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石井光太 『ルポ 誰が国語力を殺すのか』におけるゆとり教育に関する記述について

同書では「ゆとりに至る道」「ゆとり教育の裏で何が起きていたのか」「社会が求める要求の肥大化」と三節にわたってゆとり教育が論じられているのですが、例によって例の如しだったので、いつものように一人虚しく添削していこうと思います。

ゆとりに至る道

さらに、教科書の内容が三割削減されるとか、円周率を「およそ三」として教えるといった話まで飛び交うようになると、文科省のへのバッシングは一層厳しいものになっていく。

三割削減

ゆとり教育を説明する上で必ずと言って良いほど言及される「三割削減」だが、一方でその出典が明示されることは稀である。それもそのはずであり、実は三割削減を明記した公式な資料は存在しない。それではどこからそんな数字が出てきたのかと言えば、以下の記述がその大本である。

児童生徒にとって高度になりがちな内容などを削減したり,上級学校に移行統合したりなどして,授業時数の縮減以上に教育内容を厳選する。例えば,算数・数学,理科などは,新授業時数のおおむね八割程度の時数で標準的に指導しうる内容に削減(『教育課程の改善のポイント』 教育課程審議会 1998)


この「新授業時数のおおむね八割程度」というのは具体的にどの程度なのか、という問いに対する答えが「三割削減」なのである。たとえば、読売新聞が三割削減について初めて言及した記事では次のように書かれている。

学校週五日制時代の幼稚園から高校までの教育内容について検討してきた教育課程審議会(文相の諮問機関、三浦朱門会長)は二十二日、審議のまとめを公表した。小中高校とも授業時間数を週当たり二時間(単位時間)削減するとともに、基礎・基本を確実に身につけさせるため、小中学校では教育内容を厳選し、現在の内容から約三割削減する。

(中略)
これについて文部省は、「約三割の削減となる。五日制で減る授業時間数以上に内容が削減されており、現在の八割程度の時間で教えられる内容(ママ)」と、子供たちのゆとりの確保になることを強調している。

読売新聞, 1998.06.23, 朝刊, (1)7


ただし、三割削減が実行されたことを示す定量的な根拠や何らかの実務的基準は存在していない。たとえば、文科省次官であった小野元之は、ゆとり教育による三割削減説について次のような証言を残している。

二つ目の誤解は、教育内容の三割削減という話です。これは、たしかに文部科学省も三割削減と言ったのですが、私が事務次官の時に、教科書の活字の大きさなどを含めていろいろと調査しましたところ、私の結論では一割削減なんです。削減したということには間違いないのですが、三割もの削減ではありません(岡本・佐藤 2014 p.131)。


小野の発言は調査手法が明示されていないため、その信憑性には疑問が残るが、同じように三割削減という数字も定量的な調査が行われた結果としての数字ではない。ちなみに、教科書のページ数はゆとり教育の前後で殆ど変化は無く、中学校国語で採択率一位となっている光村図書の教科書では、三学年合計で948ページ(1997~2001)から970ページ(2002~2005)へとむしろ増加している。

円周率が三

「円周率がおよそ三」については端的に言ってデマである。断定的な記述ではないので著者がデマと承知していたのかどうかは判然としないが、仮に承知の上で当時の世相を客観的に記述したのだとしても、デマには何かしらの注釈が付されてしかるべきだろう。

ゆとり教育の裏で何が起きていたのか

ゆとり教育における選択教科

「選択の授業が増えたのも困りました。国語力をつけるには国語の授業だけでは不十分で、そこで培った共感性を社会や理科の授業で活かすなど他の教科とのつながりの中で成長するものです。でもそれらの授業時間が軒並み減ったのに加えて、選択が増えたため、午前中勉強したら、午後は体育や美術ばかりでほぼ遊びという状態になったんです。国の言い分では、体育や美術でも国語力を伸ばせるということなのでしょうが、実際は体育館や美術室で騒いでいるだけでした」

この証言が事実ならば極めて特殊な事例である。選択教科と言えば一般に主要五教科以外の教科だと思われているが、ゆとり教育では全ての教科を選択教科として設置することが可能となっており、中教審が平成十九年に出した指導要領改訂の「審議のまとめ(中間報告)」によれば、平均して約三分の二(144/225)の選択教科時数が主要五教科に充てられている。

PISAショック

日本の子供の学力の低下を示したのは、二〇〇〇年からはじめられたPISAだった。図11を見れば、ゆとり教育の開始と同時に順位が低下しているのがわかるだろう。特に読解力の低さが著しく、これは「PISAショック」と呼ばれた。この点数とゆとり教育の因果関係は定かにはなっていないが、教育業界を震撼させるには十分な結果であり、これが後の国語教育の改革へとつながっていくのである。

国際順位の変動によって学力を経年比較することは不可能である。また、著者の作成した図には数学的リテラシー・科学的リテラシーの結果も併せて提示されているのだが、得点の経年比較が可能となるのはその分野が調査の主要分野(main domain)となった後に限られる。著者はPISAの基本的な設計も理解していなかった可能性が高い。

また、PISA2000-2006サイクルの日本の読解力低下について、PISA調査の設計者からはテスト設計の変更が原因である可能性が指摘されており、これを受けてPISAの報告書では日本の読解力得点低下について慎重に解釈する必要があることが注記されている。

PISA調査の設計やその結果、特にゆとり教育との関連については以下の記事で詳述している。

社会が求める要求の肥大化

最低基準性と確かな学力向上路線

社会的には批判を浴び、成果も乏しかったゆとり教育だが、文科省の中でいの一番に反対の狼煙を上げた人物がいた。時の文部科学大臣遠山敦子(在任は二〇〇一年四月~二〇〇三年九月)だ。〔…〕彼女は文科省のトップにいながら、ゆとり教育の行き過ぎに危機感を募らせ、それがはじまる直前の二〇〇二年一月に、文科省の方針と逆行するかのような発表を「学びのすすめ」と題して行った。〔…〕これまでは学習指導要領の内容を再現するのが授業だったのだが、遠山はそれを「最低基準」とした上で、そこからの上積みを「確かな学力」という表現で現場に求めたのである。

市川(2002)が指摘する通り、指導要領の最低基準性は学力低下論に押された文科省が事後的に打ち出した方針ではなく、ゆとり教育を巡る議論のごく初期の時点で文科省側が積極的に明示していた方針である。

また、著者の認識に反してゆとり教育前後に実施された経年調査は総じて学習態度の改善や学力の向上を示しているのだが、これを「(90年代)ゆとり路線」から「(00年代)確かな学力向上路線」への変化と(事後的に)解釈することで、それらの調査結果が「ゆとり教育失敗の証拠」とされたことは以下の記事に示す通りである。

実感至上主義

実は、今回インタビューをした人物、特に大学の研究者の中には、「国語力が落ちているかどうかはわからない」と回答する人もいた。東京学芸大学の犬塚美輪教授が、その一人だ。〔…〕犬塚は次のように答えていた。


「子供たちの能力が劣っているかどうかはわかりませんし、そうしたデータがあるわけではありません。少子化が進んでいて、学力的に劣っている子がそれなりの大学に進学してくる現実はあるので、そういう意味で教員の側が大学のレベルが低くなったと感じることはあるかもしれませんが、だからといって全体的に能力が低下しているとは断言できないのです(後略)」


現代の子供たちの能力が落ちているのかどうかを定量的に立証するのは実質不可能だ。東京学芸大学に進学できるのは、トップレベルの成績の子供たちだ。中でも私立の中高は公立との差別化を図って創意工夫を凝らした教育を行っているため、そこから上がってきた生徒を中心に見れば、大して変化しているようには感じられないだろう。

どのような命題であろうと定量的に「立証」するのは実質不可能だと思うが、定量的に評価・測定することは十分可能である。特に教育分野におけるそれは教育測定と呼ばれており、その専門的知見に基づく経年比較可能な学力調査の結果は上掲記事の通りである。教育測定の理論については以下の記事を参照されたい。


また、「教員側が能力低下を(必然的に)実感していたとしても、そこから(世代)全体の能力低下は導けない」という説明に対して「学芸大に進学できるのはトップレベルの成績の子供たちだから大して変化は感じられない」という主張は噛み合っていない。先のPISA調査に関する説明もそうだが、著者の論理的思考能力を疑わせる記述である。

好意的に解釈しようにも、別の箇所では

各界からの批判に呼応するように、一般の人々もゆとり教育を頼りにならないものとみなし、わが子を私立中学へ進学させる傾向が高まった。実際一九九九年からリーマンショックの二〇〇八年までおおよそ一〇年にわたって中学受験率は右肩上がり、私学側もあの手この手をつかって生徒集めに躍起になった。

という記述を残しているため擁護ができない。大学のレベル低下と同様に、中学受験率が上昇すれば私立・公立ともに学力低下が生じるのは必然であるにも関わらず、それについての説明が一切見られないからだ。犬塚氏の説明を理解していないと考えざるを得ない。

氏が説明しているのは"サブグループの水準から全体の水準を導くことはできない"という事実であり、中でも"全てのサブグループの平均水準が低下(向上)しているにもかかわらず、全体の平均水準は向上(低下)する"ような状況は「シンプソンのパラドックス」と呼ばれている。それほど難しい話ではないのだが、理解できないという方がいれば以下の記事を参照してほしい。

引用文献

市川伸一. (2003). 学力低下論争. ちくま新書.
岡本智周・佐藤博志. (2014). 「ゆとり」批判はどうつくられたのか―世代論をときほぐす. 太郎次郎社エディタス.