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ゆとり教育とは何だったのか―俗説に対する批判的検討 2.ゆとり教育で学習内容は減少したのか

一般の居酒屋教育談義では学習方略の議論は殆ど考慮されない。したがって、ゆとり教育言説は実質的に「学習時間の減少説」と「学習内容の削減説」の二本柱となっている。この章では後者を批判的に検討する。

2.1 「3割削減は事実か」

学習指導要領はその改訂のたびに「基礎・基本の徹底」を狙いとして学習内容の精選・厳選を謳ってきた。68・69 年改訂のいわゆる「詰め込み教育」のように,学習内容の精選と言いながらも実質的には学習内容が増えたような改訂すらある。言ってみれば「学習内容の精選」は毎度のことではあるのだが,それがゆとり教育においてことさらに問題とされたのはなぜだろうか。

ゆとり教育において学習内容の削減がかくもクローズアップされたのは「学習内容の3割削減説」が原因だろう。ゆとり教育では全ての教科の学習内容が一律3割削減された,と言われている。この「3割削減説」が世間に与えた影響は大きい。よほどインパクトがあったのか,「3割」という数字はゆとり教育言説の様々なところに現れる。いつのまにやら授業時数が3割削減されていたり,教科書のページ数が3割減っていたり、3割ではなく3分の1になっていたりする。

ところで,この「3割」という数字は一体どこから出てきたのだろうか。3割削減説を引用した論説は膨大な量に上るが,その殆どが3割削減を既定の事実として記述しているだけであり,出典を明示しているものは皆無に近い。それもそのはずであり,「3割削減」を明記した資料は存在しないのである。たとえば,読売新聞が「3割削減」について初めて言及した記事には次のように書かれている。

学校週五日制時代の幼稚園から高校までの教育内容について検討してきた教育課程審議会(文相の諮問機関、三浦朱門会長)は二十二日、審議のまとめを公表した。小中高校とも授業時間数を週当たり二時間(単位時間)削減するとともに、基礎・基本を確実に身につけさせるため、小中学校では教育内容を厳選し、現在の内容から約三割削減する。

(中略)

これについて文部省は、「約三割の削減となる。五日制で減る授業時間数以上に内容が削減されており、現在の八割程度の時間で教えられる内容」と、子供たちのゆとりの確保になることを強調している。

読売新聞, 1998.06.23, 朝刊, (1)7

記事中にある通り,文部省が3割削減の方針を初めて示したのは平成10年6月の教育課程審議会答申においてである(正確には6月1日に公表された『教育課程の改善のポイント』においてである。22日の答申には具体的な数字が記述されていない)。それでは,その具体的記述を確認してみよう。

児童生徒にとって高度になりがちな内容などを削減したり,上級学校に移行統合したりなどして,授業時数の縮減以上に教育内容を厳選する。例えば,算数・数学,理科などは,新授業時数のおおむね8割程度の時数で標準的に指導しうる内容に削減(『教育課程の改善のポイント』 教育課程審議会 1998)

これが「3割削減」の全てである。1章で見たように,98年改訂では,主要教科の授業時数は10~15%程度削減されていた。仮に12.5%授業時数が削減されたとすると,それに伴い教えられる学習内容も12.5%減少し,学習内容は従来の87.5% となる。さらに削減された授業時数の8割程度に学習内容が制限されるため,87:5 × 0:8 = 70となり,従来の7割程度の内容しか教えることができなくなる。つまり,主要教科の授業時数を1割程度は縮減することを決めたうえで,その縮減された時数の中で「ゆとりの時間」を作り出すために考え出されたのが3割という数字だったのである。

この削減の具体的内実は次節以降で詳述するが,まずこの時点で二つのことに注意していただきたい。第一に,ゆとり教育における学習内容の大幅な削減は,義務教育修了段階での一時的なものである。実際には,その「削減」されたかなりの部分が高校へ移行されているため,「ゆとり世代は従来の7割の学習内容しか勉強していない」という認識は誤りである。この点について,私が確認した限りで多くの大学関係者が誤認していたという事実は特筆に値する。

第二に,3割削減が実行されたことを示す定量的な根拠や何らかの実務的基準は存在しないということである。たとえば,文科省次官であった小野元之は,ゆとり教育による3割削減説について,次のような証言を残している。

二つ目の誤解は,教育内容の三割削減という話です。これは,たしかに文部科学省も三割削減と言ったのですが,私が事務次官の時に,教科書の活字の大きさなどを含めていろいろと調査しましたところ,私の結論では一割削減なんです。削減したということには間違いないのですが,三割もの削減ではありません(岡本・佐藤 2014 p.131)。

小野の発言は調査手法が明示されていないため,その信憑性には疑問が残るが,同じように「3割削減」という数字も定量的な調査が行われた結果としての数字ではない。世間では文科省が3割削減という数字的目標をやっきになって断行したと認識されている節があるが,実際にはそれを示す根拠は現在まで示されてはいない。

それでは,この「3割削減」,本当に実行に移されたのだろうか。それとも,小野が主張するように「1割」しか削減されていないのか。或いはそれ以上,それ以下の削減なのか。

2.2 「削減」は何を意味しているのか

ここで「3割削減」という言葉の意味を考えてみよう。誰がどう考えても「従来の学習内容の3割が削減された」としか解釈できない。だが,ここでいう「削減」というのは児童・生徒の学習課程から教えるべき学習内容が消え去ったことを意味してはいない。上の『教育課程の改善のポイント』の文言をもう一度見てほしい。あくまでゆとり教育で行われたのは教育内容の「厳選」である。「削除」というのはその処理の一つに過ぎない。厳選の方法としては他にも「移行・統合」「軽減」「選択」などがある。そして「3割削減」と言われているもののほとんどは「移行・統合」「軽減」処理によって行われたものである。そのため,正確には「3割の厳選」と呼ぶべきだろう。まず,この時点で既に3割削減説は誤りである。

たとえば,98年改訂の中学校数学では,表2.1のような厳選処理が行われている。見てわかる通り,最も多いのが「移行・統合」であり,次いで「軽減」となる。「軽減」については次節で説明するため,ここでは「移行・統合」のみを取り上げよう。各学校段階の学習指導要領だけを見ても,このことには気づけない。小学校・中学校では多くの学習内容が削減されているように見えるが,その実ほとんどが,中学・高校へと移行しているだけである。

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それでは,学習内容先送りの終着点,高校ではどうなっているのか。こちらは義務教育と打って変わってほとんど削除されてはいない。高校では大学入試の関係上,学習内容の軽減を図ることは難しい。「微分するのは二次式まで」といったところで通じるわけもない。したがって,高校での「厳選」はすなわち,「削除」ということになるのだが,高校数学で削除されているのはせいぜいが複素数平面程度である*1。どう見積もったところで1割も削減されてはいない。つまり,ゆとり教育で「学習内容が3割削減された」というのは義務教育段階での一時的な削減であり,一種の錯覚である。

2.3 学習内容の「軽減」とは何か

では「軽減」はどうだろうか。学習単元自体が残っているといっても,その学習負荷が軽減されているのならば,結局のところ学習内容が削減されたに等しいのではないか。しかし,これも誤りである。それを説明するために,まず「軽減」という処理がどのように行われているかを理解する必要がある。学習指導要領は児童・生徒が学校教育において学ぶべき基礎的・基本的事項が示されたものだが,その構成は次の三つにわけることができる。

一つ目は各学年における学習の「目標」である。たとえば,小学校6年生の「社会・歴史的分野」では「国家・社会及び文化の発展や人々の生活の向上に尽くした歴史上の人物と現在に伝わる文化遺産を,その時代や地域との関連において理解させ,尊重する態度を育てる」とされているように,学習の最終的な目的が,指導要領の始めに記述されている。

二つ目が学習の「内容」である。学習の目標を達成するための具体的な学習活動がここに示されている。「遺跡や遺物などを調べて,農耕が始まると人々の生活や社会の様子が変わったことや,大和朝廷による国土の統一の様子について理解すること。その際,神話・伝承を調べて,国の形成に関する考え方などに関心をもつこと」といったように学習活動が具体化されている。

三つ目が学習活動の「内容の取扱い」である。「内容」で示された学習活動を実施するさいの全般的な留意点や各内容における取扱いがここに示されている。「神話・伝承については,古事記日本書紀風土記などの中から適切なものを取り上げること」などのように,学習内容を取り扱う上での注意事項や留意点が示されている。「軽減」という処理が行われるのは「内容」ではなく,この「内容の取扱い」においてである。ゆとり教育の前後では学習単元(内容)にはあまり違いが見られないものの,内容の取扱いで学習内容を制限することで,学習内容の削減を図っている。

2.4 歯止め規定

この「内容の取り扱い」に示される学習内容の制限を,一般に「歯止め規定」とよぶ。77 年改訂以来,「ゆとり」のスローガンのもとに,学習内容の削減が行われてきたことは1章でもふれた。しかし,ここでいう「削減」とは学習単元がカリキュラムから姿を消したことを意味してはいない。「削減」された学習内容は主に,「歯止め規定」によって学習の上限を定める形で取り扱われなくなったものだ。

歯止め規定が導入されたのは77年改訂のときであるが,89年改訂,98年改訂とすすむにつれ,その記述も詳細なものとなり量も増加している(とされている)。中教審の資料によると「歯止め規定」はその文言によって三つに分類することができる。

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教科によって歯止め規定の文言も変わる。数学や理科などの学習内容が系統だてられて明確に示される理系科目では①や②のパターンが多く,国語や社会などの,学習内容が抽象的になりやすい文系科目では③のパターンが多くなっている。たとえば,数学の「軽減」処理では八つの「軽減」項目のうち,六つは特定の学習内容を「取り扱わない」旨を定めている①のパターンである。残りの二つは取り扱う学習内容を制限する③のパターンだ。勿論,全て「内容の取扱い」に示された歯止め規定である。

文系科目も見てみよう。取り上げるのは小学校第6学年の社会科である。小学校の社会科は第6学年から「歴史的分野」の学習が始まるため,6年生は「歴史・政治・地理」の三つの領域の学習を行うことになる。98年改訂では小学校第六学年の授業時数は105時間から100時間へ減少している。それに伴い指導要領の「内容」からも,いくつかの事項が削除されている。

歴史的分野では「農耕が始まる前の暮しや社会」「寝殿造り」「鉄砲の伝来」の文言が削除されている。もちろん,先述したように,これらの事項を子どもが学習しなくなったわけではない。縄文時代も鉄砲伝来も日本史における基礎的な事項である。これらの事項は中学校社会科へと移行されている*2(澁澤・佐伯・大杉2000)。また,寝殿造りは指導要領の文言からは削除されているものの,教科書には記載されている(東京書籍2002)。

政治的分野では「内容」に記載されていた「イ選挙の様子や国会の働きなどを調べて,現在の政治は国民が選んだ代表者による議会政治によって成り立っていることを国民主権と関連付けて理解すること」が削除されているが,98 年改訂では「内容の取扱い」に「国会などの議会政治や選挙の意味,租税の役割などについても扱うようにすること」とされており,他の学習単元に統合された形となっている。地理的分野では削除,移行・統合されたものはない。

数学と違い,「削除」「移行・統合」されているものは少ない。小学校6年生の社会科の授業は105時間あったのだから,3割削減ということは30時間程度の学習内容が削減されたことになる。しかし,上述のように,89年改訂と98年改訂では「内容」に示される学習単元自体はほとんど変化していない。縄文時代や鉄砲の伝来だけで30時間もの授業ができるはずはない。

つまり,理系科目と違い文系科目では,学習内容の厳選は主に歯止め規定による学習内容の軽減なのである。小学校社会科の「内容の取扱い」では「網羅的に取り上げることがないよう」「精選するとともに」「いたずらに深入りしないよう」といった,抽象的に学習内容を制限する文言が多く登場している。すなわち,これらの文言こそがゆとり教育における「3割削減」の正体ということになるのだが,実は,この歯止め規定にしても89年改訂と表現はほとんど変わっていない。つまり,文系科目における学習内容の削減は教師の胸先三寸で決まっていたわけである。「あれやこれを削減しろ」と文科省が指示を出していたわけではない。 

2.5 指導要領の法的拘束力

では理系科目の歯止め規定はどうだろうか。文系科目では抽象的な文言で学習内容を制限していた。それゆえに学習内容を減らすも減らさないも教師の裁量であったわけだが,理系科目では「多項式を一つの文字に置き換えての因数分解は取り扱わない」など明確に,学習内容が制限されている。これは実質的に学習内容の削減といっていいのではないか。

これにはあえて反論する必要はないのかもしれない。なぜならば,義務教育段階における学習内容の「軽減」(或いは「削減」も)は必然的に高校の段階で解消されるものだからだ。もう一度,中学校の数学の軽減処理を見てもらえばわかると思うが,いずれも高校では当然に必要とされる考え方,或いは学習内容である。おそらく,わざわざ教えてもらうというよりも,当然に知っているものとして授業が進められるか,演習の中で身に着けていくのではないだろうか*3。円周率をπと書くときにわざわざπの書き方を練習させたりはしないだろう。それはそういうものである。

また,これはゆとり教育そもそもの狙いでもある。ゆとり教育では,単に学習内容を削減して子どもを楽にさせようという意図があったわけではない。「教育課程の改善のポイント」にもあるように,ゆとり教育が意識していたのは,子どもの知的発達過程と学習内容の難易度との関連である。中学生にとって難しい問題が,高校生にとってはより簡単な問題になることはあるだろうが,その逆はほとんどないだろう。その分指導時間が減るのであれば,学習内容を移行するのは合理的である。

が,この主張についてもあえて批判的に検討してみよう。学習内容の軽減が実質的に学習内容の削減であるとするならば,問題は学習指導要領の法的拘束力である。つまり,内容の取扱いに示された瑣末な配慮事項を教師が遵守する必要があるのかということだ。

2.5.1 法的拘束力とは何を意味するか

学習指導要領の法的拘束力が問題となったのは,学習指導要領から「試案」の文字が削除された55年改訂「高等学校学習指導要領一般編」が発行されたことに続き,58年改訂「学習指導要領」が「告示」の形で公示されたことに端を発する(松原 2012)。学習指導要領の法的拘束力については諸説があるが,松原悠(2012)によれば伝統的な分類法として三つの説に分けることができるという。たとえば,「伝習館事件」の第1 審判決では,学習指導要領の法的性格について三つの分類基準が示されている。

学習指導要領は,果たしてどのような法的性格を有するかを確定する必要に迫まられる。この際,三通りの解釈が可能であるように思われる。その一つは,学習指導要領のすべての条項が法的規範のないもの(指導助言文書),その二はすべての条項が法的規範を有するもの(法的拘束力ある規定),その三は法的拘束力のある条項と指導助言文書たる条項とに分けるもの,である(判例時報社 1978 p.3)

つまり,学習指導要領の法的拘束力については,それを全面的に認める説(その二)と全く認めない説(その一),また両者の中間として一部の条項に法的拘束力を認める一方で,一部の条項についてはそれを認めなという説(その三)の三つに分類することができる。しかし,いずれの説にも共通することは,学習指導要領を,そこに書かれているものを一言一句遵守するような性質のものとは捉えていない点である。たとえば,文部省初等中等教育局長であった諸沢正道は,学習指導要領の法的拘束力を認めながらも次のように述べている。

もともと学習指導要領が教育課程編成の基準であるといっても,労働基準法に規定する労働基準のような厳しい基準を意味するものではない。それは教育の特質からいって当然に地域や学校の実態に応じて多様に,弾力的に運用されるべきものである(諸沢 1978 p.21)。

実際の指導では,これらの教科書に基づいて教師がそれ以上に詳しい授業をするわけで,掛図やスライドなどを使ったり,教科書以外の種々の教材を用いる場合も多い。したがって学習指導要領の規制するのは明治維新を教えるということのみで,その具体的な指導の展開というのはすべて教師の創意工夫にまつわけである。以上のような具体的な例示をみれば,学習指導要領は指導のごく大枠を示すのみで,なんら教師の指導の実際を拘束するようなものでないことが明らかであろう(諸沢 1978 p.23)。

諸沢の指摘するとおり,そもそも学習指導要領によって教師の指導活動の全てを拘束することは現実的に不可能である。学習指導要領は必然的に,教師に対して一定の裁量を認めているものと解すべきだろう。また,諸沢と同じく文部省の初等中等教育局長を歴任した菱村幸彦は,学習指導要領の「法的拘束力」という用語について,次のように言及している。

学習指導要領に法的拘束力がある,などというと教師は驚き,とたんに拒絶反応を示す。『拘束』という言葉がおだやかでない。(中略)学習指導要領の法的性質に関して,ことさら『法的拘束力』などという法律用語を用いるのは,無用の誤解をまねくのみで,適当ではないのかも知れない(菱村 1976 p.19)。なにも『こふきいも』や『サンドイッチ』をたまたま指導しなかったからといって,基準違反とか法的拘束力違反などと言うものではないことは明らかだ(菱村 1989 p.23)。

学習指導要領の法的拘束力が問題となるのはあくまでも,「国語」の時間に「数学」を教えたり,小学生に「微分積分」を教えたりするといった極端な状況に限定される。多少,指導要領からそれた指導を行ったところで直ちに問題になるわけではない。そもそも,教師が一言一句,指導要領を遵守していることを誰が監視し,告発し,問題とするのだろうか。

2.5.2 現場の教員の認識

しかし,実際に指導要領を解釈し実行するのは現場の教師である。彼らは指導要領の法的拘束力をどのように受け止めていたのだろうか。『現代教育科学』2006年1月号では「現場の証言・法的拘束力の『学習指導要領』をどう思うか」という特集が組まれており,現場の教員が学習指導要領の法的拘束力をどのように受け止めていたのかについて複数の証言がある。

中でも,染谷幸二と福山憲市の二人は、学習指導要領が直接的に教員にどのように受容されているのかについて言及している。染谷は,「教師のメンタル面までは拘束できない」と題した文章の中で,学習指導要領の現実的な拘束力がそれほど強くはないことを指摘している。

学習指導要領には,法的拘束力があると言う。しかし,教師のメンタル面までは拘束できない。小学校で英会話を授業することに反対する教師がいる。「算数の教科書は使わなくていい」と公言する管理職がいる。基礎学力を論じる以前の問題である。こうした状況の中,教育現場では学習指導要領さえ読んだことがない教師がいる。悲しい現実である(染谷 2006 p.84)。

また,福山も同様に「学習指導要領に対する教員の意識は弱い」と題し,現場の教員が学習指導要領の法的拘束力にたいして,あまり強い関心を払っていないことに言及している。

職員室の中で【学習指導要領】それ自体が話題に上ることは少ない。教員の中には【学習指導要領】の法的根拠が学校教育法施行規則二十五条などに示されていることさえ,忘れてしまっている人がいる。(中略)教員は,全国という目で【学習指導要領】を見ることに甘い。目の前の教育内容が一番大切なのである(福山 2006 p.83)。

その他の教員は,主に新指導要領の実施にともなう,「生活科」や「総合的な学習の時間」といった新設教科による現場の混乱,学習内容や授業時数の削減に伴う公立校の「質の低下」といった部分に批判の焦点をあてている。3桁の計算を教えたいけどできない,などの細かな学習指導要領の拘束性についての声は聞かれない。現場の教員が律儀に歯止め規定に従っていたのかについては疑問が残る。

2.5.3 指導要領の最低基準性と歯止め規定の見直し

しかし,ゆとり教育ではそもそも歯止めに規定に従う必要はないのである。98年改訂の一つの特徴は,その「最低基準性」が実施前から明示されていたことにある。指導要領が最低基準であるというのは,「指導要領は最低限,すべての子どもが学ぶべき学習の基準であり,実際の教育活動ではその範囲を超えて教えても良い(教えるべき)」ということを意味している。

この立場は市川伸一(2003)が指摘するとおり,文科省が「ゆとりバッシング」に対して苦し紛れに打ち出したものではない。ゆとり教育論争は,実際にゆとり教育が実施される以前の90 年代後半から盛んに行われていたが,その論争のごく初期の段階でゆとり教育の「最低基準性」は文科省の側から積極的に明言されている。たとえば,ゆとり教育が実施される3 年前の1999 年に行われた,教育学者である刈谷剛彦と,ゆとり教育に関する文部省の「スポークスマン」として活動していた寺脇研の対談では次のような会話がある。

刈谷「これまで,子どもにとってハードなものを押し付けてきたというが,実際にはゆとり政策の中で,家庭や地域での学習は増えず,テレビ等にまわっている。その結果,学力の分極化傾向を生み,全体的には低下が起こっている」

寺脇少子化で受験は緩くなったので,勉強量は減っているだろう。わからないから意欲が下がる。全部わかれば『もっとやりたい』という意欲が出てくる。『3割削減』は全員共通の部分を減らしたもので,ここはみんなが100 点をとれるようにする。もっと学べるしくみとして,選択幅の拡大や地域の教育力も考える」

(中略)

寺脇「今度は学年にも幅をもたせてあるし,中学校の選択教科は指導要領より上のこともできる。指導要領は,全員に共通して教えるミニマム(最低線)だ。それは,今も同じ」

刈谷「それは,指導要領の考え方としてはドラスティックな変化だ。そこまで明言されていなかった」

寺脇「決めたことも教えきれていないのに,その上のことなど言えなかった。今度はみんながわかるのだから,もっと上のことも考える」

刈谷「そうなったときに,指導要領に準拠してきた教科書は使えない」

寺脇「先生がそれぞれ用意しなくては。そもそも,総合的学習にも教科書はない。また,学校ですべてを修める考え方はとらない。「応用塾」というような,カルチャーセンターのような塾があってもいい」

刈谷「そうなると,ますます地域間格差,階層差,家庭の影響が露骨に出る」

(出典:市川 2003 pp.90-92)

この対談の中で,寺脇は98年改訂が最低基準であることを明言し,中学校の選択教科による学習の弾力化など具体的な方策も提示している。また,これは4章において後述するが,90 年代後半の時点で刈谷が「社会階層による格差拡大」を自明視していたこと,その原因を「ゆとり政策」に求めていたことには留意しておいてもらいたい。

つまり,学習内容の3割削減とは,「最低基準」としてのゆとり教育の話なのである。この,最低基準としてのゆとり教育,指導要領の弾力的な運用というのは,ゆとり教育に通底する方針でもある。これまでに見てきた学習時間の減少や選択教科の拡大,そして学習内容の削減も,学校教育に弾力性をもたらすための措置である。にもかかわらず,その「最低基準」にしか目を向けなければ削減されているように見えるのは当然だ。

しかしながら,これはあくまで文科省の立場からの主張である。果たして指導要領をどこまで遵守するべきか,現場に混乱があったことは間違いない。そのため,文科省は新指導要領実施の翌年,2003 年には歯止め規定の見直しを早々に決めている。『初等中等教育における当面の教育課程及び指導の充実・改善方策について』と題された2003年の中教審答申では,その検討課題の一番目に「学習指導要領の『基準性』の一層の明確化」が挙げられている。さらに,その具体的課題として「歯止め規定」についても言及されている。

学習指導要領の「基準性」を踏まえれば,これらのいわゆる[はどめ規定]等の趣旨は,学習指導要領に示された内容をすべての児童生徒に指導するに当たっての範囲や程度を明確にしたり,学習指導が網羅的・羅列的にならないようにしたりするための規定であり,児童生徒の実態等に応じてこの規定にかかわらず指導することも可能なものであるが,その趣旨についての周知が不十分であるため,適切な指導がなされていない状況もみられる(中央教育審議会 2003)。

実際に,最低基準性が周知されていない状況が確認されていたのか,或いは単に世間からの「ゆとりバッシング」にたいするポーズであったのかはわからない。いずれにせよ,ゆとり教育は平成15年12月26日には改訂され,平成16年度からは指導要領の基準性が一層明確になった形で実施されていたのである。

これでもはや,学習内容の3割削減を実現する手立てはなくなった。学習内容にかけられていた制限は,この時に撤廃されているのである。「歯止め規定の見直し」は実質的に「学習内容の3割削減」という方針を文科省が撤回したものとみてよい。実際に歯止め規定を遵守している教師がどれだけいたのかはわからないが,少なくとも2004年度以降に学習内容が削減されていたのだとすれば,それは児童の学習実態を考慮したものであろう。「ゆとり教育による学習内容削減」ではない。 

2.6 指導要領をどう読むか

「学習内容は3割も削減されていない」というのが前節までの結論である。そうなると次の疑問は明らかだ。すなわち,「それでは何割削減されたのか」というのが明らかにされなければならない。3割も削減されていないのは確かだが,全く変化がないわけではない。それではゆとり教育で本当に削減された学習内容は何割だったのか。はじめに言っておくと本稿ではこの疑問に答えることはできない。

一つ目の理由は,授業時数の削減と違って学習内容を定量的に評価することは困難だからである。一つの学習単元を単位量とすればいいと思うかもしれないが,全ての単元が同じ重みをもっているわけではないだろう。「3割削減」という言葉を誰も疑問に思わなかったのだろうか。何をもって「3割」なのか。

二つ目の理由は,指導要領が示す学習内容には配当時数が設定されていないことによる。実際に指導要領の学習内容をどれだけの深さと長さで教えるかは教師の裁量の範囲である。「図形領域」を重視する教師がいれば,「数量関係領域」を重視する教師もいる。授業時数が箱であるならば,学習内容はその中身だ。箱は全員に共通だとしても,そこに何を詰めていくのかは教師によって変わる。それを一律に評価するということは難しい。

三つ目の理由は,指導要領と実際の指導実態が乖離していることによる。指導要領上では高校に移行されているはずの学習内容が実際には実施されていなかったり,或いは削除された項目が別の教科に現れることがある。たとえば,中学校数学では,資料の整理や標本調査に関連する学習単元が高校へ移行されているが,この単元は大学入試では殆どでてこない。そのため授業で扱わなった高校も相当数あると思われる。また,削減された項目として二進法があげられているが,これは98年改訂で新設された,高校の情報科の中で扱われることがある。

これらの理由に加えて,先述したようにゆとり教育では多くの項目が移行・統合された扱いとなっている。そのため「ゆとり教育で何が削減されたのか」を知るには小・中・高の指導要領を全領域にまたがり,体系的に,また実態に即して把握する必要がある。小学校で削除されている単元も中学校に移行しているかもしれないし,移行されたはずの単元が教えられていなかったりする。全ての教科について,義務教育および高校教育の内容を精査するのは筆者の能力を超えている。

そのため実際にゆとり教育で学習内容がどれだけ削減されたのかを知りたいのであれば,自分で実際に指導要領を逐一確認しなければならない。そこで重要になってくるのは「学習指導要領の読み方」である。本節ではゆとり教育にまつわるいくつかの誤った言説を紹介しつつ,指導要領の読む上での注意点を説明したい。

2.6.1 円周率が3

2.6.2 削減は「ゆとり教育の弊害」か

もう一つ,指導要領を読む上での注意点を挙げておこう。本来,指導要領の改訂は「よりよい教育」を目指して行われるはずである。しかし,指導要領をめぐる議論では学習内容が「増えたのか」「減ったのか」という単純な議論に終始することも多い。新たな学習内容が追加されたのであれば,本当にそれが公教育において全員に教える必要があるのかを検証しなければならないし,学習内容が削減されたのであれば,それが妥当なものであったのかが検証されなければならない。

したがって指導要領を読み込む際には「なぜ変更されたか」という点も注意しなければならない。しかし,ゆとり教育では「学習内容の3割削減」というインパクトが強く,ゆとり教育で削減されたものは,授業時数や学習内容の削減にともない「しかたなく」削除されたものだと思われている。当然のことながら,ゆとり教育で削減されたものは適当に決められたわけではない。そこには固有の背景が存在するはずである。

そうした例の一つとして英語の「筆記体」が挙げられる。ゆとり教育とともに必修ではなくなったため,筆記体が指導されなくなったことは「ゆとり教育の弊害」として語られることもある。筆記体の非必修化はゆとり言説の中でも数少ない事実であるため、マスメディアも何度も繰り返しているお気に入りのネタだ。しかし,筆記体が指導されなくなったことは,授業時数の削減や学習内容の削減とは無関係のことである。英語の授業時数の変遷をみながらそのことを確認しよう。

英語の「筆記体」が,全員が学ぶべき必修のものであったのは77年改訂が最後となる。77年改訂では第一学年の「言語活動」を行う際は「上記(1)の言語活動は,原則として,次の言語材料を用いて行わせる」としており,その「言語材料」の中で,文字については「アルファべットの活字体及び筆記体の大文字及び小文字」と規定されているため,原則的には全ての生徒が第一学年で筆記体を学ぶことになっていた。

89年改訂では「言語材料」の扱いに変更があり「(1)の言語活動は,別表1 に示す言語材料のうちから,1の目標を達成するのにふさわしいものを適宜用いて行わせる。」となっている。77年改訂が原則実施であったのに対し,89年改訂では教師の裁量でふさわしいと思われるものを「適宜」用いることになったのである。そのため理屈としては筆記体を教えないという判断も可能である。

98年改訂では筆記体の地位はさらに低下し,言語材料で扱う文字は「アルファベットの活字体の大文字及び小文字」となり,筆記体は「指導計画の作成と内容の取扱い」の中で「文字指導に当たっては,生徒の学習負担に配慮し筆記体を指導することもできること」とするに留まっている。しかし,教師の裁量で教えることができるという点では89年改訂と同様である。

それでは,果たしてこれは「ゆとり教育の弊害」だったのだろうか。本当は教えなければならない,教えたいにも関わらず,ゆとり教育によってそれができなかったのだろうか。それを確認するためにも,次は授業時数の変遷を見ていこう。

既に何度も書いたので詳細は割愛するが77年改訂は「第一次」ゆとり教育である。77改訂では学習内容,授業時数の削減が行われた結果,英語は従来の週4時間から週3時間へと縮減されている。しかし週1時間もの授業時数を削減したことには反発も大きく,続く89年改訂で英語の授業時数は週3 から4 時間行うことが可能になった。ここで注意しなければならないのは,あくまで「可能」になったということであり,本当に実施されたかどうかはわからないということだ。

先述したように77年改訂と89年改訂では総授業時数は変わっていない。つまり英語の授業時数を増やそうとすれば,必然的に他の教科の時数を減らす必要がでてくる。具体的に言うと,第一学年では「特別活動」,第二学年では「音楽」「美術」「特別活動」,第三学年では「社会」「理科」「保健体育」「技術・家庭科」「特別活動」のいずれかの時数を削減する必要がある。ゆとり教育を批判する文脈では無前提的に「(89 年改訂の)週4時間から(98 年改訂の)週3時間に減った」とされることもあるが,実際にどれだけの学校が英語の時数を増やしたかは定かではない。

98年改訂では,英語は必修教科になるとともにその時数は週3時間と設定された。しかし,1章で述べたように,ゆとり教育では選択教科が必修教科の補充に充てられている。加えて,小学校では総合的な学習の時間によって英語教育が導入されているため,実際には週3時間+ αといったところだろう。ここで単純に授業時数だけを考えても,ゆとり教育の英語時数は77年改訂の頃よりも増えている。仮に筆記体が公教育で「教えなければならないこと」だとするならば,それを削減する必要も,教師が指導しない理由も存在しない。

さらに07年改訂では英語の授業時数は週4時間となり,加えて小学校での英語学習が第5,第6学年で導入された。指導要領の上では77年改訂以来,最も充実した英語教育が行われているといっていいだろう。しかし07年改訂でも筆記体は復活しなかった。明らかに筆記体が削除されたのは授業時数の減少が原因ではない。

しかし,時数の削減ではなく,学習内容の削減により筆記体が削除されたと主張する向きもあるかもしれない。しかしこれは逆である。例えば77年改訂と比較して98年改訂を見ると,授業時数は増えて学習内容が減少している。つまり「ゆとり」の時間が生まれているわけだ。ここまでは筆記体が「削除」されたと表現しているが,先述したように筆記体は消えたわけではなく,教師の裁量に委ねられている。77年改訂では,ゆとり教育よりも多い学習内容が,ゆとり教育よりも少ない時数の中で行われていたのだから,今の教師が筆記体を教えようと思えば,かつてよりも容易に可能なはずである。

加えていえば、そもそも筆記体の習得のように機械的な学習であるならば、それを授業の中で教える必然性は薄い。筆記体を教えようと思えば宿題を課せばいいだけのことである。そうすれば授業時数の増減とは無関係に筆記体を教えることができる。にもかかわらず教えられていないならば,それは現場の教師が公教育において筆記体を教える必要性を認めなかったということでしかない。ろくに英語の読み書きもできない一般市民皆様方の判断よりも、現場の教師の判断の方を優先させるべきではないだろうか。

2.7 教科書のページ数減少は学習内容の減少を反映しているのか

前節までは学習指導要領を手掛かりとしてゆとり教育の内容を見てきた。しかし,世間で語られる「ゆとり教育言説」は指導要領だけを根拠にしているわけではない。指導要領と同じく,或いはそれ以上に話題に上ることが多いのが「教科書」である。特に,教科書のページ数が何ページ増えた,減ったという話題は紙面をにぎわすことも多い。教育論議としてはあまりにもレベルが低いと思わないではないが,実際に日本の教育現場では教科書が重要な地位を占めているのは事実である。そこで,本節では教科書のページ数減少が,学習内容の減少を反映しているわけではないこと,すなわち教科書を手掛かりにして教育を語ることの誤りを指摘する。

まずは、一般の教科書の基本的な構成を確認しよう。以下に示したのは,平成23年度から小学校の第6学年で使われている社会科教科書の構成である。

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見てわかるように,教科書の構成は画一的なものであり,一つの小単元につき2ページが割り当てられている。また一つの小単元につき1時間の授業が割り当てられているため,1時間当たりのページ数も2ページとなっている。そのため,教科書のページ数が減少する原因は限られる。一つの小単元に割り当てられるページ数が減少するか,小単元自体が削除されるか,或いは資料部分などが削られるかである。

このうち,学習内容の削減を反映しているのは小単元自体が削除された場合だけである。たとえば,仮に小単元当たりのページ数だけが半減したとしよう。その場合,学習内容も半減されるだろうか。教師が2分の1の速さで話すのでもなければ,1 時間あたりの情報量は変わらないだろう。この場合,教科書のページ数減少は,せいぜい,教科書が授業に寄与する割合が減少したと解釈できる程度である。教科書のページ数が減っても,学習内容・授業時数が変わらないとすれば,その隙間は教師が埋めることになる。

それでは,ゆとり教育が始まり教科書はどのように変化したのか。実際に見てみよう。表2.3は68年改訂から07年改訂までの教科書ページ数の推移と授業時数を示したものである。なお,計算に使用した教科書は東京書籍が発行したものであり,ページ数の情報は公益財団法人教科書研究センターの教科書目録情報データベースを利用した。

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68年改訂,つまり「詰め込み教育」でも教科書のページ数が1時間当たり2ページなのは現在と変わらない。続く77年改訂では,授業時数が35時間削減され,それに伴い,教科書のページ数が40ページほど削減されているが,1時間あたりのページ数はむしろ増えている。その後の89年改訂・98年改訂では授業時数・学習単元にほとんど変化はない。しかし,1時間当たりのページ数が減っている。77年改訂と98年改訂の教科書を比較すると,244 ページから172 ページへと「約3割」減少していることになる。「3割削減説」ここに復活である。

2.4 節で述べたように,ゆとり教育,特に文系科目では学習単元が削除されたり,或いは移行・統合されたということはほとんどなかった。また,ページ数の減少が授業時数に比例するのであれば,減少は10ページ程度に収まるはずである。それではなぜ,教科書のページ数だけが減少を続けているのだろうか。

2.7.1 歯止め規定による教科書の拘束

一つ目の理由は「歯止め規定」である。先述したように,「歯止め規定」が現場の教員を実際に拘束していたかには疑問が残る。教員は歯止め規定を律儀に守らずとも何らかの不利益処分を実際に受けるわけではないからだ。しかし,教科書会社にとっては事情が異なる。周知のように教科書を発行するには「教科書検定」を受け,文科省からの認可を受ける必要があるからだ。

菱村(2003)によると,歯止め規定はもともと教科書のページ数を抑制するために導入されたという。当初は「教科書検定基準」を設けることで教科書の記述内容を削減しようという案があったが,それでは教科書の検定基準と指導基準(学習指導要領)の二重基準になってしまう。そこで学習指導要領に歯止め規定を設け,それを検定基準に反映させることで教科書の記述内容削減を実現したという経緯がある。89年改訂から教科書の1時間あたりのページ数が減少するのは,89 改訂から「歯止め規定」が増加していったことと無関係ではないだろう。

実際に,歯止め規定が見直されたことによって教科書のページ数は増加している。指導要領が一部改正されたのは2004年度のことであるが,翌2005年度からは改正された指導要領に準拠した教科書が使われている。社会科教科書の場合、ページ数は172ページから196ページへと20ページ以上増加した(表2.3)。もちろん,指導要領の一部改正によって授業時数が増加したり,学習内容に追加があったわけではない。ただ歯止め規定が見直されただけである。

補足すると,歯止め規定は2004年度に一部改正され,指導要領の最低基準性を明確にしているが,現行指導要領となる07年改訂では歯止め規定の完全な廃止が決定されている。「脱ゆとり教育で教科書が○○ % 増加」という話はよく聞くが,教科書のページ数が増えたのは,実際の学習内容が増えたことに加え,歯止め規定の廃止を反映していることも大きい。実際に07年改訂では,小学校第6学年社会科の授業時数は5%しか増加していないが,教科書のページ数は20%増加している。学習単元についてはほとんど変化がないにもかかわらずである。

2.7.2 指導法の変化

割愛

2.7.3 出版社の経営事情

同上

引用・参考文献

[1] 池上彰 2014 「池上彰の『日本の教育』がよくわかる本」PHP文庫

[2] 市川伸一 2003 「学力低下論争」ちくま新書 

[3] 小野元之 2006 「基調講演:日本の子どもに求められる読解リテラシー」『読解リテラシーの測定,現状と課題―各国の取り組みを通じて』東京大学大学院教育学研究科教育測定・カリキュラム開発<ベネッセコーポレーション>講座国際研究会,2006年8 月6 日 

[4] 教育課程審議会, 1998, 幼稚園,小学校,中学校,高等学校,盲学校,聾学校及び養護学校の教育課程の基準の改善について(教育課程の改善のポイント)

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/old_chukyo/old_katei1998_index/toushin/1310248.htm

[5] 教科書協会 2014 「教科書発行の現状と課題」

http://www.textbook.or.jp/publications/data/14tb_issue.pdf

[6] Graham, S., Weintraub, N., & Berninger, W.V. 1998. The Relationship Between Handwriting Style and Speed and Legibility, The Journal of Educational Research,Volume 91, 290-297

[7] 公益財団法人教科書研究センター 教科書目録情報データベース

http://textbook-rc-lib.net/Opac/search.htm?s=-cKZ-xZqMVYzA_3dOR9fO1zB6wh

[8] 佐藤博志・岡本智周 2014 「『ゆとり』批判はどうつくられたのか」太郎次郎社エディタス

[9] Jackson, A.D. 1970. A comparison of speed legibility of manuscript and cursive handwriting of intermediate grade pupils, The University of Arizona.

[10] 中央教育審議会, 2003, 中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会総則等作業部会(第4 回)配布資料

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/005/gijiroku/03071801/003.htm

[11] 中央教育審議会, 2003, 初等中等教育における当面の教育課程及び指導の充実・改善方策について

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/03100701.htm

[12] 澁澤文隆・佐伯眞人・大杉昭英編著 2000 「改訂・中学校学習指導要領の展開―社会科編」明治図書

[13] 東京書籍 2002 「新しい社会6 上」東京書籍 78 参考文献

[14] National Mathematics Advisory Panel 2008 Foundation for Success The Final Report of the National Mathematics Advisory Panel U.S. Department of Education.

[15] 根元博・杉山吉茂[編著] 1999 「改訂・中学校学習指導要領の展開-数学科編」明治図書

[16] 判例時報社 1978 『判例時報』vol.900 判例時報

[17] 菱村幸彦 1976 「教育課程の法律常識―教育指導の法的理解のために―」第一法規出版

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http://www.kyouiku-kaihatu.co.jp/uploads/file/material/pdf/pdf/kenshu072.pdf

[19] 古橋昌尚/ダルトン・コリーン/市澤正則 2014 「共通学習基礎州基準(CCSS)導入計画: アメリカ合衆国教育改革の新たな賭け」『清泉女学院大学人間学部研究紀要』 11 号 pp.59-70

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[21] 諸澤正道 1978 「学習指導要領の拘束性と弾力性」大塚智孝編『季刊教育法』vol.30総合労働研究所

[22] 文部科学省 2006 「高等学校等における未履修の状況について」http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/028/siryo/07090404/005/003.pdf

*1:ただし,後述するように,中学校から高校に移行された「資料の整理」「標本調査」(高校では数学B「統計とコンピュータ」「数値計算とコンピュータ」,数学C「確率分布」「統計処理」に相当)については大学入試で出題されることは殆どないため,指導していない高校も相当数あったのではないかと思われる。

*2:後述するように歯止め規定が見直された2005 年度以降の教科書では,これらの学習事項も記述されている。

*3:高校教員の中学校指導要領に対する意識は薄い。ベネッセの第5 回学習指導基本調査では,2010 年の段階でも,自分の担当教科に関する現行(ゆとり教育)の中学校指導要領について,「よく知っている」と答えた高校教員はわずかに3.4%,「まあ知っている」と答えた教員でも34.4% にとどまる。

時として現場からも「学力低下」の声が挙がる原因は,あるいはここにあるのかもしれない。つまり,小学校教員から見れば,ゆとり教育で教える内容が減っており,中学校教員から見れば,今までの子どもたちが知っていたことをゆとり教育を受けた子どもたちは知らない。また,教える内容も減っている。そして,高校教員にとっては知っているはずの知識を子どもたちが持っていないのだから,学力低下は明らかだと見えるのかもしれない。