物江潤 『だから、2020年大学入試改革は失敗する――ゆとり世代が警告する高大接続入試の矛盾と落とし穴』 書評
はじめに
ですが、一般的に理解されているゆとり世代と言えば、内容が3割減った教科書で行われる授業と、総合学習という名の新しい教科を受けた人たちのことを指すと思います。2000年度から段階的に実施された総合学習は、全体の授業時間削減とともに、2002年度から本格的に導入されました。実施された当初、私たち1985年度生まれは中学3年生でした。ですので、総合学習を体験してからもっとも早く義務教育を終えた世代であり、ゆとり教育の第一期生と言える存在かと思います。また、私たちが小学1年生だった頃、はじめて小学校第2土曜日が休みになりましたので、そういった意味でも、ゆとり世代の第一期生と言えます。
その発想はなかった。「ゆとり教育」の定義については教育学者の間でも統一した見解は存在しないが、共通するのは改訂された学習指導要領を意味しているということである。大雑把に分類すれば①1977年改訂以降をゆとり教育とする説(西村)②1989年改訂をゆとり教育とする説(耳塚・志水)③1998年改訂をゆとり教育とする説の三つに分類できる。それぞれの説についてここで詳細な検討はしないが、最も一般的なのは③の定義だろう。②の説については以下の記事を参照してほしい。
したがって、最も一般的な「ゆとり世代」の定義は1998年改訂に基づいた学校教育を受けた世代であり、1987/4/2~2004/4/1生まれの世代がこれに該当する。ただし、これでは一つの世代として扱うには大きすぎる上に、世代概念が重複してしまう。たとえば、2000 年4 月2 日に生まれた人はゆとり教育を5 年間、その後は脱ゆとり教育を4 年間受けたことになるため、彼がゆとり世代であるのか脱ゆとり世代であるのか一意に決められない。
そこで、教育議論の場でゆとり世代という用語をどうしても使いたいのであれば、高校・大学入学試験が準拠する学習指導要領によって定義するのが良いだろう。これならば世代と学習指導要領を一対一で定義できる上に、学校教育の中でも少なからぬウェイトを占める入学試験を主軸に議論ができる。この定義の場合は1987/4/2~1997/4/1生まれの世代がゆとり世代となる*1
3割削減についてはゆとり教育の代名詞として語られがちであるが、これには大きく二つの誤解がある。一つは、3割削減はあくまで義務教育期間に限定されるということである。ゆとり教育の眼目は基礎・基本の徹底であり、小・中学校でゆとりをつくり、基礎を固めることで高校・大学での学びを円滑に進めるというのがその趣旨であった。寺脇研の有名な「学力が落ちて当然」発言もこのことを指している。
…でも『ゆとりはつくった。学力は落ちない』なんてあり得ないんです。(中略)小中学校のときにハイペースで飛ばして、高校、大学と遊ぶといった順序だったのを、小中学校のときはスロースタートでいいから少しずつやって、高校、大学はペースを上げるわけで、中学3年卒業時点の学力は落ちると思うけれど、トータルに見たら、今と変わらない学力を維持しているということです
…だから少なくとも、二つは言えると思います。一つは、大学を卒業した時点、社会に出た時点で学力が下がるようなことにはならない。つまり、小中学校でゆったりしていたほうが、高校、大学で死にもの狂いで勉強してもらえるはずで、トータルでは決着がつく話だと思います。
ちなみにPISA・TIMSSでは義務教育修了(TIMSSでは中学2年)時点での学力低下は殆ど確認できない。また、社会生活基本調査では、寺脇の目論見通り(?)ゆとり教育後に高校・大学での学習時間が大きく増加したことが分かっている(小中学校では横ばいないし微増)。
二つ目の誤解は、本当に学習内容が3割削減されたのか誰も確認していないということである。「ゆとり教育で学習内容が3割削減される」というのは、あくまで1998年教育課程審議会において示された方針でしかない。その後「ゆとり教育」は大きな批判にされされたのだから、この方針が撤回、ないし緩和されたとしても不思議ではない。このことについて、岡本・佐藤(2014)によれば、文科省次官であった小野元之が次のような証言を残している。
二つ目の誤解は,教育内容の三割削減という話です。これは,たしかに文部科学省も三割削減と言ったのですが,私が事務次官の時に,教科書の活字の大きさなどを含めていろいろと調査しましたところ,私の結論では一割削減なんです。削減したということには間違いないのですが,三割もの削減ではありません(岡本・佐藤 2014 p.131)。
小野の発言は調査手法が明示されていないため、その信憑性には疑問が残るが、同じように「3割削減」という数字も定量的な調査が行われた結果としての数字ではない。世間では文科省が3割削減という数字的目標をやっきになって断行したと認識されている節があるが、実際にはそれを示す根拠は現在まで示されてはいない。
というか私が読む限りどう見ても3割は削減されていないだろうと思うのだが、それを定量化する手法を知らないためここに根拠を示すことはできない。どうして皆それほど無邪気に3割などと言えるのか不思議である。ちなみに教科書は3割も減っていないしそもそも2003年指導要領一部改正以降は学習内容は変わらず教科書のページ数だけが増えているので「ゆとり教育で使われた教科書のページ数」という言葉もまた一意ではない。
学校現場で、上手く総合学習が機能しない状況は、現在もほとんど変わっていないようです。私は学習塾を経営しているため、毎日のように小中学生と会話をしますが、総合学習の時間といえば、修学旅行の班を決めたり、合唱コンクールの練習をしたり、単なる自習の時間にしたりといった"授業"になることも多く、本来の理念からかけ離れた教育がなされているのが大概のようです。もちろん、例外もあります。特に小学校では、もともと科目横断的な教育がなされていたこともあり、比較的上手く機能しているようです。
総合学習が特に中学校の教員の間で評判が悪いというのは、質問紙調査でもある程度確かめられている。川村光が2004年に実施した総合学習に関する調査では、殆どの設問項目において小学校の教員よりも中学校の教員の意識が低い。ただし、その5年後に実施された調査では中学校教員集団の総合学習に対する意識は大幅に改善し、学習効果に対する不安は半減、総合の趣旨を理解しているかを問う設問では小学校教員を上回るまでになっている。おそらくその原因は、川村の指摘する通り中学校における総合の授業がパターン化された授業実践として定着したことが大きいのだろう。
他方、著者が第2章で示しているように、ベネッセの学習指導基本調査では小中学校の教員ともに「総合削減派」の方が多数派であり、高校以上では総合の時間が主要5教科の学習に振り替えられている事例も多々あるようだ。総合学習は教員の負担が大きい教科であり、それ故その理念から乖離した指導実態が存在するのは確かだろう。
序章 2020年教育改革とは何か
2020年教育改革の概説。勉強になった。
第1章 荒唐無稽なゆとり批判
「ゆとり教育批判」批判が展開される章。タイトルだけを見て買ったので意外な展開であった。
実際、2000年と2003年の順位の間には、統計学的な有意差はありません。両年ともに、数学的リテラシーと科学的リテラシーは1位と有意差のない得点(1位グループ)であり、読解力に関しては両年ともに1位と有意差がある2位グループに位置しています。
正確に表現すると、数学的リテラシーと科学的リテラシーの得点はスケールが確立する前の得点なので比較不能、共通する問題領域から等化した得点では有意な低下は見られない、読解力については有意に低下しているが、報告書にも記述がある通りテスト設計の変更に起因する可能性が高い、である。詳細は以下の記事を参照してほしい。
この2012年度の調査を受けた当時15歳の子どもたちは、ゆとり教育を小学1年生のときから受けてきた世代です。しかも、「脱ゆとり」の方針を鮮明にし、授業時間数が増えた2008年の学習指導要領が完全実施されたのは2012年度からなので、ほぼゆとり教育しか受けていない世代です。成績向上が「脱ゆとり」の成果など、口が裂けても言えないはずです。それにもかかわらず、偏差値エリートが集う文科省や大手マスコミはこの結果を受け、「脱ゆとり」の成果を強調しました。教育政策に関する知識は勿論のこと、論理的な思考能力も備えているはずのエリートたちが、このような荒唐無稽な結論を出してしまったのです。
禿同(死語)。正確に言えばPISA2012世代は「脱ゆとり」の移行措置を3年間受けているため、この時点では「脱ゆとりの成果」と強弁する余地もあった。しかし、本格的に脱ゆとり教育が実施された後のPISA2015, PISA2018における得点低下が判明した今では通用するはずもない。加えて、過去最高の得点を記録したはずのPISA2012世代が、そのこともって「脱ゆとり世代」として扱われている事実は私の知る限り存在しない。「脱ゆとりの成果」というのは目の前の理解しがたい結果をどうにか理解しようとした場当たり的、その場しのぎの無自覚な認知の歪みだったのだろう。
この全くもって不可解極まりない現象は、空気に支配されて無謀にも戦艦大和を出撃させた戦時中を想起させる出来事ではないでしょうか。とある空気が広がっていくと、どれほど非合理的なものであっても、一つの結論に帰着してしまう空気の支配は、現代の教育政策においても例外ではないのです。
全くもって私も同じことを考えていた。ただし、ゆとり教育を巡る言説が戦時中の日本と類似しているのは上記の点だけではないと思う。前掲の記事にも書いた通り、一般的に「ゆとり教育」とされる2000年代の教育は、その実かなり「反ゆとり的」な教育が実施されたことが分かっている。当時あれだけゆとり教育が批判されたのだから当然の結果だろう。翻って詰込み教育や受験競争の弊害が性懲りもなく叫ばれていた90年代以前の方がよほど「ゆとり的」な教育観が支配的であった。この世論と実態とのギャップは、戦時中の日本ほど「愛国心の欠如」が大衆的批判に晒された時代は無かったという事実と同様の構造である。
以後は「円周率が3」「分数ができない大学生」等の典型的なゆとり教育言説を批判する記述が続く。円周率については3.1だの小数は1/10だのと二度も三度も騙されている人がいるのでその内しっかりと稿を改めて書こうと思う。言うまでもなく円周率は3でも3.1でも3.14でもないが、少なくとも1998年改訂において円の面積計算等に使用されていた数字は紛れもなく3.14である。当の文科省自身が教育白書やHP上で何度もデマを訂正しているというのに何故自分の勝手な解釈を優先するのか。認知の歪み恐るべしである。
以下目次だけ。
第2章 大学入試は「爵位獲得レース」だ
第3章 素晴らしき入試問題と参考書たち
第4章 「平易な難問」という摩訶不思議な現象
第5章 新テストはこうやって失敗する
第6章 ゆとり第一期生による入試改革案
ゆとり言説研究のために買っただけだが予想外の内容だった。特にゆとり教育批判批判については中々に強い筆致で私も思わずニッコリしてしまった。ゆとり言説としては「ゆとり教育の理念は問題ないが運用がまずかった」説に分類される一冊。