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ゆとり教育とは何だったのか―俗説に対する批判的検討 3.補遺 『経験と教育』について

経験主義とは何か

デューイがその教育哲学の基礎においているのは,経験主義という名からもわかる通り,「教育というものは子どもの実際の生活経験に基礎づけられたものでなければならない」という信念である。経験主義の理論はこの信念から出発している。しかし,その正当性についてデューイ自身は傍証をいくつかあげているものの,特に厳密な論証を与えているわけではない。たとえば,「経験と教育」の中でデューイは次のように述べている。

あらゆる不確実性のさなかに,一つの永遠の準拠枠があってしかるべきであると,私は思っている。すなわち,教育と個人的経験の間にみられる有機的関連があるということを,あるいは教育の新しい哲学が,ある種の経験的,実験的な哲学に関わっているということを,私は想定するのである。(Dewey 1938, 市村訳 2004 p.29)

 この後もデューイは自身の教育哲学が「一つの計画」でしかないことを何度か断っている。本稿でもこの前提については問題としない。今説明しているのは経験主義の是非ではなく,その意味するところだからである。さて,教育が経験に基礎づけられなければならないとすれば,次にはその「経験」が何を意味しているかが問題となる。なぜらなば全ての経験が「教育的経験」であることはありえないからだ。親に甘やかされるのも他人に暴力をふるうのもそれはそれで一つの経験ではある。しかし,これらの経験が教育という枠組みの中で無条件に歓迎される経験でないことは自明だろう。

すなわち,経験の「質」,或いは「価値」がここでは問題とされるのであるが,その判断基準についてデューイは経験の「連続性」という概念に注目する。あらゆる経験は先行する過去の経験から何らかの影響を受けており,また,同じようにある経験は後続する未来の経験にも何らかの影響をあたえる。たとえば,テストで良い成績をとった子どもはそれに自信をもってより勉強するようになるかもしれないし,逆の場合には勉強に嫌悪感をもつようになるかもしれない。また,経験は次の経験のための環境それ自体に影響を与えることもある。たとえば,子どものころに英語を勉強している子どもはその将来において,自分の目的のために英語の文献を利用することができるようになるだろうし,何らかの経験によって特定の職業に憧れを持った子どもは,そうした職業についての情報に一層敏感になるだろう。

これをデューイは「連続性の原理」,或いは「経験的連続性」と呼ぶ。そしてデューイは「経験」と「成長」の類似性を指摘し,この二つを同一視することができると主張する。したがって,経験主義における経験は,それが連続性を持つときに初めて価値を持つことになる。もし,経験が過去の経験,或いは将来の経験から切り離されるとき,言い換えれば経験の「動力」が弱められるとき,その経験の教育的価値もまた弱められるのである。

しかし,連続性の原理だけでは経験の質を決定することはできない。原理というものは普遍的,一般的なものでなければならないからだ。つまり,教育熱心な親の下に育ち成熟した社会人となった場合にも,或いは幼い頃の虐待経験によって一般社会から逸脱し遂には犯罪者となった場合にも,経験の連続性という観点からはどちらも等しく「成長」したと言わざるを得ないのである。

ここに教師の意義がある。子どもがもつ経験の動力がどのような方向性をとっていのか,またそれにどのような評価を下すべきであるのか,教師が持っている成熟という決定的な特質はまさにこれを判断し,導くためにこそある。そのため,経験主義においては何よりも教師の指導力が問われなければならない。子供を放任して,好き勝手に遊ばせるという「ゆとり的」教育観は経験主義の対極である。

しかし,このように議論を進めていくと一つの問題点が浮上してくる。すなわち,これは進歩主義的教育が批判し,またデューイも否定する伝統主義的教師と同じものではないかという問題である。子どもの自主性を尊重することは,進歩主義的教育においても,経験主義においても,その根幹をなすものである。教師の指導力をいたずらに強調すれば,この自主性が脅かされるのではないか。この問題はさらに拡張することもできる。つまり,経験という現象が内部から始まり内部において完結するものでないことは自明であり,従って結局のところ経験の端緒というものは外部的条件に拠らざるを得ない。そこには子どもの生活条件や各種の教材・教育設備,また教師といった外部的条件が否が応にも存在するのである。

デューイは,外的条件が内的条件,つまり子どもの興味や関心,或いは欲望といったものに干渉すること自体は認めている。しかし,それには一定の制約が課されなければならない。つまり,「価値ある経験」の形成に寄与すると考えられる子どもの生活経験,たとえば,自然的・社会的,或いは経済的な環境を教師が認識し,それを利用しなければならないというのである。これは,究極的には子どもの外的条件と内的条件をどのように融和するかという問題に帰着される。

ここで,デューイは伝統的教育観も進歩主義的教育観も否定する。すなわち,伝統的な学校では机や黒板といった極めて限定的な外的条件しか想定せず,利用もしていなかった。これでは,子どもの生活経験,或いは環境を考慮した教育を行うことは不可能である。一方,外的条件を子どもの内的条件に従属させようとする進歩主義的教育はそれ以上に危険なものになり得る。すなわち,そうした教育において「教育の目的」は失われ,子どもの経験が真に教育的に価値あるものになりうるかは,偶発的な機会に左右されることになるのである。

そこで,デューイは外的条件と内的条件に「同等」の権利を与える。たとえば,デューイは赤ん坊と母親の関係性からそれを説明する。赤ん坊は,お腹をすかせたり退屈したときのように不快な感覚を覚えると,その解消を泣くことによって外部の人間に要求する。このときに母親はどう反応するべきだろうか。ある母親はあらかじめ決められたプログラムを遵守してこれを無視するかもしれないし,ある母親は赤ん坊の要求にことごとく答えようとするかもしれない。しかし,デューイは次のように説明する。

もしその母親がこの点で賢明であるならば,その母親はどのような経験が一般に幼児の正常な発達にとって最も役立つかを,自分自身の経験に劣らず育児のエキスパートの経験の光に照らして引き出すのである。このような条件は,赤ん坊の直接的・内的な条件に従属させられるというのではなく,その赤ん坊の直接的・内的な状態との間に特殊な種類の相互作用がもたらされるように,これらの条件が確実に秩序立てられるのである(同上 p.60)。

この「相互作用の原理」こそ,デューイの教育哲学における第二の主要な原理である。ごく大雑把に言えば,相互作用の原理とは,状況に応じて客観的条件を調整すること,またそれによって内的条件にも何らかの変更が与えられること,と言うことができる。未成熟な子どもの個人的な要求,願望,目的,能力を,成熟した大人である教師や親がその成熟した知識を利用して秩序立て整理してやるのである。ここにおける相互作用はそうした子どもの内的条件を無条件に否定することでも肯定することでもない。

ここまでにおいて導かれた「連続性の原理」と「相互作用の原理」は,教育と生活の有機的関連という信念から演繹された論理的帰結である。しかし,デューイの教育哲学は実践から遊離した空理空論ではない。かえって,実践から必然的に要求される哲学,実践のための哲学こそがデューイの教育哲学なのである。そこで,デューイの教育哲学には解決すべき実践上の問題が残されていることに気付く。すなわち,社会的統制の問題である。

相互作用の原理は一見すると,素朴な理想論のようにも思える。つまり,仮に相互作用の原理が正しいとしても,そうした理想的な関係を,子どもと教師がいかに構築することができるのか。子どもが教師の言葉に従わない場合,いかに子どもを「従わせるのか」という問題が解決されていない。

そこで,デューイはある種の社会共同体における統制の原理を「ゲーム」に見られる子どもの反応から説明している。ゲームの最大の特徴は,それが極めて統制的な性格を持ちながら,なお子どもはそれに喜んで服従とするという事実である。たとえば,ゲームには必ず規則が存在する。規則が存在せずに完全に自由なゲームなどは想定しえないものである。また,それらの規則はかなりの程度「標準化」され,しかもそれらの正当性は単に伝統や先例によって基礎づけられたものだ。スリーストライクでアウトになることに合理的な説明がつけられないとしても,それに異議を唱える人間はいないだろう。

では,こうしたなかば因襲的ですらある「ゲーム」という活動に子どもが服従する理由は何だろうか。デューイはその理由を次のように結論する。

ところで,私が引き出そうとする一般的な結論はこうである。個人の行動の統制は,その個人が含まれ分担している協同的で相互作用的な役割をもっている全体的な状況によって,効果的なものとされているのである(同上 pp.81-82)。

デューイはゲームにおいて何らかの不満,或いは抗議が起こる状況が,「個人の意志が他の誰かに押しつけをやっている」ときに限定されていることに注目する。一般的に何らかのゲームにおいて,参加者はそれぞれが何らか固有の役割を担っている。それは競争的で個人的な競技ですらも同様である。その場合でも,それぞれの参加者はルールに則った公平なプレイヤーとしての役割が期待されているのである。ゲームにたいして不満や抗議が起こるのは,「個人の意志によって」,その役割が放棄されるときに他ならなない。逆に言えば,何らかの共同体において,その成員それぞれに何らかの役割が与えられ(つまり,「参加」すること),かつ,その共同体の運営が「共同体の意志」に基づいていると参加者が是認するとき,個人は社会的に統制されるのである。

もちろん,あらゆる状況における統制が「共同体の意志」に基づかなければならない,というほど素朴な主張をデューイはしていない。親にしろ教師にしろ,ある種の権威が統制の手段として使われることは当然にありうるものである。しかし,それにはあくまでも集団の利害のために行うという条件が必要になってくる。たとえば,デューイは次のように指摘する。

教師は生徒たちに対し確固として話をし,行動しなければならないときには,それは集団の利害のためになされるのであって,教師個人の力を表示するものであってはならない。(中略)個人的な能力と願望を動機として命令される行動と,集団すべての人の利害にかかわる関心の的である公平な行動との間の相違を感じないような子どもの数は少ない(たとえ,子どもたちが,それらの相違を明確にはできなく,知的原理に還元することができないとしても,大半の子どもはその相違を感じているのである)(同上 pp.84-85)。

ここまでデューイが述べてきた経験の連続性,相互作用の原理,また社会的統制のための条件は,本質的に教育が社会過程であることを意味している。つまり,経験主義では,ゆとり言説に見られるような個人の自由奔放なふるまいを許したりはしない。たとえば,「礼儀作法」といものは,しばしば進歩主義的学校においては軽視,或いは無視されるものである。しかし,教育が社会過程であるという前提に立てば,こうした,それ自体は単に形式的なものにすぎない礼儀作法といったものであっても,「人生における最も重要な教訓の一つ,すなわちお互い同士の調停と適応という教訓」を学ぶことに寄与するのである。

これが,社会的統制についての,デューイひいては経験主義の考えである。しかし,統制という問題にはそれ自体とは別にもう一つ語らなければならない問題がある。すなわち,強制的な統制が子どもの自由を奪うものだから原則として許されないというのであれば,その子どもの保護されるべき自由とは一体何なのか,という問いである。

子どもの自由,或いは教育における自由の問題は今なお決定的な決着のついていない問題でもある。たとえば,「経験と教育」の編集者はしがきで,A.L. ホールクェストは次のように述べている。

伝統的なカリキュラムには,固定した統制と訓練が必然的に伴われている。そのことは,疑いのないことである。それら統制と訓練は,子どもの本性である能力と興味を無視することになる。しかしながら,今日,この型の学校教育に対する反動が,他方の極端―不完全なカリキュラム,行き過ぎた個人主義,およびはきちがえた自由を標榜する自発性―をしばしば助長しているのである(同上 p.13)。

80年前の文章である。こうした「行き過ぎた個人主義」や「はき違えた自由」をもし現代の流行だと考えているようであれば,その人もまたゆとり言説に毒されている。この種の議論はゆとり教育のはるか以前から何度も繰り返されてきているのである。そして,デューイの哲学はまさにこの議論に終止符を打たんとしたものであることに注意したい。

したがってデューイのいう「自由」とは,ここに見られるような単純素朴な自由ではありえない。では,経験主義における自由とは何であるのか。それは,「力としての自由」である。その力とは,「目的を形成する力であり,賢明に判断する力であり,願望を実践したことからの結果によって願望を評価する力であり,選定された目的を実施する手段を選択し,秩序あるものにする力」なのである。

目的は通常,衝動や願望から発生する。こうした欲望をデューイは行動への究極的な源泉であるとみなす。人の欲望は際限なく続き,かつそれらの欲望が強ければ強いほど,人を行動に駆り立てる力もまた強くなっていく。しかし,人の欲望というものは,その自然状態においては何の価値も持っていはいないし,それ自体が望む結果に自動的に変換されるわけではない。テストで良い点をとりたいと思っても,思っただけでは意味がない。

ここに,教育における目的と自由の本性が存在する。つまり,衝動や願望が発生した時点では,それ自体に「望む結果」を生み出す力はない。「新しい家を買いたいので買いました」では無意味に借金を背負うだけである。知的な判断というものは欲望の即時実行ではありえない。家を買いたいと思うのであれば,その人は自分の望む家について,その部屋数や配置,自分の職場からの距離,その他生活に必要な条件などを勘案しなければならない。また,その家を購入する際の資金,或いは融資の条件を整える必要もある。すなわち,欲望を遅延し,知性の働きによってそれを計画的な目的に変換し,実行する能力,或いは,実行したのちにその結果を評価する能力,これこそが経験主義における「自由」の意味であり,またその能力を育成することが経験主義の目的なのである。お わ り。

 

※以上の文章はデューイの『経験と教育』を解説したものであり、私自身の思想信条を表明するものではありません。念のため。