若者論を研究するブログ

打ち捨てられた知性の墓場

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教養とは

教養とは何ぞやみたいな記事がホットエントリに上がっていたので便乗します。そんなに難しい概念ではないと思うんですけどね、まあパパっと定義してみましょう。

ただし、ここで定義する「教養」は、あくまで我々がこの言葉に対して抱いているイメージからつくりあげたものです。歴史とか本来の意味とかそういうのは考慮しません。そもそもここ日本ですからね。日本語としての、日常語としての「教養」を考えます。

博識としての教養

まずは、教養の範囲をできるだけ広くとってみましょう。我が国を代表する教育者である新渡戸稲造さんは、教育の目的について次のように述べています。

それに就いては、ただ専門の学に汲々としているばかりで、世間の事は何も知らず、他の事には一切不案内で、また変屈で、いわゆる学者めいた人間を造るのではなくて、総ての点に円満なる人間を造ることを第一の目的としなければならぬ。英国人の諺に"Something of everything"(各事に就いてのある事)というがある。ある人はこれを以て教育の目的を説明したものだと言うた。

いわゆる全人教育ですね。これは我々の考える教養概念とも似通った部分があります。「全ての物事に多少は通じている」。教養を最も広く定義すればこのように表現できるかもしれません。つまり、"博識"としての教養です。

しかし、この定義には問題があります。第一に、ここでは教養の「質」が問われていません。全ての知識が教養を構成しうるというのであれば、どこぞの芸能人が不倫をしたかどうかみたいなクッソどうでもいい知識でも教養になってしまいます。

それもありだろう、という方もいるかもしれませんが、冒頭に説明した通り、この記事では我々が教養について漠然とながら抱いているイメージを明確にすることを試みています。やっぱそれは教養じゃないだろ。

知性のキャパシティとしての教養

ただし、新渡戸さんの説明からは教養についてのヒントを得ることができます。それは「『専門』に対置する概念としての『教養』」という考え方です。これは、日常的な用法としてもしっくりくる考え方ではないでしょうか。

たとえば、大学などでは学部生として特定の「専門」を学ぶ傍ら、「一般教養」についても学びますよね。一般の教養がある、というよりも、専門外の一般的な学識を「教養」と呼んでいるのでしょう。数学の先生が数学得意でも誰も褒めてくれませんが、数学の先生が小説を書いていたら何か教養がありそうです。

それでは「専門以外の学識」を教養と定義すればいいのでしょうか。「学識」の定義はさておき、一つの定義としてはありでしょう。ここからは所謂「教養=知性のキャパシティ説」が導かれます。受験勉強のさなかに哲学書を読みふけっているような人のことです。こうした人は、自らの脳のキャパシティを誇示しているのです。

が、このように教養を定義しても、まだ問題は残ってしまいます。教養キャパシティ説は要するに、テストの時間が余って暇だったからロピタルの定理を証明してた(笑)みたいな話です。誰からも強制されず、求められてもいないのに、それについての学識を身につけている。それ故、教養は知性の余技であると認識されるのです。

ですが、教養をそのように捉えてしまうと、大学で行われているような教養教育はどうなってしまうのでしょう。学校で真面目に教養を学ぶというのは、学校で真面目にロックを学ぶみたいな不思議な響きを持ってしまいます。ちょっと格好がつきませんね。

また、専門外の知識を持っていれば知性の容量が大きく見えるというのも、残念ながら見えるだけです。一つの物事を深く学んでいれば、それもまたキャパシティの証明にはなるでしょう。結局のところ、「知識」が「学識」という言葉に変わっただけなのです。

キャパシティ説が問題にしているのもその量であり、質は問われていません。世の中には「専門バカ」という言葉もあるくらいですから、専門と教養の間に横たわっている溝にはもう少し深く、哲学的な何かが潜んでいそうです。

人生の指針としての教養

というわけで、我が国を代表する哲学者である三木清さんは、教養について何と言っているのでしょうか。『読書と人生』というエッセイには専門と教養の関係について書かれた一節があります。ちょっと長いですが引用してみましょう。

教養とは或る専門の知識を所有することをいうのではなく、却って、教養とはつねに一般的教養を意味している。専門家になるために読書の必要のあることは云うまでもないが、ひとは特に一般的教養のために読書しなければならぬ。そして専門家も一般的教養を有することによって自分の専門が学問の全体の世界において、また社会及び人生にとって、如何なる地位を占め、如何なる意義を有するかに就いて正しい認識を得ることができるのである。専門家も人間としての教養を具え専門家の一面性の弊に陥らないように読書は勧められるのである。

(中略)然るに濫読と博読とが区別されるようになる一つの大切な基準は、その人が専門を有するか否かということである。何等の方向もなく何等の目的もない博読は濫読に他ならぬ。一般的な読書に際しても、ひとはなお何等か専門というべきものを有しなければならぬ。一般的教養も専門によって生きてくるのであって、専門のない一般的教養はディレッタンティズムにほかならない。

おお、これは分かりやすいですね。「専門」がその人の具える学識だとすれば、「教養」はその社会的位置づけを示すための地図と言ったところでしょうか。地図が無ければどこに行くかわかりませんし、地図だけ持っていてもどこにも行けません。ここでは専門と教養の質の違いが説明されていますし、「多面的な知識」というのは我々が抱く教養イメージともピッタリ合致します。

もうこれでいいのではないでしょうか。教養というのはだね、すなわち地図のことなのだよ。うーん、悪くはないですが、もうちょっとバシッとくる言い回しはないですかね。正直「人生の地図」とか安っぽいです。もうちょっとこう、力強いというか…人間力的な何かを…そういうアジテーションは軍人さんが得意かもしれません。

教養とは「道」である

というわけで、最後に我が国を代表する軍人である石原莞爾さんが何かそれっぽい事を言ってないかどうか確認してみましょう。

西洋人も勿論道を尊んでおり、道は全人類の共通のものであり、古今に通じて謬らず、中外に施して悖らざるものである。しかも西洋文明は自然と戦いこれを克服する事に何時しか重点を置く事となり、道より力を重んずる結果となり今日の科学文明発達に大きな成功を来したのであって、人類より深く感謝せられるべきである。しかしこの文明の進み方は自然に力を主として道を従とし、道徳は天地の大道に従わんことよりも(以下略)

もちろん、ここで言う「力」とは征服力とか支配力とかそんな感じのもので、「道」というのは人の道、すなわち人倫のことを意味しています。しかし、「専門と教養」の関係性やそれぞれの性質を表現するのに、「力と道」はピッタリのメタファーではないでしょうか。

たとえばあなたが物理学者だとして、自国の指導者から「原子爆弾をつくってくれ」と言われたとしましょう。できるできないは能力の、つまりは力の問題です。あなたが専門性の高い有能な物理学者ならばできるかもしれませんし、専門性の欠片もない無能なカスならばできないかもしれません。

しかし、「できる、できない」と「やる、やらない」は別の話です。そして後者についてより良い判断を下すための知識こそが教養なのです。あなたが国際情勢についての教養を持っていれば「できるがやらない」と判断するかもしれませんし、経済的な教養を持っていれば頼まれずとも自分から売り込みにいくかもしれません。哲学的な教養を持っていれば自らの良心に基づき戦争への参加を拒むこともあるでしょう。

つまり、教養とは因果を見通すための知識であり、力の使い途を考えるための知識であり、人の倫を踏み外さないための知識でもあるのです。ですから「道」という一語でこれを表現しましょう。専門とはすなわち力であり、教養とはすなわち道である。うーん、微妙。