若者論を研究するブログ

打ち捨てられた知性の墓場

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若者論の危機

若者論の意義

(恐らくは)古代から今日に至るまで、連綿として繰り返されてきた若者論の存在意義とは何か。私は若者論の逆機能とでも言うべき現象がその一つであると思っている。ここでいう逆機能とは、若者論において特定の若者像が強調されるほど、当の若者の実態がそのイメージから乖離していく現象のことだ。たとえば、90年代後半から2000年代前半に猖獗を極めた「少年犯罪の増加」という言説に反して、2000年代半ば以降に少年犯罪は減少を続け、現在では戦後最低を毎年のように更新している。

この現象に大した裏付けがあるわけではない。むしろ、ラベリング理論や予言の自己成就、ピグマリオン効果等々、他者の認識によってこそ自らの行動が規定されるとする理論は多い。ここで言いたいのは、若者論が逆機能を持っていない限り、その存在意義は無に等しいか、或いは有害でさえあるということだ。たとえば、「子供の読書離れ」が叫ばれた結果、多くの学校では朝の読書運動が導入され、それにより2000年代半ば以降に児童・生徒の読書習慣は大きく改善している。これは若者論の逆機能によって社会が改善された一例だ。

加うるに、若者論の変遷を追っていくと、性交経験率の低下や消費性向の低下、或いは自動車保有率の低下等々、近年の若年層に特有とされる諸問題は、いずれもその直前に全く正反対の事態が問題視されていたことが分かる。草食化の前には「若者の性の乱れ」が、嫌消費世代の前には「大衆消費社会の弊害」が、クルマ離れの前には「交通戦争」が解決すべき社会問題とされていたのである。もし、これらの変化に若者論が多少なりとも寄与していたのであれば、それこそが社会における若者論の存在意義ではないか。

存在意義を失った若者論

然るに、そうした社会的意義の一切を放棄した若者論も存在する。次のような主張だ。 

これが恐らく30代以上の人間によって書かれたかと思うと、その思考と文体の幼稚さに眩暈がする。というのはただの感想なので、まずは事実を検討するところから始めよう。

一瞬で消費できる作品を好んで(プラットフォームの時間の奪い合いだから仕方ないかもしれんが)

シコ以上の価値の無い萌え系やエロやフェティッシズムを好み

ナチュラルに冷笑してて弱者や女子供、外人やボランティアを蔑んで

ひろゆきみたいなクズ系インフルエンサーばっか崇拝して

ウヨの字幕動画やオリラジ中田の動画で間違った歴史を覚えて

ソシャゲでギャンブルもどき嗜んで

ネットのやり過ぎである。いずれもまとめブログで描かれるような若者像であり、実証的根拠は殆ど無い。"一瞬で消費できる作品"が何を指しているのか定かではないが、たとえば漫画と小説の対比ならば、今の10-20代は30-40代よりも遥かに読書量が多い世代である(学校読書調査)。というよりも、今の30-40代は前後の世代と比較して突出して読書量が少ない世代だ。"シコ以上の~を好み"とあるが、性欲を満たしてくれるものは人間にとって至上の価値がある。なお、若年期に性行動が最も活発化したのは今の30-40代である(青少年の性行動調査)。

"ナチュラルに冷笑~蔑んで"とあるが、社会生活基本調査によれば、ボランティア行動者率は50代以上で増加、それ以下の年代で減少しており、中でも30-40代の減少率が最も大きい*1。"ひろゆきみたいな~ばっか崇拝して"とあるが、件の調査におけるひろゆきの得票率は約2%であり、崇敬の念を抱いているかは問うていない。また、他の年代に対する調査が実施されていない以上比較は出来ない。

"ウヨの字幕動画やオリラジ中田の動画で間違った歴史を覚えて"とあるが、『ネット右翼とは何か』によれば、40代以上の全ての年齢層において「年齢」がネトウヨの規定要因として有意になっている。結果として、最もネトウヨが多いのが40代、最も少ないのが20代となっている。"ソシャゲでギャンブルもどき嗜んで"とあるが、いみじくも増田の指摘する通り、ソシャゲとギャンブルは大差がない。競馬や競輪等の公営競技やパチンコの売上が減少し続けていることはレジャー白書に示されるとおりである。

こんなのがデフォの今の若者って明らかに「クズ」だよね? 

連中の為に俺たちが身銭切って「若者に住みよい社会」=「老人に居心地の悪い社会」

なんて作っていきたいか? 

アイツらの好きな社会にしたらそれこそ民主主義なんて紙切れみたいなもんだろ

したがって、増田の基準に照らしてどちらが「クズ」なのかと問われれば、現在の中年世代が「クズ」であるということになる。もちろん、クズだからといって社会的包摂から排除してよいことにならない。

ホントにさ、テレビや雑誌、小説で育った世代とは違うよ

ネットの影響力は今までの牧歌的メディアより遥に強すぎるもん

え? 昭和はヤンキーとか居たって? でもソイツらSNSや発信手段持ってなかったじゃん

田舎でちっさい人生終えるだけだったからほとんど影響なんてなかったよ(バカだから選挙もいかんしな)

今はどんな底辺でもコンテンツになって(というか底辺ほどコンテンツとして強いな)

高学歴すらこのマインドに影響されて、ノブレスオブリージュなんて言葉吹きとんじまったじゃん

先述の通り、今の中年世代(だけ)は小説で育っていない。ネットの影響力が強いのは同意するが、だからこそ情報教育も受けずにネットに触れてしまった中年世代のリテラシーが問題にされるべきだ。2000年代のネット空間が人種差別・性差別・年齢差別・ホモフォビアで溢れていたことを忘れて誇らしげにネット強者面している中年もいる。"このマインド"がどのマインドを指すのかは不明だが、日本の歴代興行収入1位の映画はノブレス・オブリージュの尊さを描いた作品である。やや古い調査となってしまうが、日本人の国民性調査では若年層の利己主義的傾向は明らかに減退している。

若者論の危機

事実の検討はこれくらいにして、若者論の意義というところに話を戻そう。少なくとも80年代までの若者論は、それがどんなものであるにせよ、その根底には必ず「社会と青年の架橋」という視座があった。それは未だ成熟していない青年を社会の成員として取り込む試みでもあれば、若者の「新しい価値観」に社会の変革を期待する眼差しでもあった。それが90年代以降、若者の劣化言説が広まる中で失われていった云々という話は後藤和智の『「あいつらは自分たちとは違う」病』(日本図書センター 2013)を参照していただくとして、ついに来るところまで来てしまった。

後続世代のために社会資源を残す必要は無いと公言し、あまつさえそれを「あいつらがクズだから」と言ってのけるのだから言葉も無い。思うに、増田は若者を異常だと思う以上に、自分達のことを「まとも」な世代だと思っているのではないか。それなりに勤勉で、それなりに道徳心があって、それなりに教養も備えた一般的常識人…残念ながらそのような事実はない。少なくとも、学業時間が最低を記録したのは90年代後半であり(社会生活基本調査)、少年犯罪は80年代前半にそのピークに達した。90年代前半には中学生の半数以上が月に1冊も本を読まなかったのも今は昔である。

とまれ、若者論の未来のためにも、増田のような主張は看過できない。若者論から社会的視座を奪ってしまえば、後に残るのは糞の役にも立たない糞そのものである。この記事を読んで一人でも多くのおっさん*2我が身を省みてくれれば幸いだ。

 

 

 

*1:社会生活基本調査において「ボランティア活動」が調査項目に導入されたのは平成13年調査以降

*2:小谷(1992)によれば、若者論というジャンルの中で女性が対象となることは驚くほど少ない。これについては私も全く同じことを感じており、その理由の一つして、若者論者の多くは男性に偏っているからだと考えている