若者論を研究するブログ

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若者論の構造②―二極化する若者論

前回

若者論はありとあらゆる道徳的語彙といいがかり資源の組み合わせでつくられている。その必然的帰結として,若者論は常に一貫した体系を持っているわけではなく,しばしば若者論同士が矛盾する関係にたつこともある。

たとえば,内藤の言う「凶悪系言説」と「情けな系言説」はその典型である。グッドマンも同様に,日本の若者論を「まるで不協和音を発するかのような複数の主張」(前掲 p.48)と表現している。筆者が作成した表においても,「勇気」から導かれる言説が,脆弱で内向的・逃避的な人物像を描くのに対し,「正義」から導かれる言説では,尊大で傲慢,傍若無人な人物像が描かれている。

自己中心的でわがままな子どもが増えたのか,他人の顔色をうかがう受け身な子どもが増えたのか,二つの主張は一見すると相反する主張に思える。自然に考えれば,両者の間で議論があってもおかしくはない。両者が争ってくれれば,若者論など放っておいても落ち着くところに落ち着くのではないか。

しかしそうはならない。一見して矛盾・対立しているように見える言説でも,若者論の世界では不思議なことに深刻な対立とはならないのである。「凶悪系論者」と「情けな系論者」が真剣に議論を闘わせることはない。両者は時に不干渉を貫き,時に手を取り合うことで若者論という枠組みの中で共存しているのである。

そうしたことが可能になるのは,両者が一見対立関係にあるように見えて,その実,同じ認識を共有しているからだ。

それは「自分たちは普通である」という認識だ。攻撃的な若者が増えたと言われれば,誰しもそれが問題であると直感する。他方,受け身な若者が増えたと言われても,やはり同じように問題だと感じてしまうものである。そうした直感が両立するのは,意識的にせよ無意識的にせよ,自分は攻撃的でも受け身でもない「普通の」人間であるという認識をもっているからに他ならない。

多くの若者論では基準が明示されることはない。性的モラルの崩壊を嘆く人間が「最適なセックス」の時期を教えてくれることはないし,最近の子どもは友達が多い,或いは少ないと言って問題視する人間が「最適な友達の数」を大真面目に分析することはない。基準が明示されないのは,それが当人にとって自明であるからだ。つまり,自己の経験がその基準なのである。

大学生でセックスを経験した人間にとって,高校生のセックスは性的モラルの崩壊であり,哀れな中年童貞は草食系男子のなれの果てである。五人の友人と楽しく少年時代を過ごした人間にとって,二人しか友達がいない人間は当然のごとくコミュニケーション能力に問題があり,十人も友達がいる人間は,それはそれでコミュニケーション能力に問題がある。十人も友達がいれば,薄く浅い友達づきあいしかできないからだ。

誰しも自分はまともだと思っているし,自分の人生経験というものは肯定的にしか語られない。それが本人の糧になっているのであれば,他人がとやかく言う問題ではないかもしれないが,逆もまたしかりである。

依存・離れ言説

自己の経験を無批判に基準化してしまうのは誰しもが陥る間違いだろうが,同時に若者論の顕著な特徴でもある。それが最も典型的に現れるのが「依存・離れ」言説である。若者のスマホ依存,テレビ離れ,ゲーム依存,アルコール離れなど,現代では様々な依存・離れ言説が日々生み出されている。

これらの依存・離れ言説の多くは,新聞や週刊誌,テレビなどのマス・メディアを通じて生産されるため,必然的に問題として主題化されることが多い。若者がゲームに依存するのは,現実と向き合えずに仮想の世界へ逃避する若者が増えたことが原因であり,若者のアルコール離れが深刻化しているのは,飲み会などの付き合いを嫌う「ゆとり(さとり)」が増えたからである。

しかし,依存・離れ言説に逆の視点が含まれることは稀である。余暇の大半をテレビ視聴に費やすことの問題性が議論されることもなければ,スマートフォンに生理的嫌悪をもよおす人間の病理が解明されることもない。依存・離れ言説論者にとっての基準とは,無前提的に自分たちのことであり,その基準が省みられることはほとんどない。若者論の辞書に自省という言葉は存在しないのである。

つまり,若者が何かに依存していることも,何かから離れていることも,その割合すらも本当の問題ではない。「われわれとは違う若者がいる」という事実こそが,若者論者にとっては何より真の問題であり娯楽なのである*1「依存」であるのか,「離れ」であるのかというのは,単に方向性の違いでしかない。

二極化・二面性言説

自分たちが「普通」であるという認識を共有しているからこそ,若者論は対立することがない。自分たちの主張とは異なる主張をする若者論者は,打倒するべき論敵なのではなく,かえって自分たちとは違う若者と闘う盟友なのである。

そのため,往々にして相反する若者論はまったく干渉しないか,或いは,相互に自説を強化しあうような関係をとり結ぶ。その際に多用されるのが,二極化・二面性というロジックである。一つ具体的な主張を見てみよう。生地新(2000)は現代(20年前)の大学生に見られる病理を次のように指摘している。

大学の保健管理センターに来談する学生たちの中で,自己愛の病理が問題となるケースが増えてきたという印象がある。(中略)彼らの万能で尊大な自己像の背後に,傷ついた無力な自己像が隠されている(生地 2000 p.191)。

このような自己愛的な青年の増加は,親の養育態度や子育て文化の変化や科学技術の進歩に伴う錯覚,子どもを取り巻く社会の価値の変化などが関係していると著者は考えている。現代の日本の社会では,子どもたちは,身体を通じた手触りのある体験や規範や伝統を伝えられるよりも,親の自己愛の延長として期待され,「過保護に」育てられる傾向があるように思われる。少子化がこの傾向を助長しているとも思われる。


そして,科学技術の進歩やエンターテイメントの産業の肥大化は,子どもたちから「歯ごたえ・手触り」の体験を奪い,バーチャル・リアリティの体験ばかり提供している。(中略)現代の親子関係は,ひどくべっとりとした相互依存関係か,ものを介した情緒に欠けた関係が多くなってきているようにも思われる。こうした状況の中で,子どもたちは自己愛的な空想の世界に閉じこもるようになっているようにみえる(同上 p.195)。

親の甘やかし,脱自然,少子化,バーチャル,娯楽の氾濫,全てがこの短い文章の中に詰め込まれている。もし,これが5年後に書かれていればインターネットとゆとり教育が加えられていたに違いない。しかし何より注目すべきは,この論説には二極化言説と二面性言説が共に含まれているという点である。

現代の青少年の自己愛が肥大化しているのは,「ひどくべったりとした相互依存関係」と「ものを介した情緒に欠けた関係」という二極化した親子関係が原因であり,彼らの自己愛には「万能で尊大な自己像」と「傷ついた無力な自己像」という二面性が隠されているのである。その声は我が友李徴子ではないか?

二極化,二面性言説は簡捷な議論を好む人には使い勝手が良い。第一に,この戦略をとれば自説の多様性が簡単に確保できる。若者を十把一絡げにする若者論といっても,自説が全ての若者に当てはまると思っている若者論者はそう多くはないはずだ。少子化といっても年間百万以上の子どもが生まれているのだ。どんな若者論であろうと,それに当てはまらない集団は確実に存在する。

そうであれば,若者の実像を把握するために必要なのは,若者の多様性を掬い上げることができるような実証調査である。しかし,二極化・二面性言説であればそのような面倒な手続きは必要ではない。

二極化言説ならば,仮に自説とは反対の主張があっても対立することはない。自分が問題としているのは「こちら」の若者であり、相手が問題としているのは「あちら」の若者だからである。或いは二面性言説ならば,自説と矛盾するような言説は,矛盾するどころかそのまま自説の根拠となりうる。

たとえば,「暴力的な子どもが増えている」という主張と,「大人しい子どもが増えている」という主張は真っ向から対立しているように見えるが,二面性言説においては「内向的な現代の子どもはキレると手がつけられない。少年犯罪の凶悪化がまた実証されてしまった」ということになる。

性の二極化言説

「性行動の低年齢化」はありふれた若者論である。年端もいかない少女がセックスをするという言説にロマンを感じるのか,本当に若者の性的乱れを憂慮しているのかは知らないが,「若者の性的乱れ」は若者論の中では盛んに主張されてきたものの一つである*2

しかし,近年では「草食系男子」に代表されるように若者のセックス離れとでも言うべき現象が報告され始めている。そのため,性行動の低年齢化言説が未だに根強い支持を得ている一方,現在は性の二極化論が台頭し始めている。つまり,未成熟なままセックスをする早熟な人間と,いつまでもセックスをしようとしない草食な人間の両極に分かれ始めているらしい。

週間ダイヤモンドの第100巻12号では『早熟と草食に二極化する女子中高生の“性の実態”』という刺激的なタイトルの特集が組まれている。同誌によれば,娘が日ごろ何を考え,どんな日常を過ごしているのかを知ることで,娘との関係をこじらせないための特集とのことである。こんな特集を真に受ける父親が娘にとっては何よりの絶望であり,不和の原因となるのではないか。

この特集では,二極化の実例として「初体験までの交際期間」の表を載せている。出典は『男女の生活と意識に関する調査』*3である。下表は,同誌に掲載された「19歳以下女性の性交に至るまでの交際期間」の推移,下図は,その中で二極化しているとされた第5回調査(2010年)の結果をグラフにしたものである。

二極化とは一体。筆者の理解が正しければ「極」というのは分布の峰(ピーク)のことを意味しているはずだ。二極化とはすなわち,二峰性の分布だということである。グラフの一つ目のピークは「1年未満」にある。二つ目のピークはどこに消えたのか。

つまり,若者論者の想定する「二極化」とはこういうことなのである。

ちなみに,同特集では「ゆとり世代は競争よりも協調が大事だと教えられてきた」というゆとり言説が唐突に登場する。なんでも,あるコミュニティサイトに登録している女子中高生に対し,「なぜ場合によってキャラを変えるのか」と尋ねた結果,「人間関係がスムーズになるから」「みんなで盛り上がれるから」という回答率が高かったことが根拠らしい。

年齢による効果,時代による効果,性別による効果,他集団のデータ,経年比較のための過去のデータ,標本集団の代表性,設問の妥当性,調査手法の信頼性,全てを乗り越え「ゆとり」に飛びつく言わばゆとり脳とでも言うべきこの現象の責任は報告書もまともに読めない理系の学者連中にこそあるという話は長くなるのでまた今度にしよう。

参考文献

生地新 (2000) 「現代の大学生における自己愛の病理」 『心身医学』 40巻3号 pp.191-197
小谷敏編 (1993) 「若者論を読む」 世界思想社
「早熟と草食に二極化する女子中高生の''性の実態''」 (2012) 『週刊ダイヤモンド』 100巻12号 pp.46-49
ロジャー・グッドマン/井本由紀/トゥーッカ・トイボネン[編著] 井本由紀[監訳] 西川美樹[訳] (2013) 『若者問題の社会学―視線と射程』 明石書店

*1:問題として捉え自己との同化を望む若者論を矯正的若者論、娯楽として捉えむしろ差異を強調する若者論を娯楽的若者論と呼ぶ。今考えた。

*2:若者論の特徴の一つは,その対象が男性に限定されていることである(小谷 1993 p.234)。一方,性の低年齢化言説は女性が対象にされることが多く,若者論としては比較的珍しい部類に入る。おそらく,特徴的な行動を見せる女性の場合,その原因が年齢ではなく性別に回収されやすいのだろう。
或いは小谷が可能性として提示しているように,若者論自体が「マッチョでセクシスト的」なジャンルなのかもしれない。たとえば,若者の幼稚化言説では時として,「現代の若者は女・子ども化している」と主張される。ここでいう若者とは無前提的に男性が想定されている。

*3:同調査は2002年に第1回調査が実施され,以降は2年ごとに実施されている。2002年から2010年の第5回調査までは,厚生労働科学研究費補助金による研究事業として行われ,その成果は厚生労働科学研究成果データベースで確認することができる。また,2012年に行われた第6回調査からは日本家族計画協会が独自に実施している。