若者論を研究するブログ

打ち捨てられた知性の墓場

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「先輩と青年は如何にして調和す可きか」, 1909, 大隈重信, 『実業の世界』6巻4号

現代の大問題
社会に於ける先輩と青年との関係は恰かも一家に於ける夫婦関係の如くなり。夫婦相軋轢すれば到底円満なる一家の発達を望まれざるが如く先輩と青年と相調和するにあらざれば完全なる社会の発達は期し難し而も今の先輩と青年との関係を見るに青年は先輩を頼むに足らずとなし先輩は青年を用ゆるに足らずとして両々相反目せり。此の如くんば国家の前途如何誠に憂慮すべき次第ならずや。吾徒幸に其調和策に就きて社会の先覚者たる伯爵大隈重信氏の意見を聞き得たり掲げて以て江湖反省の資となす。

(※引用にあたり、旧字体新字体へ、歴史的仮名遣いは現代仮名遣いへ改めています。また、下線部は原文で強調されている箇所です。)

△徒らに過去を追懐するは健全なる思想と云う可からず

如何にして社会の先輩と、後輩とが円満に調和す可きかと云う問題と、私が平素信じて居る人間の長寿法との間には実に密接な関係がある。ツイ近頃の事である、ナイアガラ瀑布保存会の会員が来訪して、私の長寿法に就いて種々質問する所があった。

それは其人の父なるものが私と同じように人間の長寿法と云う事に就て信ずる所があって、九十九箇年、九箇月九日目まで生きて、遂に熟した林檎が地に堕るように自然の大往生を遂げて仕舞った。其老人が、自分の信ずる長寿法を小さい冊子に綴って、死ぬ少し前、即ち九十九箇年八箇月目に出版した。

其子供が私に其小冊子を呉れて貴下の長寿法と、自分の父の説とは殆ど符節を合するが如くに一致して居ると云うて、非常に喜んで帰った。今其小冊子を見ると成る程、私の信ずる所と少しも違はない、う云う点が似て居るかと云うと先ず第一、人間が徒らに過去を追懐顧望して其処に生ずる一種眷恋の情に耽るのは決して健全な思想ではないと云う事が全然同じである。

△余が長寿法の根本は将来に希望の光輝を認むるにあり

私の長寿法の根本義は即ち之である。止むを得ない場合の外は決して過去を語って愚痴らしい事を云わない。過去の歴史は、過去の歴史として、人間は常に将来に美しい愉快なる希望を持って進まなければならない。それには先輩が常に時代の推移、社会の進歩という事に注意して居なくてはならぬ。

即ち一定の見識がなくてはならぬ。凡そ、社会に善を為そうと云うものは、時代や社会の黙移暗遷もくいあんせんする状態に通達して居なければならぬ。それが分らないで唯、昔の儘の智識で現在の社会に事を為そうとすると其処に間違が生じて来る。即ち過去の事は非常に美しく立派に見えるけれども、現在の事は何うも面白くない。

其処で愚痴が生じて来る。ヤレ現代の青年は腐敗したとか、堕落したとか云う。うかと思えばもう澆季の世であるというような嘆声を発する。う云う先輩は社会に何事をもなし得ないで早く死んで仕舞う。爾うして徒らに先輩と後輩との間を益々隔離せしむるに過ぎないのである。

其処で人間は常に将来に美しい希望の光輝を認めて、終始、愉快に、幸福に進んで行かなくてはならぬ。社会に處して青年と調和して行き得ないような老人は到底長く此世に生存する事は出来ない。

△今日の先輩は毫も時代の変遷を知らず

社会に於ける先輩と、後輩との関係は恰も一家に於ける夫婦の如きものである。夫婦和合しない家庭は到底繁昌して行く事が出来ないように、老人と青年とが調和しない社会は所詮進歩しない。

今日の先輩はややともすると、現代の社会は澆季であるとか、青年が腐敗したとか、学生が堕落したとか云うて罵倒する。其処で青年の方でも、老人に対して非常な反感を持って来ると云う有様であるけれども、之は要するに今日の先輩が時代の推移社会の変化という事を知らないからして生ずる感情の齟齬に相違ない。

例えば或る人の云う今日の青年は維新当時の書生に比べて大に退歩した、意気地が無くなったと云うような事でも、先ず時代と云う事からして考えて掛からなければならぬ問題である。維新の当時は社会に秩序の無い、新習慣、新道徳が固定しない一種の動揺時代であった。

此動揺時代に處した青年の気概と、今日のように社会の秩序、組織が固定した時代の青年の素行とを比較して昔の書生は元気があって偉かったけれども、今日の書生は意気地がないと云うのは甚しい短見浅慮と云わなければならぬ。

実際維新当時の書生が行ったような事を、今日多数の学生が演じたならば、それこそ警視庁が十あっても二十あっても足らない訳である。それを何処までも志那流儀に解釈して、昔は好かったけれども、今は駄目である。最早世も末だというのは畢竟先輩が無学である所から生ずる誤謬に外ならぬ。

昔から隣村の庄屋を悪いと云うた事は無い云うが、真に爾うで社会が腐敗した、堕落したと云う慨嘆の声は蓋し何時の世、如何なる時に於ても絶ゆる事は無いのである。素より此の嘆声は大に喜ぶ可きである。けだし嘆声は向上を欲する声である。人間はべて前途の光を認めて現在の進歩を計って行かなければならないのである。

△先輩の干渉度に過ぐるは社会の進歩を阻害するもの也

無病の時に服薬すれば、何んな良薬でも其人を毒する事になる。先輩が余りに青年の事を心配し過ぎて、必要もないのに干渉するようであると、青年は決して発達しない。爾うしてそれが延いて社会の進歩を阻害する事になる。青年は例えば草木の若芽の生い立つようなものであって、自然の儘に生育させて置けばそれで好い。別に大した欠点はない。それが古い大木になるとナカ/\爾うでない、欠点が多い。

之は要するに自然の勢である。見給へ、若芽は常に、古い幹の上に生ずる。爾うして古い幹の上に緑の葉を広げる。此英気勃々このえいきぼつぼつたる青年は非常に進取の気象に富んで居る、破壊力も強い、喧嘩もすれば、だだも捏ねる、此天性を教育と云うものが或る程度までめるのである。

それを余り干渉し抑圧し過ぎると遂に不良少年を拵える事になる。之には四辺の境遇とか、家庭の事情とか、教育の圧迫というような事が非常に影響するものであって、要するに自然の心に随って青年を導けばそれで好い。例えば水の流れるのを見ても分かる。自然に流れる水を強て堰き止めようとすると其水が氾濫して恐ろしい洪水となる。

又熟ら自然界を見ると、年老ったものは何の点から云うても若い者には勝たれない。第一腕力が弱い。如何に常陸山でも七八十になれば二十位の子供にも負かされるようになる。又如何なる学者でも老ゆれば自然に記憶力というものが減退してくる。

例えば、同じ百頁の冊子を読んでも、記憶は若い者の方が強い、何うしても物質上から老人と青年との競争は出来ない。それを無暗に偉がるから、其処にお互の間に感情の齟齬が生じて来る。殊に老人は記憶力が減退して居るから一度云うた事を二度も三度も繰り返して云う。

其処で青年の方でも大に癪に障って黙って居られなくなる。人間と云うものは、自然に長老を尊敬する気風を備えて居るものである。それを強て長老に反抗させるように仕向けるのは、先輩の方に悪い所が多いからであろうと思われる。

△先輩は新思想を了解する為常に読書を怠るべからず

前にも云うた如く、老人は動ともすると、希望を将来に持たずして徒らに過去を追懐して愚痴をこぼすという傾向を有して居る。床に入って寝ると、昔はこうであったとか。ああ云う事を遣った為に、今はこんな事になって仕舞った、彼の時にうまく遣って居れば、今頃は立派に出世が出来て居たろうとか、金も出来て居たろうとかいうような事ばかり考えて居る。

之が現在の社会にとって、何うも有害無益の事である。自分も働こう、若い人と一緒に働こう。何でも将来は好くなり、好く為そうと云うような覚悟がなくてはいかぬ。凡て先輩と青年とが一緒に働かなくては到底国家社会の経営は出来ない。

例えば、家を建てるにも大工ばかりではいけない。大工も左官も植木屋も共同して働かなくては、完全な家が出来ないようなものである。其処で老人も奮起して青年と一緒に働かなくてはいかぬ、それには、時代の推移に連れ、社会の進歩に伴うて青年と一緒に進んで行こうと云う用意がなくてはならぬ。

であるから常に心掛けて新聞も見るが好い。雑誌も読むが好い・爾うして読書と云う事を怠らぬようにして行かなければならぬ。年を老るに連れて身体は漸々衰えて行く、けれども頭脳には常に新思想、新智識を注射して行かなくてはならぬ。頭脳は使わないと固くなって、記憶力が減退する。記憶力が減退すれば自然、愚痴が多くなる。繰言が多くなるという訳である。

其処で常に新智識を注射して、研究的態度をとって行かなくてはならぬ。爾うして青年の言うことを喜んで容れて行くと云う態度でなくてはいかぬ。自分の気に入らぬ事を云う青年を愛して、それを用いて行く位の雅量がなくては社会に處して先輩としての義務を果たして行く事は出来ない。

△青年も亦服従の美徳を修養せざる可からず

私は以上、重に社会の先輩を鑑戒して青年に対する道を説いた。けれども、私が恁う云うたからと云うて、青年は妄りに起って先輩に反抗する事を以て得意とするような傾向があってはならぬ。全体物には秩序というものがある。此秩序を無視して事を行っては社会の善良なる組織が保たれない。其処で青年は或る点まで服従という美徳を修養して行かなくてはいかぬ。

即ち如何なる境遇に在る者と雖、一度は人に使われて見なければ将来人を統御する才能を得る事が出来ない。人に使われて奉公の苦労を甞める。其処で経験と云う無形の資産が得られる。此無形の資産は、何ものにも代え難き個人の財宝である。

斯くの如くにして、青年は或る点まで先輩を尊崇し服従して行くようにする。又先輩は前に私が述べたような点に注意して行ったならば、ここに渾然相互の感情が融和して、社会国家の発達は期して俟つ可きものがあろうと思われる。