100年後くらいに役に立つかもしれない。著作権フリーです。
1章「ゆとり教育で学習時間は減少したのか」
していない。面倒なことは抜かして結果だけを説明する。児童・生徒の学習時間において最も信頼のおける統計は「社会生活基本調査」の学業時間であるが、この統計では2000年代以降、即ちゆとり教育が開始されて以降それまでの減少傾向が反転しており、H23年調査の時点では小中高において一日あたり20分ほど学業時間が伸びている(小学校ではこの年から08年改訂実施)。また、こうした学習時間増加の流れは通塾率の高まりや一部の高学力層の動向では説明できず、ベネッセの学習基本調査を読む限りでは家庭学習時間の増加が、さらに教師側に対する調査である学習指導基本調査からはゆとり教育以降の「宿題の増加」こそが学習時間増加の要因であったことが明らかになる。
2章「ゆとり教育で学習内容は減少したのか」
次いで学習内容の削減についてである。初めに断っておくと、本章では具体的な削減内容については一部の事例を除き殆ど説明していない。できないからである。第一に学習内容を定量的に評価することが困難であること、第二に指導要領が示す学習内容には配当時数が設定されていないこと、第三に指導要領と実際の指導実態が乖離していることがその理由である。他にも理由はあるのだが詳細は本文に譲ろう。したがって、2章では主に「三割削減説」の誤りを明らかにすることに主眼を置く。三割削減はいわば文部省の「口約束」であり、実際の学習内容の削減は抽象的な「歯止め規定」によって、現場の教師の裁量に任されていた。さらに、ゆとり教育の実施から一年後にはこの歯止め規定も見直されており、したがって「学習内容の三割削減」を担保するものはなにもない。
3章「『ゆとり的教育観』は実在したのか」
本稿の白眉である。それだけに元論文では冗長な内容になっていたのだが、ここでは泣く泣く内容を削り、ゆとり教育における個性・自主性の尊重に焦点を当てる。一般にはゆとり教育の象徴とされる個性・自主性の尊重も、その原因と手段と結果、つまりゆとり教育の理念と、それを具体化する諸制度と、教員による実践を精査すれば、そのいずれの段階においても俗説とは正反対の事実が示されていることがわかる。この章は本稿に通底する「2000年代こそが『反ゆとり教育』の時代である」という仮説を裏付けるものでもある。
4章「学力低下は『証明』されたのか(前編)」
前章が本書の白眉であるならばこちらは屋台骨である。結論から言えば、学力低下は証明されていない。それどころかあれほど騒がれたPISAに至っては、ゆとり教育が学力向上の要因であると説明した方が自然なくらいである。というか報告書ではそう説明されている。しかしPISAやTIMSSなどの学力調査の結果は周知の通り、「ゆとり教育の失敗」「脱ゆとり教育の成果」の根拠として認識されているのが現状である。そこで、4章ではそうした認識が生まれる構造を示す。つまり、「ゆとり世代の学力低下」を実証するとされる学力調査の多くは、実際には「ゆとり世代とゆとり世代」を比較しているに過ぎず、そのため調査の結果がどちらに転んでも「ゆとり教育の弊害」「脱ゆとり教育の成果」と言いうる構造がゆとり教育言説には存在していることを明らかにする。
5章「学力低下は『証明』されたのか(後編)」
最後に、PISAやTIMSSにおける得点の変化が本当にゆとり教育と関連付けられるのか、その影響は俗説が主張するように甚大なものであるのかを検証する。結論は否である。そもそも、PISA・TIMSSを通覧しても理数科目の学力低下は殆ど確認できない。唯一ゆとり教育と関連付けられそうなものはTIMSSの第8学年の数学のみであり、その数学にしたところでTIMSS1995からTIMSS2015までの5回の調査いずれにおいても日本の順位は韓国・台湾・香港・シンガポールに次ぐ5位である。つまり、この20年間、前ゆとり・ゆとり・脱ゆとりと指導要領が変遷していった中で、理数科目における日本の国際的地位は高水準で安定していたのである。
問題となるのがPISAにおける「読解力の低下」である。これについて梗概では次の2点を説明するに留める。第一に、PISA2003における読解力得点の低下はテスト設計の変更によるものである可能性が高い。第二に、PISAにおける読解力低下を実体視するとしても、PISA2006以降の全ての調査がゆとり教育との関連を否定している。この2点である。これについては大要を説明するだけでもそれなりの分量となってしまうため、是非本文を読んで確かめて頂きたい。
本稿を読む上で
最後に、本稿を読む上での補助線を一本引いておきたい。この補助線は物事をやや単純化しすぎている嫌いがあり、そのため本文中はあえて前面に出さなかったのだが、本稿はゆとり教育を簡略に説明するという狙いがあるのだからあえて示そう。つまり、2000年代のゆとり教育は「反ゆとり教育」であり、翻って90年代の教育こそが「真ゆとり教育」である。加えて言えば2010年代の教育は名実ともに「脱ゆとり教育」だ。
仮にもゆとり言説を批判的に検証する人間としては中々に気が引ける言明なのだが、これは本稿を読む上では実に有用な視座でもある。この「ゆとり」「反ゆとり」「脱ゆとり」という一連の流れは、各種教育統計の動きや教育施策の流れとも実に整合的であるからだ。また、それにも関わらず、一般にはこれが全く認識されていないという事実は、ゆとり言説の虚構性を強く示唆することになるからである。