若者論を研究するブログ

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ゆとり教育期における俳句指導について

 

四季があるのは日本だけです
https://togetter.com/li/1083681

 椎茸 @bn_lv5
@ulala_go フランスに俳句の授業があるんですね。ゆとりの子は、俳句はサラッと習うだけで季語は私が教えたくらいですw
フランスでは、四季を感じたら
どんな風に表現されるのですか?
絵画かなぁ? 2017年2月20日

 

というわけでゆとり教育期における俳句指導について検証してみよう。ちなみに俳句指導以外の部分で補足しておくと、ゆとり教育の前後に実施された学力調査の内、学力の低下が確認されているのはTIMSSの第8学年数学くらいであり、その国際順位はゆとり教育の前後を含む20年間で一度も低下していない。また、ゆとり教育の直接の源流はジョン・デューイの提唱した経験主義教育であり、理想的なモデルとして頻繁に引用されていたのはフィンランドである。エミールのことを指しているのであれば遡り過ぎだ。詳細については以下の記事を参照されたい。

はじめに 

はじめに本稿の方法論について述べておく。私はゆとり教育、或いはそれに関連するゆとり言説全般については次の三つの段階をそれぞれ検証するようにしている。つまり、ゆとり教育の理念と、それを具体化する諸制度と、教員による実践である。原因と手段と結果と言い換えても良い。一般に何らかの政策が実体として存在しうる限りこれら三つの過程を経るのは必然であるが、特にゆとり教育言説においては非専門家によって融通無碍に読み替えられた「理念」がそのまま実体視される嫌いがあるため、これらのプロセスを精査するのはより重要である。

語の定義についても示しておこう。一般に「ゆとり教育」とは、98年に改訂され2002年に実施された学習指導要領を指しているが、正にこれがゆとり教育を巡る議論が混乱する主因である。というのも、日本の戦後教育史の流れは「ゆとり」と「詰込み」の間を振り子のように揺れ動いており、単に「ゆとり」と言っただけでは一体いつの教育を指しているのか特定できないからである。

学者の中でも「ゆとり」についての統一的な語法があるとはいいがたく、例えばゆとり教育批判の旗手である西村和雄は77年改訂を「ゆとり」、89年改訂を「新学力観」、98年改訂を「生きる力」と位置付けており、さらに極端なものでは98年改訂を指して「脱ゆとり」と表現する事例もある。この実例についても別記事にて詳細を書いているので興味があれば読んでいただきたい。

従って、ここではそれぞれの教育の呼称としてその改訂年度を採用する。一般にゆとり教育とされるものは当然「98年改訂」である。また「詰込み教育」の用法もゆとり教育と同様にかなりの揺れが見られるが、ここでは通説に従い専ら68・69年改訂を指すものとする。

学習指導要領

ということで、まずは「原因」の最右翼である学習指導要領において、俳句の扱いがどのように変遷したのかを確認してみよう。と言ってもここでは特に強調することは無い。そもそも指導要領上の詩や短歌、俳句の扱いは戦後一貫して軽いものである。ここでは学習指導要領から「試案」の文字が除かれた58年改訂からの変遷を確認しよう。

58年改訂

小学校
〔第2学年〕・・・経験を広め心情を豊かにする童話,説話,詩などを読む。
〔第3学年〕・・・経験を広め心情を豊かにする童話,物語,伝記,詩,脚本などを読む。
〔第4学年〕・・・経験を広め心情を豊かにする童話,物語,伝記,詩,脚本などを読む。
〔第5学年〕・・・経験を広め心情を豊かにする物語,伝記,詩,脚本などを読む。/上に示す活動のほか,「詩などを書く」「物語などを脚本に書きかえる」なども望ましい。
〔第6学年〕・・・経験を広め心情を豊かにする物語,伝記,詩,脚本などを読む。/上に示す活動のほか,「詩などを書く」「物語などを脚本に書きかえる」なども望ましい。

中学校
〔第1学年〕・・・詩歌,随筆,物語,伝記,小説,脚本などを読む。
〔第2学年〕・・・詩歌,随筆,物語,伝記,小説,脚本などを読む。
〔第3学年〕・・・詩歌,随筆,物語,伝記,小説,脚本などを読む。

 基本的に詩歌については「読むこと」に主眼が置かれており、創作活動については小学校高学年において「望ましい活動」として触れられるに留まる。なお、「俳句」という言葉については以後の指導要領を含め一切使われていない。

 

68・69年改訂

小学校
〔第1学年〕・・・童話,説話,詩などを読む,事がらをやさしく説明した文章を読む,日常の生活に取材した文章を読むなど。
〔第2学年〕・・・童話,説話,詩などを読む,説明的な文章を読む,日常の生活に取材した文章を読むなど。
〔第3学年〕・・・物語,逸話や伝記,詩などを読む,説明的な文章を読む,日常の生活に取材した文章を読むなど。
〔第4学年〕・・・物語,伝記,詩などを読む,説明,報道などを読む,日常の生活に取材した記録や報告を読むなど。
〔第5学年〕・・・物語,伝記,詩などを読む,説明,報道などを読む,記録や報告を読むなど。/行事やできごとについて書く,手紙を書く,記録を書く,感想を書く,詩などを書くなど。
〔第6学年〕・・・物語,伝記,詩などを読む,説明,報道などを読む,記録や報告を読むなど。/経験やできごとについて書く,手紙を書く,記録や報告を書く,感想を書く,詩などを書くなど。

中学校
〔第1学年〕・・・詩歌,随筆,物語・小説,伝記,戯曲などを読む。
〔第2学年〕・・・詩歌,随筆,物語・小説,伝記,戯曲などを読む。
〔第3学年〕・・・詩歌や文章を読んで,自然,人生などについて考え,まとまった感想をもつこと。

様々な文章を読むことが小学校第1学年に加えられたほか、創作活動が「内容の取扱い」に置かれている。全体的に58年改訂とほぼ変わらない内容であると言えるだろう。

以上である。77年改訂から98年改訂では詩についての言及は無い。勿論教育の現場から「読むこと」や「書くこと」が消えたわけではなく、指導要領の抽象化によって詩についての文言が消えたのだと思われる。例えば68・69年改訂までは詩と並べられていた「童話」「説話」「物語」「伝記」「小説」「随筆」「戯曲」等も77年改訂以降姿を消している。

このように、指導要領上は詩歌についての取り扱いはそれほど大きくはない。が、実は一つだけ例外がある。2008年改訂である。何故かゆとり教育によって日本の伝統が失われたと勘違いした人によって続く2008年改訂で大きく「伝統回帰」したのは周知だと思われるが、詩歌についても例外ではない。少なくとも指導要領上は戦後最も充実した内容であると言える。確認してみよう。

08年改訂

小学校
〔第3学年及び第4学年〕・・・身近なこと,想像したことなどを基に,詩をつくったり,物語を書いたりすること。/物語や詩を読み,感想を述べ合うこと。
〔第5学年及び第6学年〕・・・経験したこと,想像したことなどを基に,詩や短歌,俳句をつくったり,物語や随筆などを書いたりすること。

中学校
〔第2学年〕・・・表現の仕方を工夫して,詩歌をつくったり物語などを書いたりすること。/詩歌や物語などを読み,内容や表現の仕方について感想を交流すること。

「短歌」や「俳句」が指導要領に登場したのは史上初のことである。しかも実際の詩作や作句にまで言及している。従って、仮に冒頭の〇〇〇(以下B)の珍説が正しければ、08年改訂を受けた世代において「四季があるのは日本だけ説」の受容に大きな変化が見られるはずである。調べてみては如何だろうか。

なお、学習内容ではなく学習時間については総合的な学習の時間や中学校における選択教科、その他様々な要因が絡むため議論が複雑になる。特に「総合」については俳句を教材とした実践例が複数報告されているため、なおのことその取扱いが難しい。ゆとり教育期における学習時間の全体的な変化についてはこちらでまとめているので参照していただきたい。大枠としてはゆとり教育実施以後、学習時間は減っているのではなくむしろ増えていることが確認できる。

教科書

次に「手段」を見ていこう。学校教育の大枠を決定するのが学習指導要領、それを実践するのが個々の教員であるならば、その橋渡し役となるのが検定教科書である。教科書を分析するにも様々な方法が考えられるが、ここでは最もシンプルな方法として教科書に登場する俳句・短歌の数を確認してみよう。

ただし、方法はシンプルであっても実際に調べるには大変な労力がかかる。幸いにも入江(2006・2007)が平成以降の国語教科書に使用された俳句・短歌を網羅的に調査しているので、そちらから数字を引用した。Bが言及している「ゆとり教育」とは恐らく98年改訂を指すと思われるのでこれでも十分であろう。

なお、中学校ではH2~H4が77年改訂、H5~H13が89年改訂、H14~H23が98年改訂の実施されていた期間である。また、小学校ではH4~H13が89年改訂、H14~H22が98年改訂の実施されていた期間である。入江の調査では出版年度と実際に使用された年度に若干ずれが生じているため、そうした部分については適宜修正した。

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まずは中学校から見ていこう。教育出版を除く全ての出版社で教材数の増加傾向は明らかであり、とりわけH18~H23に使用された教科書では77年改訂と比較して二十句近く、89年改訂と比較しても十句以上増えている。なお、ここで全体平均としているのは各教科書のシェア率による加重平均値である。一々シェア率の推移を調べるのは面倒なのでウェイトは平成28年度のシェア率である。

次に小学校である。小学校ではそもそも詩歌教材を扱うことは少ないため、増えた減ったを論ずることに余り意味はないが、傾向としてはやはりH17~H22に使用された教科書で教材数が増えている傾向が確認できる。なお、日本書籍についてはH14年度を最後に小学国語教科書は出版していない。また、小学国語教科書の全国シェア率は不明であったため全体平均は出していない。

小・中学ともに、同じ98年改訂に準拠したH14~H16(H14~H17)使用教科書と比較しても著しく増加していることから、恐らく歯止め規定の見直しが教材数増加の要因ではないかと思われる。歯止め規定と教科書のページ数の関係についてはこちらで簡単に説明している。

ちなみに、一般に日本の教科書は同質性が高いとされているが、それでも小学校国語において全教科書会社が共通に用いている教材は、1年生で教わる「大きなかぶ」と4年生で教わる「ごんぎつね」だけである。ごんぎつねについては初めて採用されたのが1956年、全ての教科書会社が採用するに至ったのが1989年と30年以上の歳月を要している(二宮 2012)。

ある属性がフォーカスされた途端にその他の属性がまるで目に入らなくなるのは人間の一般的認知傾向であるが、本気で教育の成果を調べようと思ったならば、出版会社によってその内容が大きく異なる「教科書」の精査は必須の作業であると言えるだろう。

教員の意識/実態調査

最後に「結果」である。今回私が俳句教育を調べていて驚いたのは、教育言説ではお決まりの「教育の劣化言説」が殆ど見られなかったことである。教育言説に限らずともあらゆる言説は何らかの「問題」を前提にしていると言えるが、中でも教育は「よりよい社会」を強く志向しているためか、常に問題を前提としながらも、その問題の実在性が問われることは殆どない。

結果として、教育言説では「近年、〇〇が大問題となっているのは周知であるが~」式のお気軽な問題設定がその通弊となっているのだが、俳句教育について、このように通時的な問題意識は私が渉猟した限りでは確認することができなかった。恐らくその理由は、そもそも詩歌教育、中でも創作活動の指導は国語教育の中でもとりわけ難しいものであるという教員の共通認識があるため、また、そのせいか教員の詩歌教育に対する意識が希薄なためであると思われる。

例えば、俳人であり中学校での教諭経験もある夏井いつきは、その著書の中で次のように語っている(夏井 2000)。なお、夏井が中学校に勤務していたのは1980~1988年のことであり、丁度69年改訂(72年実施)と77年改訂(81年実施)の境目の時期であるが、そのことについては一切言及されていない。

小西 で、実際作らせてみようと思ったのは、いつ頃から?

夏井 あのねえ、お恥ずかしい話だけど、私、学校の先生やってるあいだ、全然思わなかったの。

小西 教員は何年ぐらいやったの?

夏井 十年くらい。

小西 じゃあ、その間に作らせてみるということは一度も無かったわけか。

夏井 うん。もちろん、外部からの募集はしょっちゅうあって、ほらなんせ俳都・松山だからね(笑)、生徒に作って持って来させるっていうのは毎年のようにやってたんだけど、良いとか悪いとか選ぶだけ。悪いのをどうすれば良くなるとか、そういう指導のようなものは、一切したことなかった。まっ、そのころの私にそういう実力がなかったってことも勿論あるんだけど(笑)。

小西 どこが良いとか、どういう視点で作れとか、そういうことは全くなかったわけね。夏井さんの場合は、中学校の先生だったんだけど、やっぱり授業の進度とか高校入試とかが気になったの?

夏井 と言うか、その頃は、俳句を教えるって言うのはイコール鑑賞することだっていう図式がガッチリあって、指導書にももちろん最後の方に、じゃあ作ってみましょうかみたいなのがポロッとありはするけど、ほんの付け足しの一行二行。指導書は、鑑賞中心の記述しかないし、鑑賞中心の時間配分しかないから、そっちを発展させて実作を充実させようなんて、そんな発想すらなかった。

現在は俳人として活動している夏井である。その夏井をして「実力がなかった」「そんな発想すらなかった」と言わしめるのだから、当時の俳句教育がBの夢想するそれとはかけ離れていたことは十分に推察できる。また、再説するが夏井が中学校の教諭を務めていたのは、先述したように「詩」の文言が指導要領に残っていた69年改訂とそれが消えた77年改訂の時期である。仮に指導要領の変化によって俳句教育が大きく歪められたのだとすれば、夏井がそれに言及していないことも、「図式がガッチリあって」との言葉とも矛盾することになる。

それではこうした傾向はいつから生じたのだろうか。これについては、樋口(1964)の記述が参考になるかもしれない。樋口は『中学校における俳句鑑賞指導上の問題点について』と題した論文で、58年改訂に基づく新教科書について次のように評している。

今わたくしがこの教材「俳句」というものを捉えて学習上の問題点を取出し、その扱うべき方法の一端を明らかにしたいと思うのは、周知のごとく、昭和三十七年度から学習指導要領改訂に基づく新しい教科書が使用されて、従来とは幾分改まった形で文学作品が位置づけられているという点にある。中でも「俳句」という文学作品の国語教科書における位置は、その目標がかなり変わった要求になっているのではないか。つまり、その目標が「作り方」という創作面の解説がけづられて鑑賞中心になってきているということである。

この言い方は少し言い過ぎかも知れないが、少なくともわたくしの管見に触れた国語教科書十四種類の教材では、その俳句の作り方という創作についての解説を採用しているものは、二、三種類に過ぎなかったからである。その上、はっきりと「俳句の作り方」として打ち出しているものは一種もなく、「俳句について」(中村草田男氏)とか、「家庭句会」(生徒作品)だとか、「俳句とはどんなものか」(安住敦氏)という表題で解説を施している程度である。これは従前の教材で取上げられていた「作り方」という形成での扱い方とはかなり相違してきているように思う。

仮にこの記述を信用するならば、60年代には既に鑑賞中心の俳句教育となっていたのであり、それが反省されることも無く80年代まで続いたとすれば、夏井の「図式がガッチリ」という言葉も腑に落ちる。90年代以降はこうした詩歌教育に対する反省も散見されるものの、やはり創作指導に対する大々的な機運の高まりは2008年改訂まで俟たねばならない。言い換えれば、1960年代から2000年代までの約半世紀に渡り、俳句教育について目立った変化は確認できないということである。

最後に、こうした教員の意識を数字でも確認しておこう。管見の限り、詩歌教育に対する教員の意識調査は二つ存在する。まずは、中谷雅彦が平成9年に静岡県の県立高校の国語教師全員を対象にした調査である。その結果、「最もやりにくい授業」として挙げられたものが韻文、特に詩であり、これはどの職歴年数区分においても最も高い数字を示し、全体としては30%に及んだ。

その理由としては「読解中心で、詩のよさや面白さを教えることができない」「何をどこまで教えたらよいかわからない」といった指導法が確立していないことによる混乱から、「解釈が多様で、背景の理解が難しい」「感性に訴えるものであり、わかる人にしかわからない」という詩それ自体の難解さ、それに加えて入試問題としての出題が少ないことが挙げられている。

もう一つは、社団法人俳人協会が2001年に発表した「学校における俳句指導―国語教師のアンケートによる実態と考察―」である。こちらでは41%(資料によっては43%)の教師が俳句の実際指導について「教えにくい」「困っている」と回答しており、その理由としては先の調査と同様に指導法の曖昧さや範囲の問題、或いは夏井が言うように授業時間が大きく鑑賞時間に配分されていること等が挙げられている。

結語

以上である。

引用・参考文献

入江昌明 2006 『平成以降の中学国語教科書における俳句教材について』 神戸女子短期大学論攷 51
入江昌明 2007 『平成以降の小学校国語教科書における短歌教材について』 神戸女子短期大学論攷 52
二宮皓編 2012 『 こんなに違う!世界の国語教科書』 メディアファクトリー新書
夏井いつき 2000 『夏井いつきの俳句の授業 子供たちはいかにして俳句と出会ったか』 創風社出版
樋口昌夫  1964  『中学校における俳句鑑賞指導上の問題点について--特に季語,切れ字を中心に』 論究日本文学 (23)