「確率」と「確立」について
今の子は「確率」と「確立」の違いが分からない?
驚き桃の木山椒の木である。「確率」と「確立」なんて超が付くほど典型的なあるある誤変換だろ…と思っていたのだが反応を見るにこれを「混同している」「間違って覚えている」と認識している人が相当数いて驚いてしまった。ちなみに人間の脳の漢字変換システムはMS-IMEと大して変わらないので、ネットかリアルかを問わず発生する間違いである。最古の事例をGoogle Booksで簡単に確認すると、1956年の北海道大学文学部紀要第5号に「確率」と表記すべきところ「確立」としている例が見られた(しかも2回)。
YouTubeと読書離れが原因?
人間の認知システムとは恐ろしく単純なもので、「日がな一日スマホでYouTubeを眺めている子供」というイメージを本気で信じている人は多いかもしれないが、これは事実ではない。OECDのPISA調査でも確認されている通り、日本の子供のインターネット利用時間は世界最低水準であり、総務省が実施した「令和元年度情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査」によれば、10代のテレビ視聴時間と動画投稿・共有サイトの利用時間に殆ど差は無い(それぞれ109分, 115分)。
読書離れについてはさらに実態が無い。全国学校図書館協議会と毎日新聞が1954年から実施している「学校読書調査」では、2000年代以降に児童・生徒の読書率が大幅に増加しており、この20年間はほぼ高止まりの状態にある。読書離れ(大学生)の根拠として引用されることが多い「学生生活実態調査」では、当然ながら大学進学率の上昇等は考慮されていない。加えて、同調査では読書時間とスマホ時間に関連は無かったことが報告されている。
また、総務省が実施している「社会生活基本調査」では20年前と比較して大学生の1日当たり平均学業時間は50分以上増加しているため、勉強が忙しくて読書する時間が取れない(そもそも読書が勉強のためだとすれば本分に立ち返ったともいえる)と考えた方がまだしも合理的だと思うのだが、この至って常識的な考察はネットでも現実でもまずお目にかからない。20年以上前は読書離れに限らずあらゆる事象が"子供の勉強疲れ"や"受験戦争"と安易に関連付けられていたことを思えば世間というのは本当にテキトーなものである。
間違いも増えたが正解も増えた?
たとえば「なろう小説」の流行を嘆く人が近年小説を読む子供が大幅に増加した事実を知らずにお粗末な読者分析をうっかり披露してしまうように、ネットやYouTubeによって誤変換が増えたという事実(ということにしておく)から直ちに「今の子は漢字もろくに扱えない」という結論を導いてしまう事例が後を絶たない。が、これは論理の飛躍である。今の若者が触れる文字情報の量は過去の世代と比較して大幅に増加している可能性があるからだ。
たとえば、上にも挙げた「情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査」では年代別・メディア別・利用目的別の利用時間が調べられているが、令和元年度調査の10代と50代を比較すると、ネットの総利用時間(並行利用含む・休日)は10代が316分、50代が115分、その内ネット動画(VOD含む)とネット通話を除いた利用時間はそれぞれ174分、92分となっている。ちなみに、20, 30, 40代の利用時間はそれぞれ186分, 117分, 77分である。
動画サイトを除くインターネットの大半が文字情報をベースとしていることを考えれば、ネット利用によって語彙の総量が増えると考えるのは決して不合理ではない。そして、文字ベースのインターネット利用時間の長い若年層ほど獲得する語彙が増えると考えるのは、少なくともYouTubeのせいで誤変換が増えたという主張よりは幾分かマシな考えだろう。
日本語能力の向上にIT機器やインターネットが寄与するのは、単にその文字情報量の多さによるものばかりではないと考えられる。たとえば、文化庁の「平成21年度国語に関する世論調査」では、「漢字が読めないときの調べる手段」という問いに対し、20代は「本の形になっている辞書」が15.5%, 「携帯の漢字変換」が43.1%, 「インターネット上の辞書」が29.3%となっているのに対し, 60代以上ではそれぞれ32.7%, 8.6%, 4.5%となっている。
一方、「調べない」は20代が24.1%であるのに対し、60代以上では47.2%となっている。携帯の漢字変換やインターネット上の辞書の方が簡便な為に利用率が高まる、というのはやや皮相な見方だと思うが、少なくともそれに矛盾しない結果だ。ちなみに、学校教育で教えられる必修漢字の量も881字(1948年)→996字(1968年)→1006字(1989年)→1026字(2017年)と戦後順調に増え続けているのだが、これを根拠として日本人の漢字能力の向上を主張する人がいないのは不思議な事である。
何故"間違った認識"が生じるのか
確率と確立を混同している若者が存在しているかは分からないが(恐らく一人はいるだろう)、少なくとも「確率と確立を混同している若者が存在していると信じている人」がいるのは直ちに観測可能な事実だ。これは若者論に限らずあらゆる言説分析に通底する視点であり、不確かな事実に基づいて妄想を展開するよりも、まず確かな事実に基づいて分析を進めるのが健全な知性のあり様というものである。
ところで、元のTogetterまとめやはてブの反応を見ていると、意外にも「読書離れ」を原因として挙げている人が少ないことに気付く。つまり、読書習慣がYouTubeの視聴に取って代わられたという主張は存外に少なく、それよりも漫画やテレビがYouTubeに置き換えられたという主張の方が多い。これは一体何を意味しているのか。単に読書よりも漫画やテレビの方がYouTubeに近い性質を持っているから、という単純な説明でも良いのだが、ここでは敢えて一つ捻った仮説、もとい妄想を提示してみたい。
読書離れの末路
最近の子供の発育が良いという事実は無いにもかかわらず「最近の女子高生は発育が良くてけしからん」とほざく性欲丸出しのおっさんがいたりテレビの長時間視聴により睡眠時間と寿命を削りながら「最近の若者はスマホばかりで睡眠不足だ」と主張する高齢者がいるように、若者論はその対象となる若者よりも、むしろそれを語る側の実態を浮き彫りにすることが多い。もしかすると、YouTubeの隆盛が読書よりもテレビや漫画との比較で語られることが多いのは、今の中年世代が若者だった頃に読書習慣を持っていなかったことの反映かもしれない。
たとえば、若者の読書離れを巡る議論では「読書習慣のある人ほど若者の読書離れを信じやすい」という指摘が度々なされており(水野 1980, 清水 2015)、これはある程度実証的にも示されている(Protzko & Schooler 2019)。そこで仮に、読書習慣の代わりに漫画やテレビにばかり親しんでいた人がいるとするならば、恐らくこの人は読書離れよりもむしろ漫画やテレビ離れを強く信じると予想することができる。近年の読書離れ言説は、書籍はおろか「漫画すら」「映画の字幕すら」読めないという主張が増えているが、これは若者の劣化ではなく、語る側の劣化を示しているのかもしれない。
以下のグラフは、学校読書調査による小中高生の不読率の長期推移である。2000年代以降に子供の読書率が大幅に増加したことは既に述べたが、この事実と同様に知られていないのは、80-90年代には実際に読書離れが進行していたという事実である。面白いことに、中高生の読書離れがピークに達した1997年は出版部数・売上のピークでもあり、以降、出版界の動向と子供の読書率は見事に負の相関を示している。
また、上述の「社会生活基本調査」でも、学生の平均学業時間は96年調査・01年調査が最低となっており、学業を含む社会生活を営む上で義務的な性格の強い「二次活動時間」は01年調査が最低、それら以外の活動で各人の自由時間における「三次活動時間」は01年調査が最高の数値を示している。16年調査と比較すると、10代後半(通学者)の二次活動時間(一日当たり)は46分増加し、三次活動時間は49分減少した。有体に言ってしまえば、20年前の学生が遊んでいた時間を今の学生は勉学の時間に充てているということである。
まとめ
以上、近年の"文字離れ"に関する議論の中で混乱が生じやすい部分について整理を試みた。第一に、一般に思われているほど子供のYouTube視聴時間は長くはなく、テレビ視聴時間と同程度である。また、"読書離れ"には実態がない。第二に、誤変換や誤読の増加は直ちに日本語能力の低下と結びつけられやすいが、これはIT機器やインターネットが日本語能力の向上に寄与する側面を無視している。第三に、近年若者の読書離れ言説が"劣化"しているのは、若者の劣化を示しているのではなく、それを語る側の劣化を示しているのかもしれない。意見反論お気持ち絶賛募集中である。
引用・参考文献
清水 一彦(2015)「若者の読書離れ」という"常識"の構成と受容 『出版研究』45巻, 117-138
全国学生生活協同組合連合会(2018)「第53回学生生活実態調査の概要報告」
https://www.univcoop.or.jp/press/life/report53.html
総務省(2020)「令和元年度 情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査」
https://www.soumu.go.jp/iicp/research/results/media_usage-time.html
文化庁(2010)「平成21年度国語に関する世論調査」
https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/index.html
水野 博介(1980)「活字離れ」論ノート 『桃山学院大学社会学論集』14巻1号, 55-66.
OECD. (2019) PISA 2018 Results COMBINED EXECUTIVE SUMMARIES
Protzko, J., & Schooler, J. W. (2019) Kids these days: Why the youth of today seem lacking. Science Advances, 5(10),