若者論を研究するブログ

打ち捨てられた知性の墓場

MENU

教養とは

教養とは何ぞやみたいな記事がホットエントリに上がっていたので便乗します。そんなに難しい概念ではないと思うんですけどね、まあパパっと定義してみましょう。

ただし、ここで定義する「教養」は、あくまで我々がこの言葉に対して抱いているイメージからつくりあげたものです。歴史とか本来の意味とかそういうのは考慮しません。そもそもここ日本ですからね。日本語としての、日常語としての「教養」を考えます。

博識としての教養

まずは、教養の範囲をできるだけ広くとってみましょう。我が国を代表する教育者である新渡戸稲造さんは、教育の目的について次のように述べています。

それに就いては、ただ専門の学に汲々としているばかりで、世間の事は何も知らず、他の事には一切不案内で、また変屈で、いわゆる学者めいた人間を造るのではなくて、総ての点に円満なる人間を造ることを第一の目的としなければならぬ。英国人の諺に"Something of everything"(各事に就いてのある事)というがある。ある人はこれを以て教育の目的を説明したものだと言うた。

いわゆる全人教育ですね。これは我々の考える教養概念とも似通った部分があります。「全ての物事に多少は通じている」。教養を最も広く定義すればこのように表現できるかもしれません。つまり、"博識"としての教養です。

しかし、この定義には問題があります。第一に、ここでは教養の「質」が問われていません。全ての知識が教養を構成しうるというのであれば、どこぞの芸能人が不倫をしたかどうかみたいなクッソどうでもいい知識でも教養になってしまいます。

それもありだろう、という方もいるかもしれませんが、冒頭に説明した通り、この記事では我々が教養について漠然とながら抱いているイメージを明確にすることを試みています。やっぱそれは教養じゃないだろ。

知性のキャパシティとしての教養

ただし、新渡戸さんの説明からは教養についてのヒントを得ることができます。それは「『専門』に対置する概念としての『教養』」という考え方です。これは、日常的な用法としてもしっくりくる考え方ではないでしょうか。

たとえば、大学などでは学部生として特定の「専門」を学ぶ傍ら、「一般教養」についても学びますよね。一般の教養がある、というよりも、専門外の一般的な学識を「教養」と呼んでいるのでしょう。数学の先生が数学得意でも誰も褒めてくれませんが、数学の先生が小説を書いていたら何か教養がありそうです。

それでは「専門以外の学識」を教養と定義すればいいのでしょうか。「学識」の定義はさておき、一つの定義としてはありでしょう。ここからは所謂「教養=知性のキャパシティ説」が導かれます。受験勉強のさなかに哲学書を読みふけっているような人のことです。こうした人は、自らの脳のキャパシティを誇示しているのです。

が、このように教養を定義しても、まだ問題は残ってしまいます。教養キャパシティ説は要するに、テストの時間が余って暇だったからロピタルの定理を証明してた(笑)みたいな話です。誰からも強制されず、求められてもいないのに、それについての学識を身につけている。それ故、教養は知性の余技であると認識されるのです。

ですが、教養をそのように捉えてしまうと、大学で行われているような教養教育はどうなってしまうのでしょう。学校で真面目に教養を学ぶというのは、学校で真面目にロックを学ぶみたいな不思議な響きを持ってしまいます。ちょっと格好がつきませんね。

また、専門外の知識を持っていれば知性の容量が大きく見えるというのも、残念ながら見えるだけです。一つの物事を深く学んでいれば、それもまたキャパシティの証明にはなるでしょう。結局のところ、「知識」が「学識」という言葉に変わっただけなのです。

キャパシティ説が問題にしているのもその量であり、質は問われていません。世の中には「専門バカ」という言葉もあるくらいですから、専門と教養の間に横たわっている溝にはもう少し深く、哲学的な何かが潜んでいそうです。

人生の指針としての教養

というわけで、我が国を代表する哲学者である三木清さんは、教養について何と言っているのでしょうか。『読書と人生』というエッセイには専門と教養の関係について書かれた一節があります。ちょっと長いですが引用してみましょう。

教養とは或る専門の知識を所有することをいうのではなく、却って、教養とはつねに一般的教養を意味している。専門家になるために読書の必要のあることは云うまでもないが、ひとは特に一般的教養のために読書しなければならぬ。そして専門家も一般的教養を有することによって自分の専門が学問の全体の世界において、また社会及び人生にとって、如何なる地位を占め、如何なる意義を有するかに就いて正しい認識を得ることができるのである。専門家も人間としての教養を具え専門家の一面性の弊に陥らないように読書は勧められるのである。

(中略)然るに濫読と博読とが区別されるようになる一つの大切な基準は、その人が専門を有するか否かということである。何等の方向もなく何等の目的もない博読は濫読に他ならぬ。一般的な読書に際しても、ひとはなお何等か専門というべきものを有しなければならぬ。一般的教養も専門によって生きてくるのであって、専門のない一般的教養はディレッタンティズムにほかならない。

おお、これは分かりやすいですね。「専門」がその人の具える学識だとすれば、「教養」はその社会的位置づけを示すための地図と言ったところでしょうか。地図が無ければどこに行くかわかりませんし、地図だけ持っていてもどこにも行けません。ここでは専門と教養の質の違いが説明されていますし、「多面的な知識」というのは我々が抱く教養イメージともピッタリ合致します。

もうこれでいいのではないでしょうか。教養というのはだね、すなわち地図のことなのだよ。うーん、悪くはないですが、もうちょっとバシッとくる言い回しはないですかね。正直「人生の地図」とか安っぽいです。もうちょっとこう、力強いというか…人間力的な何かを…そういうアジテーションは軍人さんが得意かもしれません。

教養とは「道」である

というわけで、最後に我が国を代表する軍人である石原莞爾さんが何かそれっぽい事を言ってないかどうか確認してみましょう。

西洋人も勿論道を尊んでおり、道は全人類の共通のものであり、古今に通じて謬らず、中外に施して悖らざるものである。しかも西洋文明は自然と戦いこれを克服する事に何時しか重点を置く事となり、道より力を重んずる結果となり今日の科学文明発達に大きな成功を来したのであって、人類より深く感謝せられるべきである。しかしこの文明の進み方は自然に力を主として道を従とし、道徳は天地の大道に従わんことよりも(以下略)

もちろん、ここで言う「力」とは征服力とか支配力とかそんな感じのもので、「道」というのは人の道、すなわち人倫のことを意味しています。しかし、「専門と教養」の関係性やそれぞれの性質を表現するのに、「力と道」はピッタリのメタファーではないでしょうか。

たとえばあなたが物理学者だとして、自国の指導者から「原子爆弾をつくってくれ」と言われたとしましょう。できるできないは能力の、つまりは力の問題です。あなたが専門性の高い有能な物理学者ならばできるかもしれませんし、専門性の欠片もない無能なカスならばできないかもしれません。

しかし、「できる、できない」と「やる、やらない」は別の話です。そして後者についてより良い判断を下すための知識こそが教養なのです。あなたが国際情勢についての教養を持っていれば「できるがやらない」と判断するかもしれませんし、経済的な教養を持っていれば頼まれずとも自分から売り込みにいくかもしれません。哲学的な教養を持っていれば自らの良心に基づき戦争への参加を拒むこともあるでしょう。

つまり、教養とは因果を見通すための知識であり、力の使い途を考えるための知識であり、人の倫を踏み外さないための知識でもあるのです。ですから「道」という一語でこれを表現しましょう。専門とはすなわち力であり、教養とはすなわち道である。うーん、微妙。

日米開戦から50年 NHK/ABC共同調査

1991年12月は真珠湾攻撃によって日米開戦の火ぶたが切られてから50年目に当たる。これを機にNHK世論調査部は,太平洋戦争の認識,日米関係の現在・将来などをテーマに,アメリカ3大ネットワークのABC放送と初めての日米共同調査を実施した。

今回の調査では,双方がそれぞれの質問項目を持ち寄り,何回もの事前調整を経て質問票を作成した。結果はNHK,ABCともそれぞれニュースで大きく取り上げられたほか,NHKではNHKスペシャル「日米市民討論」などの番組でも放送された。

NHK放送文化研究所編, 1992, 『NHK放送研究と調査』, 42(2)

と、いうわけで当該調査の結果をまとめたExcelファイル(nhk_abc.xlsx)をGoogleドライブに置いときました。サンプルの抽出や構成比を含む調査概要も併せて記載しています。年齢をクロスした集計表があれば良かったんですけどねぇ…まあいくつかの設問ではトピック的に年齢別の回答割合も示されていたのでそれで良しとします。

ちょいちょい表記がおかしなところもあるんですが、出来るだけ元資料のフォーマットを忠実に再現した結果なのでそれは私のせいではなくNHKのせいです。結果に影響を与えるようなものではないので気になってもスルーしてください。しかしまあ、30年後の現在から結果を振り返ってみると何とも面白いというか寂しいというか…

共有 - Google ドライブ

曽野綾子は二次方程式の解の公式を消したのか

より正確に表現すれば「曽野綾子は夫である三浦朱門に訴えてそれまで中学校で教えていた二次方程式の解の公式を高校へ移行させたのか」という問いになるが、結論から言えばしていない。ただし、このエピソードの出典である週刊教育Pro1997年4月1日号がどうにも入手できなかったため、断腸の思いで孫引きの文章を以下四つの資料から引用する。

まずは一番正確に引用していると思われる西村(2009)の文章から見てみよう。

中学からは、二次方程式の解の公式も消え、高校に移された。このことについて、教課審の三浦朱門会長は、週刊教育PROの1997年4月1日号のインタビューの中で、


「曽根綾子のように『数学大キライ』な人がいて、『私は二次方手式
もろくにできないけど、六十五歳になる今日まで全然不自由しなかっ
た』というような委員がいれば、恐らく『何のためにそのようなことを
教えなければならないのか』というようなことを言うはずです。つまり、
そのような委員が半分以上を占めなければいけないのです。」


と答えている。(引用者注:原文ママ

念の為付記しておくと、改訂指導要領が公表されたのは1998年であり、三浦朱門が解の公式を高校へ移行させたことについての確定的な証言は存在しない。改訂作業中の教課審会長の発言であることを鑑みればそこに因果関係を推定するのは自然だが、基礎・基本の徹底と言う98年改訂の眼目にも合致するため、移行の正確な要因を決定するのは困難である*1

これだけではイマイチ三浦発言の文意は判然としないのだが、それは後の引用に譲るとして、以下『分数ができない大学生(1999)』、『小数ができない大学生(2000)』、『学力低下が国を滅ぼす(2001)』に登場する「二次方程式が消えた」エピソードを時系列順に引用してみよう。余談だがこの三つの書籍全てに西村和雄は編著者として名を連ねている。

分数ができない大学生

二次方程式は必要ない?
ある文化人が、「主婦には二次方程式は必要ない」といったとの話が広まり、二次方程式の勉強が必要かということが話題になっている。すべての女子高校生が主婦となるわけでもなく、主婦の全員が二次方程式をまったく使わないというわけでもない。主婦でも、仕事をする人はいるし、子供に中学の数学を教えることもある。(岡部・戸瀬・西村編, 1999, p.28)

少なくとも先の引用を読む限り、三浦は主婦という言葉は使っていない。数学が大嫌いでありながらも数学を使わずとも立派に生きてきた人間として妻を例に挙げているだけである。明らかに誤った引用だが、この文章を書いたのは他ならぬ西村和雄である。

また、同書の別の箇所では東京大学数理学科研究科の松本幸夫によっても二次方程式エピソードが語られている。

最近、ある高名な士が「二次方程式など解けなくても立派に生きてこられた」という趣旨の発言をしているのを読んで、いろいろと考えてしまった。筆者自身のことをいえば、数学の教師をしている関係上、二次方程式が解けなければ商売にならないのだが、果たして、自分自身の個人的な日常生活の必要から二次方程式を解いたことがあるか、と自問自答してみると、あまりはっきりとした記憶がない。(同上, p.113)

管見の限り、先に挙げた週刊教育Proのインタビュー記事以外に三浦朱門が同様の発言をしたという記録はない。したがって、松本が出典を実際に読んでいたかはいささか怪しく、発話者が曖昧になっているのはそのせいかもしれない。

小数ができない大学生

次の『小数ができない大学生』では、京都大学の上野健爾によって三浦発言の背景が語られており、その文意もより明瞭になっている。

教育課程審議会会長の三浦朱門は雑誌『週間教育Pro(ママ)』一九九七年四月一日号のインタビュー記事「『教育』今後の方向」の中で、教科内容の厳選に関して、教科のエゴをなくすために、たとえば数学では「曾野綾子のように『私は二次方程式もろくにできないけれども、六五歳になる今日まで全然不自由しなかった』という」数学嫌いの委員を半数以上含めて数学の教科内容の厳選を行う必要があると発言している。この発言から一年二カ月ほどたった今年の六月に教課審の審議のまとめが出され、二次方程式の解の公式は中学数学から姿を消すことになった。(岡部・戸瀬・西村編, 2000, p.132)

学力低下が国を滅ぼす

最後に『学力低下が国を滅ぼす』から引用してみよう。この箇所を執筆したのは埼玉大学の岡部恒治である。

数学の学習の必要性についても触れておきます。今回の学習指導要領の改訂時に教課審会長だった三浦朱門氏は、「私の妻(曽野綾子)は二次方程式が解けなくとも、日常生活に不便はなかった」なる趣旨の発言をなさったそうです。曽野さんは、そう感じたのでしょう。しかし、教課審会長の立場でこれを言えば、個人的な感想で済まされなくなります。(西村編, 2001, pp.191-192)

済まされたのか済まされなかったのかは教育課程編成の手続きが公開されていない以上不明である。敢えて言うなら教育改革国民会議(2000年設置)において曽野綾子が提言した一年間の強制社会奉仕という狂気の政策と比較して、現に実施された(解の公式が高校へ移行した)分だけ済まされなかった可能性が高いと言い得るくらいである。

結局…?

以上の引用を確認する限り、発言の主体は明らかに三浦にあり、要は「うちの妻は数学などできんでも生きてこれた」と言っているのである。曽野綾子黒幕説は彼女に対して二重に失礼であると言わざるを得ない。
ところで、曽野綾子の著書には正に「二次方程式もろくに解けない」という語句が登場する書籍がある。1984年に出版された『あとは野となれ』というエッセイ集である。何とも示唆的なので最後に引用しておこう。

男女の共同作業の中で、女に必要なのは、私の体験からすると、むしろべとべとした女らしさを捨てて、男と同じように働こうと思うことであった(中略)私から見て、女らしいという特徴には、次のような形をとることが多い。それは「私には××ができないのよ」か「××なんて怖い」という表現である。
私自身の場合を考えても、リンゴ一つまともに描けないのに、そのうちに絵描きになれるとか、二次方程式もろくに解けないのに、日曜毎の楽しみに、数学を解くような心理にはまずならないだろうと思う。しかし本当にやろうと思えばできないことはない、と思っていたい(曽野, 1984, pp.130-131)

引用・参考文献

[1] 岡部恒治・戸瀬信之・西村和雄編著, 1999, 『分数ができない大学生』, 東洋経済新報社
[2] 岡部恒治・戸瀬信之・西村和雄編著, 2000, 『分数ができない大学生』, 東洋経済新報社
[3] 曽野綾子, 1992, 『あとは野となれ』, 朝日新聞社
[4] 西村和雄編著, 2001, 『教育が危ない1ー学力低下が国を滅ぼす】, 日本経済新聞社
[5] 西村和雄, 2009, 「新学力観と観点別評価--いかにして導入されたか (特集 混迷する評価の時代--教育評価の前提を問う)」, Quality Education Vol. 2, pp.1-31

*1:つまり解の公式の移行が二次方程式を軽んじているのか重んじているのか、どちらを意味しているのかすら不明ということである。この辺りの議論はこちらの記事も参照してほしい。より詳細な議論はリップマンでも読んで下さい。

特定の語句を含む引用リツイートを取得する方法について

異常にバズったツイートについて、特定の語句を含む引用リツイートの数などを調べたい時に使います。APIキーとトークンは事前に設定しておいてください。なお引用RTのRT(分かりにくいな…)は除外していますが、含めたい場合は「#RTは除く」の箇所をコメントアウトしてください。

# -*- coding: utf-8 -*-
from requests_oauthlib import OAuth1Session, OAuth1
import json
import requests
import urllib
import sys
import io

#検索文字列設定
tid = input('ツイートIDを入力してください->')
kwd = input('検索ワードを入力してください->')
word = tid + ' ' + 'AND' + ' ' + kwd 

#RTは除く
word += ' exclude:retweets' 
word = urllib.parse.quote_plus(word) 

# デフォルト文字コードをutf8に変更
sys.stdout = io.TextIOWrapper(sys.stdout.buffer, encoding='utf-8')

#APIキー情報設定
consumer_key = ""
consumer_key_secret = ""
access_token = ""
access_token_secret = ""

#TwitterAPIアクセス
url = "https://api.twitter.com/1.1/search/tweets.json?count=100&lang=ja&q=" + word
auth = OAuth1(consumer_key, consumer_key_secret, access_token, access_token_secret)
response = requests.get(url, auth = auth)
data = response.json()['statuses']

#データ表示
cnt = 0
while True:
    for tweet in data:
        print("------------------------------------------------------------------")
        print(tweet["id"])#ツイートID
        print(tweet["text"])#ツイート内容
        print(tweet["created_at"])#ツイート日時
        cnt += 1
        maxid = int(tweet["id"]) - 1

    #ツイートがない場合ループ終了
    if len(data) == 0:
        break

    url = "https://api.twitter.com/1.1/search/tweets.json?count=100&lang=ja&q=" + word + "&max_id=" + str(maxid)
    auth = OAuth1(consumer_key, consumer_key_secret, access_token, access_token_secret)
    response = requests.get(url, auth = auth)
    data = response.json()['statuses']

print("ツイート数:" + str(cnt))
使用例


たとえばこのツイートについて、"みずほ"を含む引用リツイートを調べたい時はツイートIDに"1527214175872700417",検索ワードに"みずほ"と入力します。

python twitter.py
ツイートIDを入力してください->1527214175872700417
検索ワードを入力してください->みずほ
------------------------------------------------------------------
1527839999655550976
あ、だからみずほ銀行って頭悪いトラブルばかり起こすんだ!納得! https://t.co/8hM2QoVeKD
Sat May 21 02:33:36 +0000 2022
------------------------------------------------------------------
(中略)
------------------------------------------------------------------
1527222311262138368
なるほどね どこまで学ばせるべきかということね
多分偉くて賢いどっかの人が決めてるんだろうね
まあ三角関数の重要性が認識できない奴が決める奴の中に入れるべきじゃないけどな
最終的にみずほ銀行みたいな国が出来上がるわ https://t.co/kPOYFbk7i1
Thu May 19 09:39:08 +0000 2022
ツイート数:171

"みずほ"を含む引用リツイートのID, 投稿内容,投稿日時が表示され最後にツイート総数が表示されます。ちなみに引用RTのRTまで含めるとツイート総数は644件になります。

若者論の構造②―二極化する若者論

前回

若者論はありとあらゆる道徳的語彙といいがかり資源の組み合わせでつくられている。その必然的帰結として,若者論は常に一貫した体系を持っているわけではなく,しばしば若者論同士が矛盾する関係にたつこともある。

たとえば,内藤の言う「凶悪系言説」と「情けな系言説」はその典型である。グッドマンも同様に,日本の若者論を「まるで不協和音を発するかのような複数の主張」(前掲 p.48)と表現している。筆者が作成した表においても,「勇気」から導かれる言説が,脆弱で内向的・逃避的な人物像を描くのに対し,「正義」から導かれる言説では,尊大で傲慢,傍若無人な人物像が描かれている。

自己中心的でわがままな子どもが増えたのか,他人の顔色をうかがう受け身な子どもが増えたのか,二つの主張は一見すると相反する主張に思える。自然に考えれば,両者の間で議論があってもおかしくはない。両者が争ってくれれば,若者論など放っておいても落ち着くところに落ち着くのではないか。

しかしそうはならない。一見して矛盾・対立しているように見える言説でも,若者論の世界では不思議なことに深刻な対立とはならないのである。「凶悪系論者」と「情けな系論者」が真剣に議論を闘わせることはない。両者は時に不干渉を貫き,時に手を取り合うことで若者論という枠組みの中で共存しているのである。

そうしたことが可能になるのは,両者が一見対立関係にあるように見えて,その実,同じ認識を共有しているからだ。

それは「自分たちは普通である」という認識だ。攻撃的な若者が増えたと言われれば,誰しもそれが問題であると直感する。他方,受け身な若者が増えたと言われても,やはり同じように問題だと感じてしまうものである。そうした直感が両立するのは,意識的にせよ無意識的にせよ,自分は攻撃的でも受け身でもない「普通の」人間であるという認識をもっているからに他ならない。

多くの若者論では基準が明示されることはない。性的モラルの崩壊を嘆く人間が「最適なセックス」の時期を教えてくれることはないし,最近の子どもは友達が多い,或いは少ないと言って問題視する人間が「最適な友達の数」を大真面目に分析することはない。基準が明示されないのは,それが当人にとって自明であるからだ。つまり,自己の経験がその基準なのである。

大学生でセックスを経験した人間にとって,高校生のセックスは性的モラルの崩壊であり,哀れな中年童貞は草食系男子のなれの果てである。五人の友人と楽しく少年時代を過ごした人間にとって,二人しか友達がいない人間は当然のごとくコミュニケーション能力に問題があり,十人も友達がいる人間は,それはそれでコミュニケーション能力に問題がある。十人も友達がいれば,薄く浅い友達づきあいしかできないからだ。

誰しも自分はまともだと思っているし,自分の人生経験というものは肯定的にしか語られない。それが本人の糧になっているのであれば,他人がとやかく言う問題ではないかもしれないが,逆もまたしかりである。

依存・離れ言説

自己の経験を無批判に基準化してしまうのは誰しもが陥る間違いだろうが,同時に若者論の顕著な特徴でもある。それが最も典型的に現れるのが「依存・離れ」言説である。若者のスマホ依存,テレビ離れ,ゲーム依存,アルコール離れなど,現代では様々な依存・離れ言説が日々生み出されている。

これらの依存・離れ言説の多くは,新聞や週刊誌,テレビなどのマス・メディアを通じて生産されるため,必然的に問題として主題化されることが多い。若者がゲームに依存するのは,現実と向き合えずに仮想の世界へ逃避する若者が増えたことが原因であり,若者のアルコール離れが深刻化しているのは,飲み会などの付き合いを嫌う「ゆとり(さとり)」が増えたからである。

しかし,依存・離れ言説に逆の視点が含まれることは稀である。余暇の大半をテレビ視聴に費やすことの問題性が議論されることもなければ,スマートフォンに生理的嫌悪をもよおす人間の病理が解明されることもない。依存・離れ言説論者にとっての基準とは,無前提的に自分たちのことであり,その基準が省みられることはほとんどない。若者論の辞書に自省という言葉は存在しないのである。

つまり,若者が何かに依存していることも,何かから離れていることも,その割合すらも本当の問題ではない。「われわれとは違う若者がいる」という事実こそが,若者論者にとっては何より真の問題であり娯楽なのである*1「依存」であるのか,「離れ」であるのかというのは,単に方向性の違いでしかない。

二極化・二面性言説

自分たちが「普通」であるという認識を共有しているからこそ,若者論は対立することがない。自分たちの主張とは異なる主張をする若者論者は,打倒するべき論敵なのではなく,かえって自分たちとは違う若者と闘う盟友なのである。

そのため,往々にして相反する若者論はまったく干渉しないか,或いは,相互に自説を強化しあうような関係をとり結ぶ。その際に多用されるのが,二極化・二面性というロジックである。一つ具体的な主張を見てみよう。生地新(2000)は現代(20年前)の大学生に見られる病理を次のように指摘している。

大学の保健管理センターに来談する学生たちの中で,自己愛の病理が問題となるケースが増えてきたという印象がある。(中略)彼らの万能で尊大な自己像の背後に,傷ついた無力な自己像が隠されている(生地 2000 p.191)。

このような自己愛的な青年の増加は,親の養育態度や子育て文化の変化や科学技術の進歩に伴う錯覚,子どもを取り巻く社会の価値の変化などが関係していると著者は考えている。現代の日本の社会では,子どもたちは,身体を通じた手触りのある体験や規範や伝統を伝えられるよりも,親の自己愛の延長として期待され,「過保護に」育てられる傾向があるように思われる。少子化がこの傾向を助長しているとも思われる。


そして,科学技術の進歩やエンターテイメントの産業の肥大化は,子どもたちから「歯ごたえ・手触り」の体験を奪い,バーチャル・リアリティの体験ばかり提供している。(中略)現代の親子関係は,ひどくべっとりとした相互依存関係か,ものを介した情緒に欠けた関係が多くなってきているようにも思われる。こうした状況の中で,子どもたちは自己愛的な空想の世界に閉じこもるようになっているようにみえる(同上 p.195)。

親の甘やかし,脱自然,少子化,バーチャル,娯楽の氾濫,全てがこの短い文章の中に詰め込まれている。もし,これが5年後に書かれていればインターネットとゆとり教育が加えられていたに違いない。しかし何より注目すべきは,この論説には二極化言説と二面性言説が共に含まれているという点である。

現代の青少年の自己愛が肥大化しているのは,「ひどくべったりとした相互依存関係」と「ものを介した情緒に欠けた関係」という二極化した親子関係が原因であり,彼らの自己愛には「万能で尊大な自己像」と「傷ついた無力な自己像」という二面性が隠されているのである。その声は我が友李徴子ではないか?

二極化,二面性言説は簡捷な議論を好む人には使い勝手が良い。第一に,この戦略をとれば自説の多様性が簡単に確保できる。若者を十把一絡げにする若者論といっても,自説が全ての若者に当てはまると思っている若者論者はそう多くはないはずだ。少子化といっても年間百万以上の子どもが生まれているのだ。どんな若者論であろうと,それに当てはまらない集団は確実に存在する。

そうであれば,若者の実像を把握するために必要なのは,若者の多様性を掬い上げることができるような実証調査である。しかし,二極化・二面性言説であればそのような面倒な手続きは必要ではない。

二極化言説ならば,仮に自説とは反対の主張があっても対立することはない。自分が問題としているのは「こちら」の若者であり、相手が問題としているのは「あちら」の若者だからである。或いは二面性言説ならば,自説と矛盾するような言説は,矛盾するどころかそのまま自説の根拠となりうる。

たとえば,「暴力的な子どもが増えている」という主張と,「大人しい子どもが増えている」という主張は真っ向から対立しているように見えるが,二面性言説においては「内向的な現代の子どもはキレると手がつけられない。少年犯罪の凶悪化がまた実証されてしまった」ということになる。

性の二極化言説

「性行動の低年齢化」はありふれた若者論である。年端もいかない少女がセックスをするという言説にロマンを感じるのか,本当に若者の性的乱れを憂慮しているのかは知らないが,「若者の性的乱れ」は若者論の中では盛んに主張されてきたものの一つである*2

しかし,近年では「草食系男子」に代表されるように若者のセックス離れとでも言うべき現象が報告され始めている。そのため,性行動の低年齢化言説が未だに根強い支持を得ている一方,現在は性の二極化論が台頭し始めている。つまり,未成熟なままセックスをする早熟な人間と,いつまでもセックスをしようとしない草食な人間の両極に分かれ始めているらしい。

週間ダイヤモンドの第100巻12号では『早熟と草食に二極化する女子中高生の“性の実態”』という刺激的なタイトルの特集が組まれている。同誌によれば,娘が日ごろ何を考え,どんな日常を過ごしているのかを知ることで,娘との関係をこじらせないための特集とのことである。こんな特集を真に受ける父親が娘にとっては何よりの絶望であり,不和の原因となるのではないか。

この特集では,二極化の実例として「初体験までの交際期間」の表を載せている。出典は『男女の生活と意識に関する調査』*3である。下表は,同誌に掲載された「19歳以下女性の性交に至るまでの交際期間」の推移,下図は,その中で二極化しているとされた第5回調査(2010年)の結果をグラフにしたものである。

二極化とは一体。筆者の理解が正しければ「極」というのは分布の峰(ピーク)のことを意味しているはずだ。二極化とはすなわち,二峰性の分布だということである。グラフの一つ目のピークは「1年未満」にある。二つ目のピークはどこに消えたのか。

つまり,若者論者の想定する「二極化」とはこういうことなのである。

ちなみに,同特集では「ゆとり世代は競争よりも協調が大事だと教えられてきた」というゆとり言説が唐突に登場する。なんでも,あるコミュニティサイトに登録している女子中高生に対し,「なぜ場合によってキャラを変えるのか」と尋ねた結果,「人間関係がスムーズになるから」「みんなで盛り上がれるから」という回答率が高かったことが根拠らしい。

年齢による効果,時代による効果,性別による効果,他集団のデータ,経年比較のための過去のデータ,標本集団の代表性,設問の妥当性,調査手法の信頼性,全てを乗り越え「ゆとり」に飛びつく言わばゆとり脳とでも言うべきこの現象の責任は報告書もまともに読めない理系の学者連中にこそあるという話は長くなるのでまた今度にしよう。

参考文献

生地新 (2000) 「現代の大学生における自己愛の病理」 『心身医学』 40巻3号 pp.191-197
小谷敏編 (1993) 「若者論を読む」 世界思想社
「早熟と草食に二極化する女子中高生の''性の実態''」 (2012) 『週刊ダイヤモンド』 100巻12号 pp.46-49
ロジャー・グッドマン/井本由紀/トゥーッカ・トイボネン[編著] 井本由紀[監訳] 西川美樹[訳] (2013) 『若者問題の社会学―視線と射程』 明石書店

*1:問題として捉え自己との同化を望む若者論を矯正的若者論、娯楽として捉えむしろ差異を強調する若者論を娯楽的若者論と呼ぶ。今考えた。

*2:若者論の特徴の一つは,その対象が男性に限定されていることである(小谷 1993 p.234)。一方,性の低年齢化言説は女性が対象にされることが多く,若者論としては比較的珍しい部類に入る。おそらく,特徴的な行動を見せる女性の場合,その原因が年齢ではなく性別に回収されやすいのだろう。
或いは小谷が可能性として提示しているように,若者論自体が「マッチョでセクシスト的」なジャンルなのかもしれない。たとえば,若者の幼稚化言説では時として,「現代の若者は女・子ども化している」と主張される。ここでいう若者とは無前提的に男性が想定されている。

*3:同調査は2002年に第1回調査が実施され,以降は2年ごとに実施されている。2002年から2010年の第5回調査までは,厚生労働科学研究費補助金による研究事業として行われ,その成果は厚生労働科学研究成果データベースで確認することができる。また,2012年に行われた第6回調査からは日本家族計画協会が独自に実施している。

デマを訂正するコストについて

一般に、デマが拡散する容易さとは対照的にその訂正はきわめて難しいとされている。その主因の一つは、面白おかしい、衝撃的なデマ情報に比べ、訂正情報は往々にしてつまらないからである。しかも自らの誤りを認めることになるため、デマを拡散した主体は訂正情報の拡散に非協力的となる。

もう一つの主因は、デマを訂正する側に発生する種々のコストである。そのコストは大まかに1.調査コスト2.説明コスト3.心理的コスト4.数的コストの四つに分けられる。本稿ではこの四つのコストを詳述する。折よく新しいデマに遭遇したので、この事例を都度参照しながら書いてみよう。

1. 調査コスト

まず第一に発生するのは、その情報がデマであるかどうか確認する調査に係るコストである。この調査コストは分散が大きく、殆ど0の場合(既にデマだと知っている場合)から、莫大な労力を要するもの(e.g."日本人は欧米に比べ集団主義的である")まで幅広く分布している。

ただし、デマの訂正において調査コストがネックとなることは余りない。多くのデマは数分、ものによっては数十秒あればデマであることを確認できる事例であり、にもかかわらずデマを訂正する試みはことごとく失敗に終わるからである。

コムケイの場合は小程度のコストだろうか。筆者は合格者の名前がどこに掲載されているか知っていたため、確認に係るコストは限りなく0に近かったが、そうでない場合は何を検索すれば良いか少し迷ってしまうかもしれない。

一瞬の逡巡でもあればそれが実行に移される確率は限りなく低くなる。私が訂正ツイートをするまでに約2500ほどのいいねが付いていたが、これはつまり彼らの誰一人として真偽を確かめようとしなかったということだ。

ちなみに何故覚えているのかというと、どれだけ訂正されようと(この後すぐにツイート主も訂正ツイートをしている)、このツイートが消されない限りどこまでも拡散すると確信していたからだ。訂正されてからの差分を示すことでデマを訂正する困難さを示そうという趣旨だった

のだが、私の思っている以上に伸びた。当該ツイートが投稿された約30時間後の現在、このツイートには約4.3万件のいいねがついている。これに対し、ツイート主の訂正ツイートに対するいいねは2000件強である*1つまり、訂正情報の約20倍はデマ情報が拡散された計算になる。

話が逸れたが、デマを訂正しようとする主体にとって調査コストは余り問題にならない。むしろ問題となるのはその調査の結果を受け取る側である。彼らに少しでも調査コストを要求すればデマを訂正する試みは失敗に終わる*2。なんとなれば、デマを訂正する試みはデマが拡散するシステムを利用するほかなく、そのためには何らの主体的動作も要しない、一目で理解できる分かりやすい情報が必要とされるからである。

2. 説明コスト

読んで字のごとく説明に係るコストだが、これは1の調査コストと相関している。つまり調査に要するコストが増えれば増えるほど、説明するコストも増える傾向にある。これは説明という行為が、自分が結論へ到達するまでの道のりを他者に再体験させる行為であると考えれば納得がいく。

しかし、調査コストの場合と同じく、説明コストはデマを訂正する側ではなく、訂正される側がより強く感じるようになっている。訂正する側は何らかの信念に基づいているため説明に負担を感じないことも多いが、他方、説明される側にとってそれは単に自分の誤りが暴かれる不快な体験でしかない。

一般に、その仕事が難しければ難しいほど、その報酬も大きくなるべきだと素朴に信じられている。デマを訂正するという行為はこの一般的な信念に反している。そこでは調べるのが難しければ難しいほど、説明するのも難しくなり、したがってその説明を聞き入れる人は少なくなってゆく。

コムケイの場合はどうかというと、説明するコストは殆ど0に近い。単に画像が合成であることを伝え、(確認しないだろうが)実際の合格者名簿のリンクでも張れば終わりである。うっかりデマ画像を信じてしまうことは誰にでもあるだろうし、それほど恥ずべきことでもない。

にもかかわらず、デマ情報を信じる人が絶えなかったのは、1で説明した通り、クリック(タップ)してリプライを確認するという僅かな作業を要求したからである。デマを訂正する側は(相手に負担させる)調査コスト、説明コスト共に0にしなければならないが、それは極めて難しい。

ただし、一定の場合には説明コストを省略することができる。それは何がしかの権威がお墨付きを与えた場合である。たとえば、日本心理学会が「血液型性格診断はニセ科学である」と公表すれば、多くの人は日本心理学会の権威によってそれが事実であると認識する。この場合は説明が不要であり、デマを訂正する側はどの権威が味方になっているのかを知らせるだけで良い。

この点において研究者の責任は極めて大きい。研究者による承認は世間においては最高位の信頼が与えられているからである。特に、テレビに出演したり一般向けの書籍を執筆する研究者*3にはこれ以上ない良識と能力が要求されなければならない。現状そうなってはいないのは残念である。

3. 心理的コスト

一般に、他者と議論を闘わせることを好む人は少ない。これは議論によって生じると予想される様々な不利益―侮蔑や嘲笑、誹謗中傷、なかんずく自分の意見をまげなければならない事態―を恐れているからである。

デマを訂正するという行為は、必然的に意見の異なる他者を相手に、正にその異なる意見が間違っていると伝える行為だ。そこに衝突が生じることは殆ど不可避であり、どれだけ丁重に伝えても好意的な反応が返ってくることは稀である。

こうした他者との衝突によって生じる心理的コストは、人によっては甚大なものとなる。そこでコストを低減する何らかの仕組みが必要なのだが、残念ながら現在に至るまでそうした仕組みはつくられていない。したがって、この点に関しては個々人のレジリエンスに恃むしかない。

ただし、SNSが発達した現代においては必ずしも他者と闘う必要はない。十分な数のフォロワーがいれば彼らに向けて情報を発信すれば良い。デマを終息させるために必要なのは、直接相手を説き伏せることではなく、大多数の第三者を味方につけることだ。相手が間違っているという「空気」が醸成された時が、デマが事実に敗北した時である。

4. 数的コスト

説明不要だろう。コムケイの事例を引けば4.5万人(書いている内に増えた)がデマに騙されたということであり、彼ら全員に事実を説明してまわるコストを個人が負うのは不可能である。しかし、デマを訂正するためにはこちらも何らかの手段で数万、数十万の人に事実を伝えなければならない。

この「何らかの手段」はマスコミを措いて他にない。この点においてマスコミの責任は極めて大きい。数百万、数千万の人に一瞬にして情報を伝える彼らの力は、現代社会においては無上の武器である。デマを訂正するには彼らの力を借りるしかない。

しかし、多くの人にとってはこれも現実的には不可能な手段だろう。残された唯一の方法は、先述したように、十分な数のフォロワーに事実の拡散を願うことである。ただし、これが上手くいく可能性は相当に低い。大抵の人は「十分な数のフォロワー」を持っていないし、持っていても彼らが拡散に協力してくれる保証はないからだ。

したがって、市井の人がデマに遭遇した時、できることは何もない。せいぜい0.1%の人に事実を説明して反発されるのが関の山である。デマを訂正するのが難しいのは、何よりこの莫大な数的コストを解決する手段が無いからだ。少なくとも現時点では無いし、将来的にできるとも筆者の貧弱な脳味噌では思えない。

まとめ

デマを訂正するという行為には甚大なコストが要求されるのですが、それを受け入れてもデマを訂正することはできないということです。それでもやろうとするならば相当の覚悟が必要です。私は修行だと思ってやっています。おわり。

*1:私に対しては30件ほど。

*2:たとえば、URLを張りつけて「この先に事実が書かれている!」といくら喧伝しても(それが事実であっても)その情報は拡散されない。

*3:Twitterで管を巻いている研究者を加えても良い。

いまこそ活かせ “いま時の若いもの”の力 申すまじ“青二才”/高橋大将談

 若い者は(判読不能)よくやつてゐる。こんどの戦争で若い人のほんとうの力をいくども私たちは見た、日本の歴史をふりかへつてみてもわかるごとく、歴史を創るものは常に若い人の力である〔…略…〕では銃後はどうであるか、(判読不能)維新の際御奉公の中心となつたのも若い人であつた、かく(判読不能)あるひは歴史の激動期における若き力の役割の偉大さを疑ふものはもはや一人もないだろう、さう思つて銃後を見るときこれでいヽといへるだらうか、私は機會あるごとに"いまの戦を勝抜くものは君らだ"と若い人に呼びかける、これは同時に"若いものを眞に働かしめよ"といふ世の中への(判読不能)へでもあるのだ、もちろん銃後の若い人たちは眞剣にやつてゐる、だがこの若い力を世の中は果して存分に働かせてゐるだらうか、私の歯痒さはここにある。

 若さにみち/\た人と老境の人とをくらべては、なんといつても若い人の精神、肉體が勝つてゐる〔…略…〕もちろん老人といつても全部が全部おいぼれではない、中には體も丈夫で、精神も溌剌として"なにをいふ、若いものに負けるものか"とりきむ者もあるだらう、しかしなんとしても萬難を排除してゆくあの気概は若いものの前に兜をぬぐだらう、歴史を大きく回復するものはこの力である、いふまでもなく老人にもすぐれたところはある、例へば若いものヽとかく陥り易い軽挙、(判読不能)をためる力である。

 きびしい(判読不能)の段階はいまやこの両者の結びつきを早急に求めてゐる、どんな結びつきか、それは若い立派な人を各方面の重要な位置に据ゑ、老人は若い人の缺點を補つてこれを補佐する、いはば相談役となつて御奉公するやうな態勢にすることである、もはや、いやいまこそかくすべき(判読不能)そしてここで考へなければならぬことは"あいつは若いから、あいつは経験が浅いから、あいつは(判読不能)がないから…" "青二才どもが、何をするものぞ…"とすぐ言ひたがる日本人の癖をサラリとすてることだ"いま時の若いものはなどと口はばつたきことは…"と山本元帥もいつてゐられるではないか。

讀賣報知 1945.01.19