十五歳になった途端に大人になる?
近世では(数え)十五歳で元服を迎え一人前の大人として扱われるようになる、というのが通俗的な近世の成人年齢に対するイメージだと思われる。確かに、当時は階級・地域を問わず概ね十五歳で元服(或いはそれに準ずる儀式)が行われていたのは事実だが、その内実は一般にイメージされるように、立ちどころに一人前の成人としての扱いを受けられるものでは無かった。
ところで、社会的に統一された「若者」が生み出されたのは、もちろん明治期の青年団に遡ることができるわけだが、その源流は近世の各村落に自然発生した「若者連*1」である。十五歳というのは元服を迎える年齢であると同時に、多くの村落においてはこの若者連への加入資格を得る年齢でもあった。
若者論へ加入することによる責務・権利はその自然発生的経緯からして当然にその土地や村落の状況により異なるのだが、概ね次の三つの要素①祭祀の執行②公共的労働への従事③性交・妻帯の許可はいずれの若者連にも共通していたと考えられている。而して、若者連へ加入することで直ちにこれらの責務・権利が十分に与えられたわけではない。
長幼の序を教えるための若者連
むしろ、若者連へ入ること(或いは元服)は、大人としての階段を上り始める、その第一歩として位置付けた方が適切である。若者連は単に若者の集合体を指すのみならず、長幼の序を教えるための教育制度でもあり、それを証するように若者連には年齢によってその役柄・名称を異にする事例が多数確認されている。
たとえば、福島県石城郡草野村大字北神谷では、十五歳となった男子は酒一升を携えて若者組に加入する。而して二十歳までは「小若衆」と称して使い走りの用を命じられ、二十五歳で「中若衆」となり、三十歳で「世話人」となり、三十五歳で脱退する定めとなっていた(中山太郎, 1925, 『日本若者史』, p.31)。
また、同郡の他村落では年齢によって十五歳を世話人、十六歳を若水、十七歳を大将、十八歳を後見と称して区別しており、最も勢力のある大将が世話人・若水を使役する関係にあったという(同上, pp.31-32)。同様の事例は他の地域でも確認されており、若者連へ加入してからの数年間において、村落共同体への忠誠とそのしきたりを教え込むのが若者連共通の機能であったことが窺える。
案外現代と変わらない
以上の事例は中山太郎の『日本若者史』から引用したわけだが、同書に数多記載されている若者連の事例を通覧すると、当時の「若者」概念は案外現代と変わらないのではないかと思えてくる。若者連への加入・脱退の年齢が、現代日本における「若者」の定義としてそのまま通用するからだ。
先述したように、若者連は各村落の実情に合わせて自然発生的に形成されたものであり、当然の如く若者連への加入と脱退の年齢は各村落毎に異なっていた。ただし、敢えてそこから平均像を描出するならば、加入の年齢は概ね元服を迎える十五歳、脱退の年齢は三十歳から四十歳が平均的な事例となっている。
この加入・脱退の年齢は、不思議なことに現代日本における「若年無業者」の定義とよく似ている。内閣府及び厚生労働省が定義する若年無業者とは十五歳から三十五歳の無業者を指しており、(色々と批判はあれど)これが現代日本における「若者」の一つの定義となっている。この定義は若者連の平均的な在籍年数と一致している。
また、これも先述したように、若者連へ加入して初めの数年間は一歳刻みで役柄を異にする事例が多数確認されており、これも中学・高校における先輩後輩の関係を思わせるものだ。或いは、労働基準法における年齢制限と若者連加入の年齢の一致(満年齢と数え年の違いはあるが)など、近世日本の「若者」概念は現代日本にも連綿と受け継がれているのかもしれない。
結語
斯界の末席として考察の一端を披瀝し敢て江湖の淸鑒を仰がんとかなんとか。
*1:地域によって若ィ衆、若モン、若連中、若手、ワカゼ、二才、ニセイ等と称するが本稿では若者連で統一する。