これは今まで詳細に書いたことが無かった(必要とは思われなかった)ので、改めて書いてみようと思う。
お疲れ様です。
— ジョンたか先生(部活動は教育の癌) (@11martini11) 2022年4月3日
再び聞きますが
「コミニケーションコスト」って知っていますか?
あなたの言う通り、文科省が失敗したと多くの教員が思い込んだのであれば、それは失敗なのでは?と同じ話が繰り返されるだけかもしれません。
だって長すぎるもの。で、何が言いたいのか分かりませーん!
先日、円周率デマを材料に「自分の信念に反する事実をつきつけられた人間の振る舞い」を調べたのだが、その中の一人、ジョンたか先生という方が私とのやり取りの中で最終的に上のようなツイートを送ってきた*1。一見すると追い詰められた頭阿Qの断末魔に見えて、実は結構核心を突いている*2。
私は(主張が相反する)他人とやり取りする時、帰謬論法を使うことが多い。つまり自分の意見は見せずに、ただ相手の誤りを指摘するという論法である。こうしたやり口は嫌われることも多いのだが、龍樹以来、二千年近くにわたって使用されてきた由緒正しい論法である。
私が良く(誤りを指摘した)他人から「何が言いたいのか分からない」と言われる原因の一つは恐らくここにある。この直観は正しく、実際、私は何も言おうとしていない。よく若者の擁護者であるとか、ゆとり教育を肯定していると勘違いされることが多いのだが、私はそうした発言を一切しない。
ただし、意見を持っていないわけではない。特に、ゆとり教育に関する私の見解は(一見して)かなり特殊だと思われるので、ここで改めて書いてみようという趣旨である。
まずは時系列である。私の「ゆとり教育」に対する認識は一般的なそれから一つずれている。具体的に書けば、90年代以前は「ゆとり的」教育が特に批判もされずに横行していた時代であり、00年代は(90年代後半から始まる)ゆとり教育批判によって「反ゆとり的」教育が奨励された時代であり、10年代は学習指導要領の改訂によって名実ともに「脱ゆとり的」教育が実施された時代である、という認識である。
この認識自体は特に目新しいものではない。詳細は以下の記事を参照してほしいのだが、ベネッセ教育調査や苅谷・志水調査の調査者達はこの解釈を採用している。記事中ではその恣意性を批判しているものの、私の考えも彼らと同様である。
さて、私の考えが特殊であるのは時系列にあるのではなく、むしろ原因の部分にある。具体的に言えば、私は00年代に起こった事象(学習時間増加、学習習慣改善)が、「ゆとり教育」の結果なのか、「反ゆとり教育」の結果なのか、どちらであるのかについて余り興味が無い。
単に興味が無いだけでなく、これは原理的に決定不可能な事柄である。たとえば、学習時間の増加を考えてみよう。(何らかの魔術的手段によって)その原因が宿題の増加、更にその原因の原因が「学びのすすめ」にあることまで分かったとしよう。で、これはゆとり教育の結果だろうか、それとも反ゆとり教育の結果だろうか。
これを決定するのは事実上不可能だ。「学びのすすめ」は文科省によればゆとり教育の周知徹底が目的とされており、他方、一部の論者によればこれはゆとり教育の撤回を示しているとされる。これは他の事柄でも同じである。学習習慣の改善がゆとり教育の成功を示していると主張する人がいれば、それこそゆとり教育から脱却した動かぬ証拠だと主張する人もいるだろう。
つまり、ゆとり教育か反ゆとり教育かという問題は、単に事実に対してラベルを貼る作業に過ぎず、そうした作業に私は余り興味が無いという話である。この態度は相手にとって混乱の元となっているらしく*3、これも私が「何が言いたいのか分からない」原因の一つであろうと思う。
なので冒頭のツイートはそれほどおかしなことを言っているわけではない。少なくとも私にとってはそうである。誰かがゆとり教育だと言えばそれはゆとり教育なのであり、脱ゆとり教育だと言えばそれは脱ゆとり教育なのである。私が問題にするのは、それが彼の中で本当に一貫しているかどうかだ。していれば何も言わないし(たまに言う)、していなければ批判する、それが私の立場である。
*1:以下のまとめの感想を聞いた後のツイートである。
文科省の言い分を信じて文科省を批判する不思議な人達について - Togetter
*2:「同じ話」というのは円周率デマを信じていた教員が大多数ならばそれはデマではないという主張のこと。本記事ではジョンたか先生のツイートを限りなく好意的に解釈しているが、この主張に関しては擁護不能である。
*3:一例を以下に示す。
corydalisさんについて - 若者論を研究するブログ