素晴らしい本ですがより良い認識のための補足です。
川口説
事実、2002年に土曜日が休日になったことにより、SESによる中学3年生の学習時間と高校1年生の読解力の格差が拡大したと解釈できる研究結果がある(Kawaguchi 2016)https://a.co/bB6Kc3q
川口が二次分析した社会生活基本調査のデータでは、最も学習時間が増加しているのは「親の学歴が高卒」の子供であり、これについて統一的な説明を与えることは出来ない。敢えて言うならば高卒と大卒の格差は縮小したが中卒との格差は拡大したと表現するべきだろうか。また、2011年調査以降のデータとの比較が無いため、「週休二日制による格差拡大」説はいみじくも筆者の言う通り「解釈できる」に留まる。
同じくKawaguchi(2016)では、PISAデータを利用して同様の分析を行っているが、そもそもPISA2000の時点では数学的リテラシー、科学的リテラシーは得点スケールが確立していないため比較は不可能である、と思うのだがどうなんだこれは。出来ないよな…?いや出来るのか?多分出来ないと思います。近年はPISA調査の設計について詳細な日本語文献が参照できるようなったので、勉強し直すついでにPISA2006以降との比較も併せて後で追記しようと思う。社基調と違ってPISAのデータは誰でも利用できるのがありがたい。
読解力はPISA2000の主要調査分野(main domain)であったため、PISA2003以降との比較が可能となっているが、PISAの報告書では、PISA2000-2006のサイクルはテスト設計の変更が大きかったために、読解力得点の解釈には慎重を要することが注されている(OECD 2016 p.161, p.172)。この点についても後日もう少しまともな考察を追記したい。
追記
そもそもPISA2000では親の社会経済的地位に関わる設問に日本は回答しておらず、そのため川口は家庭の蔵書数や自室の有無等の変数を用いて親の学歴を予測しているのだが、PISA2003以降は親の学歴を含めた様々なSES変数をまとめたESCSという指標が用意されている。このESCSを利用すれば川口の分析よりも遥かに簡便かつ精度の高い分析をすることが可能だ。実際にESCSと各領域の得点を回帰分析した結果、「ゆとり教育による格差拡大」は支持されなかった。
前節で例に挙げた学校群制度、「ゆとり」教育、高校教育改革─ ─ これらの政策による「意図せざる帰結」を現在指摘できるのは、研究者が「外側」から工夫して分析したり、一部の地域の協力を得て内部に入り込んで調査したりしてきたからだ。
はぁ。工夫するのは結構なのだが工夫する必要のないPISA2003以降のデータを利用して同様の分析を行わないのは何故だろうか。結果を鑑みるに自説に都合が悪いから…と邪推したくなるが松岡先生の仰っている通り大抵の物事は悪意より無能で片づけるべきなのだろう。
"日本は改革前後でまっとうなデータを蓄積していない。査読付き論文のデータとして利用できるぐらいの学術的に耐えうる水準ではない、都合の良い適当な数字や感想文の切り貼りによる結論の決まった報告書(らしきもの)は「効果」の「証拠」にはならないのだ。" https://a.co/bbExyMm
至言である。惜しむらくは松岡先生のご研究には余り生かされていないようだ。
苅谷の功罪
しかし、それは一部の層の経験、それに「受験地獄」というメディアなどで描かれていたイメージに過ぎず、1970年代から学習時間は減りつつあったのだ(苅谷2002)。また、教育内容を削減すれば授業理解度が改善するとか、教師主導の「詰め込み」から子供の興味・関心に沿った体験型授業にすれば学習意欲が湧き上がるという主張は、理論や実証研究に裏付けられていたわけではない。 「思い込み」に基づいて授業時間数とカリキュラムが削減され、学習圧力が低下した結果、存在するデータでは授業内容の理解度に変化はなく、到達度はむしろ低下傾向で、学習意欲も改善しなかった(苅谷2002)。また、2002年度に実施された学習指導要領で土曜日が休みになったことで、SESによる学力格差が拡大した(Kawaguchi 2016)
節のタイトルが「ゆとり教育」であり、苅谷(2002)からKawaguchi(2016)がシームレスに接続されているが、苅谷が実証した「ゆとり教育の弊害」における「ゆとり教育」とは、一般にイメージされる2000年代のそれではない。この辺りの事情は100回くらい書いているし以下の記事でも詳しく説明しているが、簡潔にまとめると
①学習時間の減少、学習意欲の減退、学力格差の拡大等々の苅谷が発見した諸々の事実は主として90年代後半とそれ以前の時期を比較したものである②翻って2000年代以降はそれに反する調査結果が出ているが、それを調査者達は「2002(2003)年以降の確かな学力向上路線」の結果であると解釈しており、ここに「ゆとり教育」という用語の意味が致命的に反転している、ということである。
この用語の明らかな混乱に対して、それを指摘する教育学者が誰一人いないのは単なる無知か無能であると思っていたが、『教育格差』ではしっかり志水(2014)が引用されているので、何かよんどころない事情があるのかもしれない。
個性化とは
高校教育政策の転換の研究(荒川2009)によれば、1984年設置の臨時教育審議会以降、高校の個性化・多様化政策が推進されることになった。教育達成による成功というのは一元的な価値に過ぎないという批判に対し、多元的・多様な「興味・関心」「夢」を生徒が追いかけるようにカリキュラムを変更することで、学歴獲得競争の緩和を目指したとされる。https://a.co/7uuBWXq
15歳時点で進学校に合格できた生徒はよいが、家庭SESに恵まれず進学校に入れなかった生徒は「興味・関心」に基づき「夢」を追い求めることを煽られ、中には就業機会が少数の人たちに限られた憧れの職業を希望する者も出てくる。カリキュラムの「個性化・多様化」による「生まれ」格差の拡大──「差異化」を志向した政策にありがちな帰結である。
間違った記述ではないが念のため補足しておくと、上述した学習時間や学習意欲等と同じく、荒川(2009)の指摘するこうした傾向は2000年代半ば以降に衰退した可能性がある。現代教育の通弊とされる「個性」についてはすぐ後に詳述するが、個性化と進路選択の関連に限って言えば、木村他(2009)では、荒川の「ASUC職業志望」と同様の「アノミー型アスピレーション」が2003年から2007年にかけて大幅に減少したことを報告している。
世界に一つだけの花
この政策の例に関連して付言すべきは、教育の中でどれだけ表面的な平等を取り繕い「夢」を煽ったところで、わたしたちは労働市場において冷徹な評価を受けるということだ。有名な曲の歌詞にあるように、花屋の軒先には様々な種類の花が並んでいて、価値観によってどれが美しいと思うかは個々に違うだろうし、ナンバーワンを決めることは野暮だろう。ただ、花屋のたとえをするのであれば、すべての花は商品であり、異なる数字の値札が貼られているのだ。もちろんすべて同じ値段ではない。「個性」や「多様性」をどれだけ主張したところで、100円は100円であり、1万円は1万円なのだ。わたしたち一人ひとりは代替することができない存在であるはずだが、労働市場においては値札が貼られるのだ。この現実が存在しないかのように学校の中で振る舞ったところで、労働市場に出なければならない時期が来る。
馬鹿か
このブログで初めて文字を大きくする機能を使ったがそれほどまでに呆れている。いや怒っている。世界に一つだけの花を持ち出して個性を云々するのは馬鹿しかいないと相場が決まっているからだ。と、憤ってみせたがこの記述自体はそれほど間違ってはいない。ただし、何度も繰り返しているように、これはあくまで90年代以前の話である。世界に一つだけの花=(2000年代の)ゆとり教育と思っている読者のためにここで少し補足しておこう。
以下のグラフはベネッセが実施した『学校指導基本調査』において、教員の指導観を調査した結果である。小中学校の教員それぞれについて、(2002年実施の)ゆとり教育実施の5年前と5年後の結果を比較している。ちなみにこのグラフを引用するのは優に20回は超えているが未だに浸透する気配はない。
見て分かる通り、全ての設問に「個性―画一性」「自主性―強制」という対立軸が設定されている。結果はご覧の通りである。全ての設問で例外なく教員の指導観は個性から画一性へ、自主性から強制へとあからさまに変化している。私自身はこの結果をゆとり教育に対するバックラッシュだと考えているが、これをゆとり教育の本旨が達成された結果と解釈することも不可能ではない。
そもそも世界に一つだけの花がどうたら言い出す馬鹿(松岡先生のことではない)の信じる牧歌的「個性」は指導要領はもとより中教審答申にすら見出すことはできない。仮に心の目で見出したとしてもそれに教員が拘束される謂れも生徒がそれに諾々と従う理由もないのである。と、いうことを以下の記事でより詳細に説明している。この記事に書いている程度のことは教育学者であれば常識レベルで把握しておいてほしい。
しません
「多様な価値観・個性」の「多様」は何を意味するのだろう。「学校の勉強が好きではない」のも「多様な価値観・個性」として、「ありのまま」許容するのだろうか。
するわけねーだろ馬鹿か
いい加減にしろよ。教育学者は論理的思考力を放擲しないと務まらない仕事なのか。この手のアホは腐るほど見てきたがわざわざストローマンと指摘するのがちょっと恥ずかしく感じるほどのストローマンである。そんな奴がいるなら俺が説得してやるからさっさと屏風の中から出してくれ。つーかお前この手の人間が絶滅危惧種で自分が圧倒的多数派であること自覚してこんなこと書いてるだろ。
もちろん松岡先生が言及するような人も広い世の中いるにはいる(小学校教員:6.1%, 中学校教員11.9% 上図参照)のだが、上述の「バックラッシュ」後に尚その信念を堅持しているのであれば、それはもうそういう人であって別にキラキラした美辞麗句に踊らされているわけではないのだろう。現状は教育政策の妨げになるほどの脅威的勢力ではない(上掲「『ゆとり的教育観』は実在したのか」参照)と思われるので人気取りが目的でなければ放置しておいても問題は無いだろう。
追記
この辺りの話は分からない人には分からないと思うので一例を挙げておこう。
痛いニュース(ノ∀`) : 「でんしゃがだいすきなおともだちへ」貼り紙に「撮り鉄侮辱してる」と怒りの声…JR西「バカにする意図ない」 - ライブドアブログ
当該ツイートのリプライ100件強、引用リツイート700件強ほど確認しましたが撮影者の芥川快速さんを含め「憤っている撮り鉄」は一人もいなかったのですが…ブコメを見る限り皆さんも撮り鉄に劣らず直情的なようで
2021/03/06 12:09
一応説得力を高めるために精査しているのだが、正直言えば一読しただけで「憤っている撮り鉄」など一人もいないのだろうなと当たりは付いていた。結果は案の定だったのだが、私がこのコメントを残すまで誰一人として「逆ギレする撮り鉄」の存在を疑う人はいなかった。昔から思っていたのだがどうにも私はこうした能力に優れているらしい。或いは世間一般の人の能力が低すぎるのかもしれない。手前味噌で恐縮である。
ただ、これらの「改革」が善意に基づいて行われたことを疑うつもりはない。自分たちの視界の範囲だけで全体の現状を把握せずに理念先行で政策を作り、妥当な手法でデータを集めて効果を検証することもない。改革の推進者は善良ではあるけれど、無知で無能だっただけだろう。
私も先生の善意を疑ったことはありません。
最後に
社会学も教育学も統計学も修めていない私がなぜ解釈共同体理論を学びながらデューイの著作群を精読しつつRでPISAデータを分析しなければならないのかよくわかりません。まあ好きでやってるから別にいいんですけど、出費も馬鹿にならないんですよね…荒川(2009)なんてちょっと引用するだけで3000円ですよ。払えるかそんなもん。ちなみに阿呆学部出身なのでこのブログと私のやってきたことはマジで何の関係も無い。ついでに仕事とも関係が無い。
ゆとり言説についていっちょ調べてみるかと思ってから5年程経ちますが、日本の学者先生の知的水準には日々驚嘆しております。「ゆとり教育とは何だったのか」はゆとり言説についての理解を深めるため、叩き台として実質半年程度で書き上げたのですが、学者先生には低俗過ぎたのか発破をかけても叩いてくれる人が未だ現れません。どうなっているのでしょうか。叱咤激励誹謗中傷のコメントをお待ちしております。
引用・参考文献
木村邦博(編)(2009). 「教育と社会に対する高校生の意識 : 第6次調査報告書」
志水宏吉・伊佐夏実・知念渉・芝野淳一 (2014). 「調査報告―『学力格差』の実態」岩波ブックレットNo.900
ベネッセ教育研究開発センター (2008). 「第4 回学習指導基本調査」. http://berd.benesse.jp/shotouchutou/research/detail1.php?id=3247
Kawaguchi, D. (2016). Fewer school days, more inequality. Journal of the Japanese and International Economies, 39, pp.35-52
OECD (2016). PISA 2015 Results:Excellence and Equity in Education Volume I.