若者論を研究するブログ

打ち捨てられた知性の墓場

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火事場の野次馬は日本の伝統

古来彼岸ノ火事ヲ見テ笑フ者アルモ泣ク者アルヲ聞カズ

尚甚シキハ火事ヲ見物スル者アリ人ノ家ヲ焼キ財産ヲ失ヒ老若男女狼狽奔走スル其有様ハ實ニ氣ノ毒ナル次第ニシテ人間畢生ノ大災難ト稱ス可キモノナレドモ遠方ヨリ見物スル者ハ毫モ之ヲ心ニ関セザル歟、古来彼岸ノ火事ヲ見テ笑フ者アルモ泣ク者アルヲ聞カズ然カノミナラズ出火ト聞テ見物ニ出掛ケ頓ニ鎮火スレバ却テ大ニ落膽シテ其顔色不平ナルガ如キ者アリ人間ノ心理實ニ驚駭スルニ堪ヘタリ然リ而シテ此心思ノ動ク所ハ元ト羨ムニモ非ズ妬ムニモ非ズ唯徒ニ一時ノ興ヲ催フスマデノ事ナレドモ世間古今ノ事實ニ於テ然ルトキハ之ヲ一種ノ人情ト伝ハザルヲ得ズ京都ノ俳人梅室ノ句ニ「愛相に、もひとつころべ雪の人」トハ是等ノ人情ヲ寫出シタルモノナラン

福澤諭吉, 『民情一新』, 1879, pp.131-132

火事場に赴くときの心得

〇火事場に行くには提燈を用ふるを宜しとす
〇親族朋友知人の火災なれば十分助力すべし
〇火事場に行きては人の防害になるべからず
自己の慰に行く可からず
〇火煙中を行くには地上を匍匐すべし
〇火災に際しては狼狽すべからず

進藤貞範等編, 『小学作法要録』, 1893, 武内教育書房, p.58

さん/゛\飲食ひして宜い機嫌になつて居る其時に不圖西の方を見ると大阪の南に當て大火事だ、日は餘程落ちて昔の七ツ過、サア大変だ[…略…]吾々花見連中は何も大阪の火事に利害を感ずることはないから焼けても焼けぬでも構はないけれども長與が行て居る[…略…]もう夜になつては長與の事は仕方がない「火事を見物しやうぢやないか」と云て其火事の中へどん/\這入て行た所[…略…]散々酒を飲み握飯を喰て八時頃にもなりましたらう、夫れから一同塾に歸つた所がマダ焼けて居る「もう一度行かうではないか」と又出掛けた、其時の大阪の火事と云ふものは誠に樂なもので火の周圍だけは大變騒々しいが火の中へ這入ると誠に静なもので一人も人が居らぬ位、どうもない、只其周圍の處に人がドヤ/\群集して居るだけである、夫れゆゑ大きな聲を出して蹴破つて中へ飛込みさへすれば誠に樂な話だ、中には火消の黒人と緒方の書生だけで大に働いた事があると云ふやうな譯で随分活溌な事をやつたことがありました。

福沢諭吉, 『福翁自伝』, 1899, 時事新報社, pp.123-125

癸卯天明三年六月廿七日火事場見物御停止被抑出

火事の節火消人數御定の外火事場へ罷越見物等致間敷段先條度々被抑出候得共近年自然と御締相破れ火事見物の者數多有之大勢立止り致見物或は火消人數の内へ交り若氣強勢に任せ又は酔狂の族も有之火消方の妨に相成其上怪敷者入込候節役目の者詮議の紛れに相成候由相聞前々被抑出候を相背き不屈の至に候自令今右體の儀無之様可相心得候若相背者於有之は無見遁姓名承屈奉行所へ申出候様此度改て御使番中并徒目附へ申渡候間懇に支配下へも可申含候事

池田成章, 『鷹山公世紀』, 1906, 吉川弘文館, pp.308-309

近頃向うでは子供の消防隊を造ることが非常に流行して居る、日本では火事があると、騒ぎばかり大きくして、野次馬の出ることが夥しい、其中には子供も居るが、それは皆見物だ。向うでは少年の消防隊を奨勵して消防の補助をさせる。米國ウイルコツクスといふ人は『消防は單に装飾事業のみでなくして、一種の教育的のものである、斯ういふ良い訓練事業はない』といふことを申して居る。

井上友一, 『井上明府遺稿』, 1920, 近江匡男

彼處に一本群を抜いて高い電燈が見えるでせう。あれが本牧の鼻です。私、おや、彼處が變に赤くなつてゐるが、あれは何處です、火事じやないのですか。彼處は鶴見で、いつも赤く見えるのですが、今夜は少し赤過ぎる、ひよつとすると火事かも知れませんよ。夕刊を讀んでゐた乗客の一人が我々の方を振向いて、淺野の事務所と工場が燒けてゐるのです、といふ。我々はお月見と火事見物を兼ねてゐる譯であるが、火事の現場が餘り我々から遠ざかつてゐるので、一團の鬼火のやうに見えるだけで、火事らしい壮観はない。もつと燃ゑてくれゝばよいと思ふ。おつとこれは失禮。

茅原華山, 『湖海静游記 : 一名常総遊記』, 1928, 内観社, p.6

火事見物を稱して彌次馬と云ふ 「彼等は人類共同のエネミーなり」

古來我國では、火事を櫻花咲く公園の花見か、或は海岸に漂着したる青年男女の抱合情死か、乃至は近年各地共大流行の野球試合でも見に行くのと同じ心持で駆け出す者が極めて多い様に思はれる。之を我が香川縣内に於ける最も近い例を以て言ふなればあの高松市内東濱町遊郭に於ける火災の如き恰も蜂の巣をくずした如く四方八方より押し掛けて來て警察官及消防組員の制止も、なか/\聞かず、右往左往し、消防の活動を著しく阻害して居る。所謂彌次馬と呼ぶ連中こそ、即ちそれである[…略…]又夫れを思ふて尚且つ花見氣分やお祭氣分で浮れ見るものがあつたとすれば、それは許すべからざる罪悪否人非人で、人類共同生活のエネミーであると云はねばならぬ。

槙井広一, 『消防実務要義』, 1929, 乃上印刷所, pp.333-335

"旅館の近邊ヨリ出火ス、然ルニ市中少モ不騒、火消人ノ外、餘人ハ其場ニ行ク事ヲ不免、殆ント周章セス、稍アリテ火消人數百人、種々異形ノ非常道具を車上ニ積、馬ニ曳カシメ來リ、皮ヲ以テ丸ク縫綴、如筧爲シ之ヲ屋根ニ投懸、其根元ニテ蒸氣ヲ以テ水ヲ押ス(但シ右皮ヲ以テ筧ノ如ク爲シタル者ヲポンプト云フ)水勢盛ニ噴吹シ、其近傍水溜リテ漣リ立ツ、且ニハ燔石ノ造築故傳燒スルコトナク、火ノ手盛ノ頃、隣家ノ屋根ヨリ一婦人兒ヲ携ヘ出テ見物ス、如斯出火ト雖モ敢テ周章スル事ナク至テ靜ナリ、間モ無ク鎭火ス。(亞墨利加渡海日記)"

"こゝに怪むべきは其隣家少しも騒がず、夫は書を手にして樓上より望み、妻は兒を抱き談笑して之を見る。(航米日録)"


火事は江戸の華とし、野次馬の群衆を恒とせるものと思惟せし一行はその騒がないのを不思議に思ったのも無理は無い。

尾佐竹猛, 『夷狄の国へ : 幕末遣外使節物語』, 1929, 万里閣書房

火事場の野次馬の集合は昔も今も變らぬものと見え、明和九年四月十五日の通達に

"前々より相觸候處出火之節、火事塲へ無用之面々多く相見え、防之節さゝへに相成不埒之至に候。向後各は不及申召仕之者迄も嚴敷申付、火事塲へ無用之者差出間候。(以下略)"

是と同意の通達が安永・天明の兩回に下されてゐる。後家中の人達が悠々火事見物に出た事が知れるではないか。

長岡市編, 『長岡市史』, 1931, p.282

どうか火災現場では消防隊の活動を妨ぐることなく、また消防隊出場途中に於ても社會公共の爲に各人が避譲して通路を開ひて貰ひ度いのである。吾々は何時ながら現場の野次馬には一方ならず作業の敏速を妨げられて居る。又消防作業の理解なく訓練なく加ふるに何等の統制なき圑隊の火災現場に殺到することは如何に消防作業に支障あるかは諸君の想像に一任しやう。

山川秀好, 『日本火災史 : 自大正15年-至昭和10年』, 1936, 雪州会

火事場に野次馬が大勢飛び出すとて、不心得なものが多いと云へん。野次でも一々取り調べれば、概ね普通の人と變りがない。働くべきに働き、人を助くべきに助けるのであり、一寸手のつけやうがないので、十把一束野次馬と見られる。

三宅雄二郎, 1937, 『人の行路』, 実業之世界社, p.193
火事は三國一の見物と申しまして…

一體朝鮮には火災が多く火災の度毎に火事場附近は見物の野次馬で埋つてしまふ。罹災の朝鮮人は多くは周章狼狽、大の男が聲を揚げて泣きくづれるさまは見るも氣の毒であるが、集つた群衆は誰一人として手傳ふでもなく全く面白い見物でもするが如く長煙管をくゆらせつつ悠々たる者もあるといふ風で、少しでも近寄つて見るつもりで押集るから消防上の邪魔になる場合が少なくない。

朝鮮人單獨の時には神妙に歩道を歩くがたまたまニ三人の連れがあると、道路の眞中をしかも一列横隊の形をとつて練り歩く癖がある。それに朝鮮人は些細なことで一人でも十分できることも二人でないと敢てしない性情があるが、三四人の連れがある時にはこの性情が手助つてかなり横暴なことでも平氣でやつてのけるのである。

上述の如き朝鮮人の群衆性に本市に於いていかに現はれてゐるかといふに、彼等は本市に来往するも多く場末に群居して特殊社會を形成し、容易に内地人と融和しやうとしない。彼等は殆んど衝動的に付和雷同性を有し、事ごとに群衆を構成して粗暴なる行動に出づるを常とし、労働争議に、借家争議に、或は學童が殴られたとか、老母が轢殺されたとかいへば、直ちに仲間を糾合し團結の威力を示して不当なる要求をなす風がある。僅かな言葉の行違ひや感情のもつれのために互に徒党を組んで相争ひ、女や酒を原因として血の雨を降らすといふ粗暴残忍なことも敢てする。かかる事實は日々の新聞紙の報道するところであつて、左に五六の實例を摘記する。

大阪市社會部調査課, 『なぜ朝鮮人は渡來するか』, 1930

日本の否定的特殊性を信じる人って彼らが馬鹿にする「ネトウヨ」と変わらないよなぁと前々から思ってるんですが最近はすぐDD論に回収されちゃって肩身が狭いです。あと勘違いされると怖いので念の為注記しておくと太字にしている部分は人間の普遍的本性だよねってことです。