが事実に敗北した時である。

4. 数的コスト

説明不要だろう。コムケイの事例を引けば4.5万人(書いている内に増えた)がデマに騙されたということであり、彼ら全員に事実を説明してまわるコストを個人が負うのは不可能である。しかし、デマを訂正するためにはこちらも何らかの手段で数万、数十万の人に事実を伝えなければならない。

この「何らかの手段」はマスコミを措いて他にない。この点においてマスコミの責任は極めて大きい。数百万、数千万の人に一瞬にして情報を伝える彼らの力は、現代社会においては無上の武器である。デマを訂正するには彼らの力を借りるしかない。

しかし、多くの人にとってはこれも現実的には不可能な手段だろう。残された唯一の方法は、先述したように、十分な数のフォロワーに事実の拡散を願うことである。ただし、これが上手くいく可能性は相当に低い。大抵の人は「十分な数のフォロワー」を持っていないし、持っていても彼らが拡散に協力してくれる保証はないからだ。

したがって、市井の人がデマに遭遇した時、できることは何もない。せいぜい0.1%の人に事実を説明して反発されるのが関の山である。デマを訂正するのが難しいのは、何よりこの莫大な数的コストを解決する手段が無いからだ。少なくとも現時点では無いし、将来的にできるとも筆者の貧弱な脳味噌では思えない。

まとめ

デマを訂正するという行為には甚大なコストが要求されるのですが、それを受け入れてもデマを訂正することはできないということです。それでもやろうとするならば相当の覚悟が必要です。私は修行だと思ってやっています。おわり。

*1:私に対しては30件ほど。

*2:たとえば、URLを張りつけて「この先に事実が書かれている!」といくら喧伝しても(それが事実であっても)その情報は拡散されない。

*3:Twitterで管を巻いている研究者を加えても良い。

いまこそ活かせ “いま時の若いもの”の力 申すまじ“青二才”/高橋大将談

 若い者は(判読不能)よくやつてゐる。こんどの戦争で若い人のほんとうの力をいくども私たちは見た、日本の歴史をふりかへつてみてもわかるごとく、歴史を創るものは常に若い人の力である〔…略…〕では銃後はどうであるか、(判読不能)維新の際御奉公の中心となつたのも若い人であつた、かく(判読不能)あるひは歴史の激動期における若き力の役割の偉大さを疑ふものはもはや一人もないだろう、さう思つて銃後を見るときこれでいヽといへるだらうか、私は機會あるごとに"いまの戦を勝抜くものは君らだ"と若い人に呼びかける、これは同時に"若いものを眞に働かしめよ"といふ世の中への(判読不能)へでもあるのだ、もちろん銃後の若い人たちは眞剣にやつてゐる、だがこの若い力を世の中は果して存分に働かせてゐるだらうか、私の歯痒さはここにある。

 若さにみち/\た人と老境の人とをくらべては、なんといつても若い人の精神、肉體が勝つてゐる〔…略…〕もちろん老人といつても全部が全部おいぼれではない、中には體も丈夫で、精神も溌剌として"なにをいふ、若いものに負けるものか"とりきむ者もあるだらう、しかしなんとしても萬難を排除してゆくあの気概は若いものの前に兜をぬぐだらう、歴史を大きく回復するものはこの力である、いふまでもなく老人にもすぐれたところはある、例へば若いものヽとかく陥り易い軽挙、(判読不能)をためる力である。

 きびしい(判読不能)の段階はいまやこの両者の結びつきを早急に求めてゐる、どんな結びつきか、それは若い立派な人を各方面の重要な位置に据ゑ、老人は若い人の缺點を補つてこれを補佐する、いはば相談役となつて御奉公するやうな態勢にすることである、もはや、いやいまこそかくすべき(判読不能)そしてここで考へなければならぬことは"あいつは若いから、あいつは経験が浅いから、あいつは(判読不能)がないから…" "青二才どもが、何をするものぞ…"とすぐ言ひたがる日本人の癖をサラリとすてることだ"いま時の若いものはなどと口はばつたきことは…"と山本元帥もいつてゐられるではないか。

讀賣報知 1945.01.19

私の立場について

これは今まで詳細に書いたことが無かった(必要とは思われなかった)ので、改めて書いてみようと思う。


先日、円周率デマを材料に「自分の信念に反する事実をつきつけられた人間の振る舞い」を調べたのだが、その中の一人、ジョンたか先生という方が私とのやり取りの中で最終的に上のようなツイートを送ってきた*1。一見すると追い詰められた頭阿Qの断末魔に見えて、実は結構核心を突いている*2

私は(主張が相反する)他人とやり取りする時、帰謬論法を使うことが多い。つまり自分の意見は見せずに、ただ相手の誤りを指摘するという論法である。こうしたやり口は嫌われることも多いのだが、龍樹以来、二千年近くにわたって使用されてきた由緒正しい論法である。

私が良く(誤りを指摘した)他人から「何が言いたいのか分からない」と言われる原因の一つは恐らくここにある。この直観は正しく、実際、私は何も言おうとしていない。よく若者の擁護者であるとか、ゆとり教育を肯定していると勘違いされることが多いのだが、私はそうした発言を一切しない。

ただし、意見を持っていないわけではない。特に、ゆとり教育に関する私の見解は(一見して)かなり特殊だと思われるので、ここで改めて書いてみようという趣旨である。

まずは時系列である。私の「ゆとり教育」に対する認識は一般的なそれから一つずれている。具体的に書けば、90年代以前は「ゆとり的」教育が特に批判もされずに横行していた時代であり、00年代は(90年代後半から始まる)ゆとり教育批判によって「反ゆとり的」教育が奨励された時代であり、10年代は学習指導要領の改訂によって名実ともに「脱ゆとり的」教育が実施された時代である、という認識である。

この認識自体は特に目新しいものではない。詳細は以下の記事を参照してほしいのだが、ベネッセ教育調査や苅谷・志水調査の調査者達はこの解釈を採用している。記事中ではその恣意性を批判しているものの、私の考えも彼らと同様である。

さて、私の考えが特殊であるのは時系列にあるのではなく、むしろ原因の部分にある。具体的に言えば、私は00年代に起こった事象(学習時間増加、学習習慣改善)が、「ゆとり教育」の結果なのか、「反ゆとり教育」の結果なのか、どちらであるのかについて余り興味が無い。

単に興味が無いだけでなく、これは原理的に決定不可能な事柄である。たとえば、学習時間の増加を考えてみよう。(何らかの魔術的手段によって)その原因が宿題の増加、更にその原因の原因が「学びのすすめ」にあることまで分かったとしよう。で、これはゆとり教育の結果だろうか、それとも反ゆとり教育の結果だろうか。

これを決定するのは事実上不可能だ。「学びのすすめ」は文科省によればゆとり教育の周知徹底が目的とされており、他方、一部の論者によればこれはゆとり教育の撤回を示しているとされる。これは他の事柄でも同じである。学習習慣の改善がゆとり教育の成功を示していると主張する人がいれば、それこそゆとり教育から脱却した動かぬ証拠だと主張する人もいるだろう。

つまり、ゆとり教育か反ゆとり教育かという問題は、単に事実に対してラベルを貼る作業に過ぎず、そうした作業に私は余り興味が無いという話である。この態度は相手にとって混乱の元となっているらしく*3、これも私が「何が言いたいのか分からない」原因の一つであろうと思う。

なので冒頭のツイートはそれほどおかしなことを言っているわけではない。少なくとも私にとってはそうである。誰かがゆとり教育だと言えばそれはゆとり教育なのであり、脱ゆとり教育だと言えばそれは脱ゆとり教育なのである。私が問題にするのは、それが彼の中で本当に一貫しているかどうかだ。していれば何も言わないし(たまに言う)、していなければ批判する、それが私の立場である。

*1:以下のまとめの感想を聞いた後のツイートである。
文科省の言い分を信じて文科省を批判する不思議な人達について - Togetter

*2:「同じ話」というのは円周率デマを信じていた教員が大多数ならばそれはデマではないという主張のこと。本記事ではジョンたか先生のツイートを限りなく好意的に解釈しているが、この主張に関しては擁護不能である。

*3:一例を以下に示す。
corydalisさんについて - 若者論を研究するブログ

敵対的コミュニーケションによる説得効果について:円周率デマを例に

まあ説得できるわけないよね、という話で終わるんですが、後学のための事例集です。
今年の円周率の日は前日にワクチン接種を受けたこともあり、デマの訂正はbotに任せる予定だったのですが、いつの間にやらbotが止まっていたので結局人力になりました。計30アカウントほどにリプライを送り、返信がきたのは以下の11アカウントです。長くなるので個々の事例は折りたたんでいますが、ごく簡単な短評だけ付しておきます。

所感

今年は若干煽り気味の文言を使いましたが、これまでの経験からすると押しても引いても脅しても賺しても(無視が増減するだけで)結果は変わりません。まあ不覚にもデータをとっていないのですが…それにしても年々中高生が増えていきますね。今年は半分くらい中高生だった気がします。まあ卑下するよりは元気があって良いでしょう。

一体われわれは何を見ているのか

 イギリス首相を注目している人たちのうち、英語を読むことのできない人が何百万もいる。文字は読めても理解できない人がさらに何百万もいる。読みも理解もできる人たちのなかでもゆうに四分の三の人たちが、この言葉のために一日三十分以内しか使っていないと思われる。たったそれだけの時間で自分のものとした言葉が、この人たちにとっては一連の思考全体を解く糸口であり、最終的にはそれに基づいて無数にある結果のうちの一つが選ばれることになる。われわれが読む言葉は、さまざまの考えをわれわれに呼び起こす。そしてそれが必然的にわれわれの意見の第一次資料の大部分を構成するのである。世界は広大であり、われわれに関わってくる状況は錯綜しており、伝えられてくるものは少ない。したがって、意見の大部分は想像の中で組み立てられなければならない。

W.リップマン, 1922 『世論』 掛川訳, 1987

どうやらわれわれが見ている「現実」は常に括弧つきで表記されなければならないものらしい、ということはリップマンが同書のエピグラフに選んだプラトンの"洞窟の比喩"以来、洋の東西古今を問わず数多の賢哲が同様の洞察を得てきた。そして近年では主に社会心理学認知心理学、或いは進化心理学行動経済学といった諸領域において研究が進められている…

いるんですが、なんかそれ以前の問題じゃねぇ?と思うことがブログを書いていてしばしばあります。というのはつまり、構築主義とか二重過程理論とか、そういう小賢しい話をする前に、本当に目の前のものが見えていないというか、3秒考えれば分かることが分からないというか…まあリップマンも「読むことのできない人」「読めても理解できない人」が相当数いると書いてますからね。

といっても別に彼らが特別アホだから分からないのだとか、或いは自らの思想信条によって現実を捻じ曲げているのだとか、そういう話をしたいわけではなく、なんというか、われわれ人間の現実認識能力というものは本当にお粗末なんだよ、それを自覚しておこうね、と、そういう話をしたいのです。まあ何を言ってるんだか良く分からないと思うのでいくつか実例を挙げていきましょうか…

ヒトの目、驚異の進化 視覚革命が文明を生んだ

まずは比較的理解可能な事例から紹介します。この記事を簡単に説明しますと、とある記事において若年層右傾化の証拠として示されていた表が、実はそのまま読んでも何のこっちゃ分からん表だった、ということを説明したものです。元記事のリンクが切れているようなので、ここでその表を再掲しておきましょう。

f:id:HaJK334:20220303130135p:plain

この表をどう見ますかね。見方が分からなくとも「リベラル層は年齢が高い層に多く、保守的傾向はデジタルネイティブ層に見られた結果となっている」なんて一文を付されたらなんか段々そういう感じに見えてきましたね。たとえばG,Hのリベラル列を見てください。若年層(35歳以下)と中高年層(36歳以上)でなんと最大30ポイントも差が付いています…!

ということはなくてですね、実際には以下の表が、恐らく大方の人が最初の表を見た時にそれと誤認したもの、つまり「各年代に占める各政治クラスタの割合」です。最初の表から受ける印象とは随分異なるんじゃないでしょうか。もちろん、最初の表からこの表の数値が導かれたわけですが、一瞥しただけで暗算できる人はそれほど多くないはずです。

f:id:HaJK334:20210205132426p:plain

また、この表には他にも不思議な点があります。たとえば、(表頭除く)表の2行目から4行目、「保守/リベラル」の項目を見てください。え?そもそも1行目が保守/リベラルの分布じゃないの?意味わかんなくない?Gなんてリベラルなのに保守の方が多いじゃん、って思いませんか。私は思いました。

詳しくは上掲の記事を参照してほしいのですが、この表の意味を理解するにはMFT(Moral Foundations Theory=道徳基盤理論)という理論の知識が必須となります。しかし元記事ではこのMFTについて一切説明がありません。つまり、大方の人にとってこの表はなんだかよく分からない表でしかなかったはずです。

にもかかわらず、(800人弱にブックマークされ200人以上がコメントしたこの記事の)表に対する疑問はおろか、言及すら一切ありませんでした。彼らは一体この表に何を見い出していたのでしょうか。

現実を変えたいあなたへ: 自分が望むパラレルワールドに移行する方法

まあ最初の事例はまだしも理解可能です…世の中の大半の人にとって図表というものはただの飾りでしょうし、なにより筆者の主張自体は(多少不正確ですが)正しいからです。

ですが今回は違います。文字通り無から有が生み出されてしまった神話的事例です。上の記事はネットに蔓延しているなぞの「IQ世界ランキング」を解説したものなのですが、その中の一つ、カラパイアに掲載された以下の記事が、私に自らの正気を疑わせました。

このカラパイアの記事では日本の平均IQは105であり、世界3位となったことを紹介しています。続いて学生の国別IQランキング*1も紹介しているのですが、そこでも日本の学生は平均IQ105で世界3位となっています。そして、コメント欄では複数の人が日本の低迷を「ゆとり教育」や特定の世代*2と関連付けています。一体わたしは何を見ているのでしょうか…

この事態をパラレルワールドの存在以外によって説明するならば、恐らく彼らは「日本に追いつき追い越せで奮励する中韓ゆとり教育で自滅していく日本」のような物語、或いはイメージをあらかじめ持っていたのではないでしょうか。それに断片的に合致する情報(韓国・香港の順位が日本より上)を見た時、彼らの脳内には殆ど自動的に、かかる物語が呼び出されてしまったのでしょう。

なるほど彼らの誤りは現実的に解釈することが出来るかもしれません。しかし、200件弱のコメントの中でこの誤りを指摘するものが一つとしてなかったという事実(私のコメント除く)はどう解釈するべきでしょうか。狂っているのは俺か、世界か…?余談ですが最近アマプラでジョーカーを観ました。面白かったです。

1日5分! オトナのためのやりなおし算数ドリル

私はよく他人の意見を「糞の役にも立たない感想文」「n=1ですらない電波妄言」「ノイズ」「ゴミ」と罵ってしまう悪癖があるのですが、今回の事例を見れば少しは私の悪行もご寛恕いただけるやもしれません。事の発端はすももさんの以下のツイートでした。


このツイートがバズり、Togetterやはてなブックマークのコメント欄では喧々諤々の議論となっていたのですが、いつものように自分で調べると死んでしまう呪いにかけられた人のために、各属性をクロスした統計表をつくっていた時のことです。私は不思議なコメントに出会いました。


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この手の話題で元の資料に当たる人はオオサンショウウオ並みのレア度です。気持ち悪いですが大事に保護しなければなりません。私も感心して読んでいたのですが、どうにも書かれていることが理解できません。

もう一度、すももさんが引用したグラフを見てみましょう。このグラフでは「未婚/男性」「有配偶/男性」「未婚/女性」「有配偶/女性」の幸福度について、それぞれ目測で0.55~0.60、1.00~1.05、1.25~1.30、1.20~1.25となっています。

他方、@dronesubscriberさんによれば「男性の既婚者は年齢によってあまり変わらず、未婚者は35歳以下で低い(1.46)という結果になりました」とあります。未婚/男性の平均幸福度は0.55~0.60なのですから、私の目か頭がイカレていない限り、これはあり得ない結果です。(女性の結果もおかしいですが微差なのでスルーします。ちなみに本当は独身の高齢男性がぶっちぎりで低いです)

というわけで、@dronesubscriberさんに一体どのような手法で計算されたものか聞いてみたのですが、残念なことにお返事はいただけませんでした。ちなみに、1000件を超えるコメントの中で私と同じ疑問を抱いた方は一人もいませんでした(ソースが不明だと指摘した方は一人いました。「いいね」は一つも付いていませんでした)。
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結語

一体われわれは何を見ているのでしょうか。ここに挙げた事例はいずれも、特別な注意や複雑な作業を要せずともその誤りに気づけるものです。ちなみにこういう事例ああいう事例は特別な注意や複雑な作業に分類されます。大半の人にとって出典を調べるというのはどうやら極めて知的負荷の高い作業だからです。私も諦めています。ですがここに挙げた事例はどうでしょう、何か特別な資質が必要でしょうか。

注意しなければならないのは、これらの事例から誤った教訓を導いてしまうことです。世の中には馬鹿しかいないと斜に構えたところで糞の役にも立ちません。われわれがなすべきなのは、人間の理性とはかくもお粗末なものであり、そのお粗末な理性によって構築されたわれわれの「現実」もまたお粗末なものであると自覚することです。自覚したところで賢くなるわけではありませんが、少なくとも幼稚な自己憐憫よりは役に立つことうけあいです。

*1:単なる誤訳であり実際は学生のIQデータではない。

*2:コメントによれば「やたらと多いなんとかの世代」が平均を引き下げているらしい。

Wikipediaの学力低下が酷すぎる件について

※文字通りです。

以前、Wikipediaの「学力低下」のページが酷いという記事を書きました。

問題点は既に修正したのですが、何が酷かったのかと言えば全く架空の調査結果が捏造されていたことです(そしてそれが学力低下の"証拠"とされていました)。詳細は上掲の記事を参照してほしいのですが、ここでも簡単に説明すると、2013年に実施された志水宏吉らによる学力調査の結果が、実際の結果とは正反対に記述されていました。しかもやけに具体的な謎の数字のおまけ付です(もちろん出典は示されていません)。

と、いうわけで問題点に気づいた私( ID:Yamataro555)はWikipediaの理念に従って粛々と修正したわけですが、今日ふと気になって「学力低下」のページを見ると、何故か私が修正・追記した部分が綺麗に削除されていました。削除されたのは3日前、削除したのはそれまでに投稿記録の無いユーザーです(ID:サマムガ)。

この時点では「学力低下論者が無駄なあがきをしおって…」くらいに思っていたのですが、他にサマムガさんが変更した箇所は無いか調べていると、2021年度の「全国テスト調査」の結果を追記していることが分かりました。

これがそのスクリーンショットです。
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ちなみにですが、90年代から毎年実施されている経年比較可能な全国学力調査は存在しません。[11]という何やらそれらしい脚注番号が付されていますが、出典元の資料にも一切全く出てこない架空の調査です。前回編集した時はこの謎調査の存在に不覚ながら気づいていませんでした。勿論即刻削除です。

で、思うのはですね、一体この手の捏造をする人は何が目的なんだろうと。学力向上を示す記述を削除しているからてっきり学力低下論者かと思いきや、それとは反対に2000年代の学力向上(捏造)を示す記述を補強したりと、何がしたいのかまるで分かりません。敢えて言うなら2010年代以降の学力低下を示したい人なんでしょうか、うーん、わからん…

まあいずれにしたところで全く架空の調査が二つも捏造されていたのは事実でして、恐ろしいのはそれが本当に事実なのか、原典に当たらない限り第三者には分からないということです。もしかすると、今こうしてこんな記事を書いている私こそが事実を捏造しているのかもしれません。というわけで私がWikipediaで引用した部分の画像を以下に載せておきます。
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もちろんこの画像も捏造された可能性はあるのですが、その時はいっそ私の労力を褒めてください。

あー…やっぱりサマムガさんは最近の子どもの学力が低下したと言いたいのですかね…今目の前で編集されましたよ。こんな感じです。
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「年齢が上がるにつれて~再び学力低下となった」って…そもそも志水調査とPISA調査は全く別の調査なんですが。「学力」という唯一固有の実体があると思っているのですかねこの人は…それに過去最低と言ってもPISA2018とPISA2003-2006は有意差がないし、そもそも読解力と数学的リテラシーについては過去最低じゃない…と思ったらPISA2018の数値も改竄されていました。

出典を確認する人間は千人に一人もいないという教訓を後世に遺すため改竄されたPISA2018の数値はそのままにしておきます。ちなみに「学力低下」の10倍以上のアクセス数を誇る「ゆとり教育」のページでも同じ改竄が行われていました。万人に一人もいなかったようです。もう終わりだよこの国。

追記

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アホらしくなったので後は任せます