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ゆとり教育とは何だったのか―俗説に対する批判的検討 1.補遺 社会生活基本調査の設計

以下の記事に対する補遺です

まえがき

社会調査一般において,何らかの母集団を調べようとする場合,その母集団に属する全員を調査できることは殆どない。全国や都道府県単位の母集団を想定している場合,そこに含まれる全員を調査するのはコストの面からみて実現不可能であり,医薬品の効果など仮説的な無限母集団を想定する場合には,そもそも理論的に悉皆調査は不可能である。また、選挙結果の予測や製品の不良率を調べるために全数調査を行うのは本末転倒というかただのアホである。

全数調査を行うのは基本的に不可能であるか無意味なもの,或いは時として有害なものでさえあり,国勢調査のように調査の意義から全数調査の実施が妥当なものと認められるものでない限り*1,全数調査は控えるべきである。全国学力なんとかのように無意味な悉皆調査は膨大なコストがかかり,学校・生徒に対する負担も大きい。また,個人に対するフィードバックを大きくすることと,正確な集団統計量を計算することは基本的に両立しない。

そのため,殆どの社会調査では母集団の特性をうまく反映できているような標本を抽出することで,母集団の特性値を推定している。ここで問題となるのは,母集団を抽出して得られた標本データから元の母集団特性値へと「復元」する方法と,標本集団の「偏り」を元の母集団と一致させる方法である。たとえば,世帯の貯蓄額を調べたい場合,母集団100世帯の内から10世帯を抽出したとしよう。また,その時の標本集団合計(貯蓄額の合計)は3,000万円,平均貯蓄額は300万円だったとする。

当たり前だが,3,000万円という数字は母集団合計とは一致しない。また,標本集団の属性(世帯主の学歴・性別・居住地など)が母集団のそれとは大きく異なっている場合,その平均値も母集団平均から大きくずれている可能性がある。標本調査ではこれらの問題点を解決する必要がある。一般に,前者の方法(標本集団から母集団への拡大)を拡大推計と呼び,後者の方法(偏りの補正)をウェイティングと呼ぶ。

どちらの作業も,要は標本データに何らかのウェイトをかけるという作業だ。そのため,拡大推計もウェイティングと呼ばれることがある。社基調の場合,拡大推計のウェイトを線形推定用乗率,或いは単に復元乗率と呼び,その結果得られた母集団の推定量を線形推定量と呼ぶ。また,標本集団の偏りを補正するウェイトを比推定用乗率と呼び,その結果得られた母集団の推定量を比推定量と呼ぶ。ここでは,社基調で採用されている「層化二段確率比例系統抽出」の場合の復元乗率を説明し,また最終的に得られる比推定量について説明する。抽出ウェイトを考慮することはPISAやTIMSSのデータを分析する上でも必須なので、少し具体的に説明しておく。

抽出ウェイト

社基調の具体的な説明をする前に,ここでは抽出ウェイトの基本的な考え方を説明しておく。今,ある標本集団sについて得られた観測値をy_{k}:k\in sとする。たとえば,上の例で言うならば,世帯1の貯蓄額=y_{1},世帯2の貯蓄額=y_{2}であるということだ。ここで,標本集団合計\sum_{s} y_{k}を母集団合計の不偏推定量とするにはどうすれば良いだろうか。不偏推定量とは,ごく簡単に言えば標本抽出を何度も繰り返した時に,その期待値が母集団の値と一致するような推定量である。

非復元の単純無作為抽出の場合は簡単である。日常生活の中でもこの手の拡大推計は頻繁に行われている。たとえば,母集団Uのある要素iの変数値y_{i}について考えてみよう。上の例で言うならば,i=1,......,100であり,それぞれの世帯の貯蓄額がy_{1},......,y_{100}となる。ここから,10世帯,言い換えれば10個の値を抽出するとき,1回の抽出でそれぞれの変数値が抽出される確率は1/100,ある変数値y_{i}が標本集団に含まれる確率は10/100である。この「母集団のある要素が標本集団に含まれる確率」をその要素の包含確率と呼ぶ。非復元の単純無作為抽出の場合,包含確率を\pi_{i}として,\pi_{i}=1-(\cfrac{{}_{N-1} C _n}{{}_N C _n})=\cfrac{n}{N}となり,これは全ての要素について同じである。

標本特性値を母集団特性値の不偏推定量とするには,この包含確率の逆数をかけてやれば良い。たとえば,世帯1の包含確率は1/10である。10世帯に1つの割合で選ばれたのだから,逆に言えば残りの9世帯は切り捨てられてしまったことになる。つまり,包含確率の逆数とは,その要素が何要素分の情報を代表しているのか,という値である。1/10の確率で選ばれた世帯は10世帯分の情報を代表しているということだ。この包含確率の逆数のことを一般に抽出ウェイトと呼ぶ。したがって,標本の観測値y_{k}それぞれに,包含確率の逆数をかけて足し合わせたものが,母集団合計\tau_{y}の不偏推定量\hat{\tau}_{y}となる。以下の式がそれである。\begin{equation} \hat{\tau}_{y}=\sum_{s} \cfrac{y_{k}}{\pi_{k}} \end{equation}\tag{1} この包含確率を利用した推定量のことを\pi定量,或いはHorvitz-Thompson推定量(HT推定量)などと呼ぶ。この推定量は,基本的にどのような抽出デザインでも利用することができる。ここでの説明もHT推定量を利用する*2。ここで注意してほしいのは,ある世帯が10世帯を代表すると言っても,どの世帯が代表するのかによって推定値が変わってくるということだ。貯蓄額が低い世帯ばかりが10世帯を代表すれば,推定値は当然小さくなるし,逆もまたしかりである。そしてこの変動こそが社会調査における標本誤差なのである。

層化抽出

まずは「層化抽出」の説明である。一般に,標本を抽出する際に望ましいとされる方法は,母集団から無作為に標本を抽出する方法だ。通常,知りたい母集団の属性(変数),たとえば支持政党などの属性は,「年齢」「職業」「居住地域」「学歴」などの別の属性と相関を持っていることが多い。そこで,無作為抽出ではなく,何らかの手段によって標本集団を抽出する場合(たとえばある雑誌のアンケートや,特定の地点で聞いたインタビュー,或いは自分の身の回りにいる人に聞いて見るなどの方法によって標本を抽出する場合など),そこでは知りたい属性と相関の高い属性について偏った結果が得られてしまう可能性がある。たとえば,年収と支持政党の間に非常に強い相関があった場合,高級車の購入者に支持政党のアンケートを行ってもその結果は偏ったものになるはずだ。

しかし,無作為抽出ならば「年齢」にしろ「学歴」にしろ,或いは他のどんな属性であるにしろ,標本における属性の構成比は母集団の構成比(母比率)と一致するはずである。たとえば,年収と支持政党の関係でいえば,無作為抽出を行った場合の,標本集団における年収構成比と母集団の年収構成比はほぼ一致することが期待できる。無作為抽出は知りたい属性と他の属性の相関関係が未知であっても,その合計や平均,(不偏)分散など様々な統計量が母集団の不偏推定量となることが理論的に保証されているため,理屈の上では最も望ましい抽出法であるといえる。

ただし,無作為抽出にも欠点がある。一つは,現実的に無作為抽出を行うことが困難である場合だ。たとえば,母集団を「日本人の成人男性」だとした場合を考えてみよう。ある母集団から標本を抽出する際に,第一義的に必要とされるのは母集団の「名簿」である。そもそもこれがなければ標本抽出を実施することはできない。しかし,日本人の成人男性は5,000万人以上存在する。それだけの大規模なリストを作成すること,またそのリストをメンテナンスすることは現実的には困難だ。また,仮に,母集団名簿を作成できたとしても,母集団が「日本人」の成人男性であるため,標本を無作為に抽出するには,全国をばらばらに調査することになり,非常な手間と時間がかかることになる。

無作為抽出にはもう一つ欠点がある。無作為抽出は確かに母集団の不偏推定量になるという意味では母集団の特徴をよく反映した抽出法であると言える。しかし,その反映はあくまでも確率的なものである。たとえば,標本集団の男女比を考えてみよう。標本抽出を何度も繰り返せば,その男女比の期待値と母集団の男女比は近似することができる。しかし,一回の標本抽出では"たまたま"男性,或いは女性の比率が高くなってしまうことがある。もし,「性別」という属性が知りたい属性と強い相関を持っているのならば,無作為抽出を行った場合でも,その結果と母集団の真の値に大きな差が生じることが有り得る。

そこで使われる手法の一つが「層化抽出」である。層化抽出では母集団をいくつかのグループ(層)に分け,そのグループの中で独立に抽出を行うことで各グループに属する部分母集団をバランスよく抽出することができる。たとえば,「性別」で層化する場合,母集団を「女性」のグループと「男性」のグループに分け,それぞれのグループで独立に抽出を行えば,どちらかの性別に偏って抽出されることはない。このとき,それぞれの層にどれだけのサンプルサイズを割り当てるのかということが問題になるが,比較的簡単な方法としては,それぞれの層を母集団の構成比と一致させる「比例割当」と,全体のサンプルサイズnを一定とした場合に,母集団合計の分散が最小になるような割り当てを決定する「最適割当」という手法がある。

社基調では47都道府県を層として層化抽出を行っている。割当の詳細は不明であるが,いずれの方法でも各層での抽出を独立にしておけば,母集団総計の推定量は各層ごとの総計推定量の合計となる。したがって,層化のデザインは復元乗率の計算に影響は与えない。たとえば,宮崎県では自動車を保有している世帯が20万世帯,大分では18万世帯,鹿児島では... といった各層ごとの推定値を合計すれば,全国の自動車を保有している世帯数の推定量になるということである。

社会生活基本調査ではこの各層の中から,一次抽出単位として「調査区」の抽出が行われる。社会生活基本調査における調査区とは,他の多くの官公庁統計と同様に国勢調査調査区のことを意味している。抽出単位として国勢調査の調査区を利用することには様々なメリットがある。たとえば,国勢調査の調査区は平均して約50の世帯を含むように設定されており,一人の調査員が担当するのに適当な大きさとなっている。また,調査区によって層化を行いたいような場合,国勢調査区ではそれぞれの調査区における詳細な情報が利用できるため,容易に層化が可能となる。

それでは,具体的にはどのように調査区の抽出が行われているのか。社会生活基本調査では調査区の抽出にあたって「確率比例系統抽出」という抽出法を利用している。これは確率比例抽出と系統抽出を組み合わせた抽出法であり,他の官公庁統計でも頻繁に利用される手法である。

確率比例抽出

まずは確率比例抽出から説明しよう。今,都道府県ごとに層化した結果,全国は47の層(グループ)に分けられている。その内,一つの層,ここでは宮崎県に注目してみよう(宮崎出身なので)。平成22年度国勢調査の小地域集計では10472の調査区番号が宮崎県に含まれているが,ここではきりが良いように10,000の調査区が含まれているとする。一次抽出ではこのうち120の調査区が抽出される。

仮に,各調査区の抽出確率が均等(1/10000)ならば,非復元抽出の場合,ある調査区の包含確率は120/10000 である。したがって,調査区をもとの母集団(宮崎県民)人口に復元するには10000/120 の乗率を利用するだけでよい。しかし,社会生活基本調査では各調査区の抽出確率は均等ではなく,その人口規模に比例している。先ほど,各調査区は平均して約50世帯を含むように設定されていると述べたが,実際には調査区ごとにその規模はバラついている。その調査区の規模に比例するように抽出を行うのが確率比例抽出である。

一般に確率比例抽出は,調査の目的とする変数と相関が高いと思われ,かつ既知である変数を利用する(たとえば,企業の売上高を調べたい場合に,企業の資本金の情報を利用する)。この変数のことを補助変数と呼ぶ。標本を抽出する際に,一般の抽出確率(HH推定量の場合)や包含確率(HT推定量の場合)と,この補助変数を比例させれば推定の精度はより高くなると考えられる。ただし,社基調を含む多くの社会調査において,確率比例抽出はむしろ個人の包含確率を等しくするために利用されることが多い。宮崎県に住むAさんでもBさんでもCさんでも,調査に選ばれる確率を皆同じにするということだ。宮崎県の場合,各調査区の人口規模をx_{i}(i=1,......,120), 宮崎県の人口を\tau_{x}=1000000として,それぞれの包含確率\pi_{i}\cfrac{x_{i}}{\tau_{x}}に比例するようになっていればいい(正確には補助変数x_{i}に比例していればいい)。

ただし,非復元抽出の場合,包含確率を人口規模に比例させることは存外難しい。復元抽出の場合は,その包含確率が1-(1-p_{i})^nと簡潔に表現でき*3,人口規模に比例させるのも容易である。しかし、非復元の確率抽出はその手順を考えることが、或いは二次の包含確率を計算するのが難しい。そのため,Poisson抽出法,Sunterの方法,Sampfordの方法など,様々な抽出手続きが考案されているが,中でも一般的によく利用されるのが「系統抽出」と呼ばれる抽出法である。確率比例抽出と系統抽出を組み合わせると,確かに\pi_{i}=\cfrac{nx_{i}}{\tau_{x}}となり,\pi_{i} \propto x_{i}となるような包含確率が実現できる。

系統抽出

そこで、系統抽出の具体的な手順について説明しておこう。今,宮崎県に含まれている10,000の調査区のリストがあるとする。系統抽出では,このリストを抽出率の逆数,10000/120=83.3…. の整数部分である83という大きさのグループ(群)に分割する。したがって今,10,000の調査区のリストは83の調査区を含むグループ120個とその余りである40の調査区を含むグループ1 個に分割されたことになる。

次に,最初のグループから無作為に一つの調査区を抽出する。たとえば,ここではリストの上から72番目の調査区が抽出されたとしよう。後は,この調査区から83個おきに間隔をあけて標本を抽出していく。つまり,最初に抽出される調査区は72番目,次に抽出される調査区は155番目,その次に抽出される調査区は238番目... といった具合に標本調査区を抽出していく。そうすると,120個に分割された母集団のグループはそれぞれのグループから重複なしに,一つの調査区が抽出されることになる*4

何故このような抽出を行うのだろうか。実は,社基調では系統抽出を行う前に,調査区のリストを「大都市圏に含まれるか否か」「人口集中地区に含まれるか否か」「市町村の人口階級」などの基準によって配列している。たとえば,リストの最初の方には大都市圏に含まれ,かつ人口集中地区にも含まれる調査区がその人口階級の高さによって配列されている。その次には大都市圏に含まれるが,人口集中地区には含まれない調査区がその人口階級によって配列されている,といった具合である。ただし,この配列は説明のためのもので,実際の配列基準ではない。

こうした傾向性を持たせたリストに対し系統抽出を実行すると,無作為抽出のときに確率的に起こり得る「大都市圏ばかりが抽出される」「人口階級の少ない市町村ばかりが抽出される」といった偏りが起こらなくなる。つまり,緩やかな層化の効果を得ることができるのである。ただし,調査区の特性が周期的に変化し,その周期が抽出間隔の整数倍に近いときは,偏った標本を得てしまう可能性もある。

確率比例系統抽出

確率比例抽出では抽出単位の人口規模などに比例させて確率抽出を行っている。しかし,そもそも確率に応じた抽出とは現実にはどのように行えばよいのだろうか。現実的に考えられる方法は,確率に比例した整数個のリストから無作為抽出を行うことである。たとえば,宮崎県の人口が1,000,000人であるならば,まずは1,000,000枚のカードを作成する。次に,ある調査区A の人口規模が1,000 人であるならば,1,000,000枚のカードのうち,1,000枚のカードに「調査区A」と記入する。また,調査区Bの人口規模が500人であるならば,残りの999,000枚のカードのうち,500枚のカードに「調査区B」と記入する。

この作業を繰り返せば,1,000,000枚のカードには全て何らかの調査区の名前が記入されていることになり,かつその構成比は調査区の人口規模に比例している。あとは,この1,000,000のカードから無作為に抽出を行えば,それぞれの調査区をその人口規模に応じて抽出したことと同じになる。これを系統抽出と組み合わせてみよう。

系統抽出の説明では,10,000の調査区から120の調査区を抽出するものとして説明したが,これは実は不正確な説明である。実際には上記のような1,000,000枚のカードから120枚のカードを抽出することになる(もちろん物理的なカードを使うわけではない)。つまり,各調査区の名前が記入されている1,000,000枚のカードを,「大都市圏に含まれるか否か」,「人口集中地区に含まれるか否か」という基準によって配列し,それを120個のグループに分ける。1 つのグループに含まれるカードの枚数は1000000/120=8333.3......枚となる。後は,最初のグループからランダムに一番目に抽出される調査区を選び,以後8,333個おきに調査区を抽出するだけである。これによって系統抽出でありながら,その人口規模に比例した(非復元の)確率抽出を行うことができる。これが確率比例系統抽出である。

この場合,個々の調査区の包含確率は確かに人口規模に比例している。例えば,ある調査区のカードが1つのグループ内にのみ存在する場合を考えてみよう。一つのグループには1000000/120枚の要素が含まれている。このうち,調査区iの要素はx_{i}の数だけ含まれている。1つのグループからは,1つだけ要素が抽出されるのだから,調査区iが抽出される確率,すなわち包含確率は\cfrac{x_{i}}{1000000/120}=\cfrac{120・x_{i}}{1000000}となる。また,ある調査区の要素が2つグループにまたがっているとき,1つめのグループに含まれる要素の数を\alpha,2つめのグループに含まれる要素の数をx_{i}-\alphaとすると,それぞれが選ばれる確率は\cfrac{120・\alpha}{1000000},\cfrac{120・(x_{i}-\alpha)}{1000000}となり,2つの事象は排他的なので,調査区iが抽出される確率は\cfrac{120・\alpha}{1000000}+\cfrac{120・(x_{i}-\alpha)}{1000000}=\cfrac{120・x_{i}}{1000000}となる。

線形推定用乗率

つまり,ある調査区が標本に含まれる確率は,第h地域の標本調査区数をm_{h},第h地域の国勢調査人口をQ_{h},第h地域の第i標本調査区の国勢調査人口をQ_{hi}とすると,\cfrac{m_{h}・Q_{hi}}{Q_{h}}となる。また,標本調査区のデータを元の母集団調査区の規模に拡大するには,その逆数w_{1}=\cfrac{1}{m_{h}}・\cfrac{Q_{h}}{Q_{hi}}をかければよいことになる。このw_{1}が一次抽出における抽出ウェイトである。

後は簡単である。二次抽出単位は,それぞれの標本調査区内の各世帯となるが,これは単純無作為抽出によって抽出されるため,f=\pi_{k}=np_{k}が成り立っている。ただしfは抽出率(母集団に占める標本集団の割合)のことである。したがって,各世帯が標本に含まれる確率は,第h地域の第i標本調査区の世帯総数をN_{hi},第h地域の第i標本調査区の調査対象世帯数をn_{hi}とすると,\cfrac{n_{hi}}{N_{hi}}となる。抽出ウェイトはその逆数,w_{2}=\cfrac{N_{hi}}{n_{hi}}である。 これで線形推定用乗率が計算できる。第h地域第i標本調査区のある世帯のデータを母集団の規模に拡大するには,一次の抽出ウェイトと二次の抽出ウェイトの積 \begin{equation} L_{hi}=\cfrac{1}{m_{h}}・\cfrac{Q_{h}}{Q_{hi}}・\cfrac{N_{hi}}{n_{hi}}・r_{hi}\tag{2} \end{equation} をかければよい。これが線形推定用乗率である。ただしr_{hi}は調査区の分割・合併があった場合の補正値である。

要は,ある要素がある確率で標本集団に含まれるというのは,その確率の逆数分の情報をその要素が代表しているということである。そして先にも述べたが,どの要素が他の集団を代表するのかによって,推定値は変化してしまうのである。すなわち標本誤差である。たとえば,親の学歴が中卒である子どもの推定母人口は,ある曜日では500人と推定されるかもしれないし,またある曜日では600人と推定されるかもしれない。どの調査区が選ばれるかによってこの値は変化する。もちろん,「親の学歴が中卒である子ども」の数はたかだか9日程度(調査日数)で変化するわけもない。そのため,週全体の平均時間を計算する際には,曜日ごとのウェイト(推定母人口の違い)を考慮する必要はなく,それぞれの曜日の平均時間を単純に7で割ればよいのである。

比推定用乗率

ただし実際には線形推定量をそのまま使うわけではない。社基調は世帯抽出の調査であるため,その線形推定量も世帯について統計量となっている。そのため,個人ベースの統計量は国勢調査人口と一致しないことが通常である(栗原・坂田 2014)。そこで社基調の推定人口と,国調人口と一致させるようなウェイトを使う必要がある。これが比推定用乗率である。 今,ある世帯のある個人が属する都道府県・性別・年齢ごとの推定母人口,或いは任意の調査変数の総計とその平均値を知りたいとしよう。たとえば,宮崎県の男性の20歳の推定人口,また,その属性を持つ集団の平均就業時間の総計と平均を知りたいとする。このとき,(2)で計算した乗率をL_{hi}=w_{j}と置き換えてみよう。ただし,jは個人を示す添字である。また,個人jの就業時間をy_{j}とする。そうすると宮崎県・男性・20歳の推定人口\hat{N},就業時間総計\hat{Y},その平均値\hat{\mu}はそれぞれ \begin{eqnarray} \hat{N}_{宮崎・男・20}\sum_{j \in 宮崎・男・20} w_{j}\tag{3}\\ \hat{Y}_{宮崎・男・20}\sum_{j \in 宮崎・男・20} w_{j} y_{j}\tag{4}\\ \hat{\mu}_{宮崎・男・20}\cfrac{\hat{Y}_{宮崎・男・20}}{\hat{N}_{宮崎・男・20}}\tag{5} \end{eqnarray} と簡潔に表現できる。しかし,先述した通りこの推定量には問題がある。社基調は世帯ベースの社会調査であるため,その乗率をそのまま個人ベースの統計量を推定するために使うと,抽出フレームである国調人口から大きく乖離してしまう可能性がある*5。 これを修正するのは簡単だ。推定人口と\hat{N}と国調人口Cの比を調整ウェイトとして用いれば良いだけである。つまり,線形推定用乗率w_{j}に対して調整ウェイトをかけた \begin{equation} w_{j}^*=\cfrac{C_{k・\delta・d}}{\hat{N}_{k・\delta・d}}・w_{j}, \ j \in k・\delta・d \tag{6} \end{equation} を新しい(抽出)ウェイトとして使えばよい。これが比推定用乗率である。ただし,k=都道府県,\delta=性別,d=年齢である。式を見てわかるように,ここでは地域・性別・年齢という変数を利用して標本集団の偏りを補正しているが,この補正に利用する変数は(調査変数と相関が高ければ)何でも良い。つまり,万能の調整ウェイトは存在しないということだ。そのため,分析の目的によっては利用するウェイトも変更する必要がある。 しかしPISAなどでは,オーバー(アンダー)サンプリング,層化抽出,確率比例抽出,無回答,データのトリミング,その他諸々の要素を考慮した「W_FSTUWT(=final student weight)」という最終的なウェイトが計算されている。PISAのデータを分析する際は,とりあえずこのウェイトを利用すれば問題はない(はずである)。

*1:国勢調査における調査区は社会生活基本調査を含む様々な他の統計に利用されている。その理由は,標本抽出において国勢調査の調査区を利用すれば母集団の名簿を作成する必要がなく,かつそれぞれの調査区は平均50世帯を含むように設定されているので,一人の調査員が調査区内の名簿を作成することも容易であるからだ。また,国勢調査では各調査区の特性も詳しく調べられているので,それらの情報を利用して層化抽出や系統抽出の配列に使うことができる。つまり,国勢調査区は他の大規模調査のフレームワークを提供する調査でもあり,これが国勢調査が全数調査であることの意義の一つである。

*2:ただし,HT推定量の場合,分散を計算するのに二次の包含確率(要素i,jが同時に標本集団に含まれる確率)を利用するため,計算が原理的に不可能(系統抽出の場合)だったり,計算が非常に煩雑なもの(確率比例抽出)になってしまうことがある。そのため,分散を計算する場合,非復元抽出であっても復元抽出を仮定することが多い。この場合は一般の抽出確率p_{k}(一つの要素を抽出するときの確率)を利用したHansen-Hurwitz推定量(HH推定量)が用いられる。社基調の場合も同様である。

*3:ただし,復元抽出の場合はHH推定量が使えるので,そもそも包含確率を計算する必要はない。抽出確率p_{i}が補助変数x_{i}に比例していれば十分である。

*4:ただし,最初に選ばれる調査区の番号によっては標本サイズは120ではなく,121になることもある。たとえば,最初に選ばれる調査区が23番目の調査区であった場合,120番目のグループから抽出されるのは,9900番目の調査区であり,121番目のグループからも9,983番目の調査区が抽出されてしまう。これを調整する一つの方法としては,抽出間隔(10000/120)をr,0からrまでの実数からランダムに発生させた乱数をa,j=(1,...,120)として,a+(j-1)×rの小数点以下を切り上げた値を抽出番号として使うという方法がある。たとえば,a=0.1とした場合には,最初の抽出では1番目の調査区が抽出され,j=121(121回目の抽出)のときに,10,001という結果になるため,121回目の抽出は行われない。逆に,a=83.3とした場合,最初の抽出では84番目の調査区が抽出され,j=120(120回目の抽出)のとき,ちょうど10,000番目の調査区が選ばれるため,こちらも121回目の抽出は行われない。

*5:ただし,標本調査である以上,世帯ベースの統計量を計算する際にも推定母人口は国調人口とは一致しない。個人ベースの統計量を推定する場合,その乖離がより大きくなる可能性があるということである。

ゆとり教育とは何だったのか―俗説に対する批判的検討 2.ゆとり教育で学習内容は減少したのか

一般の居酒屋教育談義では学習方略の議論は殆ど考慮されない。したがって、ゆとり教育言説は実質的に「学習時間の減少説」と「学習内容の削減説」の二本柱となっている。この章では後者を批判的に検討する。

2.1 「3割削減は事実か」

学習指導要領はその改訂のたびに「基礎・基本の徹底」を狙いとして学習内容の精選・厳選を謳ってきた。68・69 年改訂のいわゆる「詰め込み教育」のように,学習内容の精選と言いながらも実質的には学習内容が増えたような改訂すらある。言ってみれば「学習内容の精選」は毎度のことではあるのだが,それがゆとり教育においてことさらに問題とされたのはなぜだろうか。

ゆとり教育において学習内容の削減がかくもクローズアップされたのは「学習内容の3割削減説」が原因だろう。ゆとり教育では全ての教科の学習内容が一律3割削減された,と言われている。この「3割削減説」が世間に与えた影響は大きい。よほどインパクトがあったのか,「3割」という数字はゆとり教育言説の様々なところに現れる。いつのまにやら授業時数が3割削減されていたり,教科書のページ数が3割減っていたり、3割ではなく3分の1になっていたりする。

ところで,この「3割」という数字は一体どこから出てきたのだろうか。3割削減説を引用した論説は膨大な量に上るが,その殆どが3割削減を既定の事実として記述しているだけであり,出典を明示しているものは皆無に近い。それもそのはずであり,「3割削減」を明記した資料は存在しないのである。たとえば,読売新聞が「3割削減」について初めて言及した記事には次のように書かれている。

学校週五日制時代の幼稚園から高校までの教育内容について検討してきた教育課程審議会(文相の諮問機関、三浦朱門会長)は二十二日、審議のまとめを公表した。小中高校とも授業時間数を週当たり二時間(単位時間)削減するとともに、基礎・基本を確実に身につけさせるため、小中学校では教育内容を厳選し、現在の内容から約三割削減する。

(中略)

これについて文部省は、「約三割の削減となる。五日制で減る授業時間数以上に内容が削減されており、現在の八割程度の時間で教えられる内容」と、子供たちのゆとりの確保になることを強調している。

読売新聞, 1998.06.23, 朝刊, (1)7

記事中にある通り,文部省が3割削減の方針を初めて示したのは平成10年6月の教育課程審議会答申においてである(正確には6月1日に公表された『教育課程の改善のポイント』においてである。22日の答申には具体的な数字が記述されていない)。それでは,その具体的記述を確認してみよう。

児童生徒にとって高度になりがちな内容などを削減したり,上級学校に移行統合したりなどして,授業時数の縮減以上に教育内容を厳選する。例えば,算数・数学,理科などは,新授業時数のおおむね8割程度の時数で標準的に指導しうる内容に削減(『教育課程の改善のポイント』 教育課程審議会 1998)

これが「3割削減」の全てである。1章で見たように,98年改訂では,主要教科の授業時数は10~15%程度削減されていた。仮に12.5%授業時数が削減されたとすると,それに伴い教えられる学習内容も12.5%減少し,学習内容は従来の87.5% となる。さらに削減された授業時数の8割程度に学習内容が制限されるため,87:5 × 0:8 = 70となり,従来の7割程度の内容しか教えることができなくなる。つまり,主要教科の授業時数を1割程度は縮減することを決めたうえで,その縮減された時数の中で「ゆとりの時間」を作り出すために考え出されたのが3割という数字だったのである。

この削減の具体的内実は次節以降で詳述するが,まずこの時点で二つのことに注意していただきたい。第一に,ゆとり教育における学習内容の大幅な削減は,義務教育修了段階での一時的なものである。実際には,その「削減」されたかなりの部分が高校へ移行されているため,「ゆとり世代は従来の7割の学習内容しか勉強していない」という認識は誤りである。この点について,私が確認した限りで多くの大学関係者が誤認していたという事実は特筆に値する。

第二に,3割削減が実行されたことを示す定量的な根拠や何らかの実務的基準は存在しないということである。たとえば,文科省次官であった小野元之は,ゆとり教育による3割削減説について,次のような証言を残している。

二つ目の誤解は,教育内容の三割削減という話です。これは,たしかに文部科学省も三割削減と言ったのですが,私が事務次官の時に,教科書の活字の大きさなどを含めていろいろと調査しましたところ,私の結論では一割削減なんです。削減したということには間違いないのですが,三割もの削減ではありません(岡本・佐藤 2014 p.131)。

小野の発言は調査手法が明示されていないため,その信憑性には疑問が残るが,同じように「3割削減」という数字も定量的な調査が行われた結果としての数字ではない。世間では文科省が3割削減という数字的目標をやっきになって断行したと認識されている節があるが,実際にはそれを示す根拠は現在まで示されてはいない。

それでは,この「3割削減」,本当に実行に移されたのだろうか。それとも,小野が主張するように「1割」しか削減されていないのか。或いはそれ以上,それ以下の削減なのか。

2.2 「削減」は何を意味しているのか

ここで「3割削減」という言葉の意味を考えてみよう。誰がどう考えても「従来の学習内容の3割が削減された」としか解釈できない。だが,ここでいう「削減」というのは児童・生徒の学習課程から教えるべき学習内容が消え去ったことを意味してはいない。上の『教育課程の改善のポイント』の文言をもう一度見てほしい。あくまでゆとり教育で行われたのは教育内容の「厳選」である。「削除」というのはその処理の一つに過ぎない。厳選の方法としては他にも「移行・統合」「軽減」「選択」などがある。そして「3割削減」と言われているもののほとんどは「移行・統合」「軽減」処理によって行われたものである。そのため,正確には「3割の厳選」と呼ぶべきだろう。まず,この時点で既に3割削減説は誤りである。

たとえば,98年改訂の中学校数学では,表2.1のような厳選処理が行われている。見てわかる通り,最も多いのが「移行・統合」であり,次いで「軽減」となる。「軽減」については次節で説明するため,ここでは「移行・統合」のみを取り上げよう。各学校段階の学習指導要領だけを見ても,このことには気づけない。小学校・中学校では多くの学習内容が削減されているように見えるが,その実ほとんどが,中学・高校へと移行しているだけである。

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それでは,学習内容先送りの終着点,高校ではどうなっているのか。こちらは義務教育と打って変わってほとんど削除されてはいない。高校では大学入試の関係上,学習内容の軽減を図ることは難しい。「微分するのは二次式まで」といったところで通じるわけもない。したがって,高校での「厳選」はすなわち,「削除」ということになるのだが,高校数学で削除されているのはせいぜいが複素数平面程度である*1。どう見積もったところで1割も削減されてはいない。つまり,ゆとり教育で「学習内容が3割削減された」というのは義務教育段階での一時的な削減であり,一種の錯覚である。

2.3 学習内容の「軽減」とは何か

では「軽減」はどうだろうか。学習単元自体が残っているといっても,その学習負荷が軽減されているのならば,結局のところ学習内容が削減されたに等しいのではないか。しかし,これも誤りである。それを説明するために,まず「軽減」という処理がどのように行われているかを理解する必要がある。学習指導要領は児童・生徒が学校教育において学ぶべき基礎的・基本的事項が示されたものだが,その構成は次の三つにわけることができる。

一つ目は各学年における学習の「目標」である。たとえば,小学校6年生の「社会・歴史的分野」では「国家・社会及び文化の発展や人々の生活の向上に尽くした歴史上の人物と現在に伝わる文化遺産を,その時代や地域との関連において理解させ,尊重する態度を育てる」とされているように,学習の最終的な目的が,指導要領の始めに記述されている。

二つ目が学習の「内容」である。学習の目標を達成するための具体的な学習活動がここに示されている。「遺跡や遺物などを調べて,農耕が始まると人々の生活や社会の様子が変わったことや,大和朝廷による国土の統一の様子について理解すること。その際,神話・伝承を調べて,国の形成に関する考え方などに関心をもつこと」といったように学習活動が具体化されている。

三つ目が学習活動の「内容の取扱い」である。「内容」で示された学習活動を実施するさいの全般的な留意点や各内容における取扱いがここに示されている。「神話・伝承については,古事記日本書紀風土記などの中から適切なものを取り上げること」などのように,学習内容を取り扱う上での注意事項や留意点が示されている。「軽減」という処理が行われるのは「内容」ではなく,この「内容の取扱い」においてである。ゆとり教育の前後では学習単元(内容)にはあまり違いが見られないものの,内容の取扱いで学習内容を制限することで,学習内容の削減を図っている。

2.4 歯止め規定

この「内容の取り扱い」に示される学習内容の制限を,一般に「歯止め規定」とよぶ。77 年改訂以来,「ゆとり」のスローガンのもとに,学習内容の削減が行われてきたことは1章でもふれた。しかし,ここでいう「削減」とは学習単元がカリキュラムから姿を消したことを意味してはいない。「削減」された学習内容は主に,「歯止め規定」によって学習の上限を定める形で取り扱われなくなったものだ。

歯止め規定が導入されたのは77年改訂のときであるが,89年改訂,98年改訂とすすむにつれ,その記述も詳細なものとなり量も増加している(とされている)。中教審の資料によると「歯止め規定」はその文言によって三つに分類することができる。

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教科によって歯止め規定の文言も変わる。数学や理科などの学習内容が系統だてられて明確に示される理系科目では①や②のパターンが多く,国語や社会などの,学習内容が抽象的になりやすい文系科目では③のパターンが多くなっている。たとえば,数学の「軽減」処理では八つの「軽減」項目のうち,六つは特定の学習内容を「取り扱わない」旨を定めている①のパターンである。残りの二つは取り扱う学習内容を制限する③のパターンだ。勿論,全て「内容の取扱い」に示された歯止め規定である。

文系科目も見てみよう。取り上げるのは小学校第6学年の社会科である。小学校の社会科は第6学年から「歴史的分野」の学習が始まるため,6年生は「歴史・政治・地理」の三つの領域の学習を行うことになる。98年改訂では小学校第六学年の授業時数は105時間から100時間へ減少している。それに伴い指導要領の「内容」からも,いくつかの事項が削除されている。

歴史的分野では「農耕が始まる前の暮しや社会」「寝殿造り」「鉄砲の伝来」の文言が削除されている。もちろん,先述したように,これらの事項を子どもが学習しなくなったわけではない。縄文時代も鉄砲伝来も日本史における基礎的な事項である。これらの事項は中学校社会科へと移行されている*2(澁澤・佐伯・大杉2000)。また,寝殿造りは指導要領の文言からは削除されているものの,教科書には記載されている(東京書籍2002)。

政治的分野では「内容」に記載されていた「イ選挙の様子や国会の働きなどを調べて,現在の政治は国民が選んだ代表者による議会政治によって成り立っていることを国民主権と関連付けて理解すること」が削除されているが,98 年改訂では「内容の取扱い」に「国会などの議会政治や選挙の意味,租税の役割などについても扱うようにすること」とされており,他の学習単元に統合された形となっている。地理的分野では削除,移行・統合されたものはない。

数学と違い,「削除」「移行・統合」されているものは少ない。小学校6年生の社会科の授業は105時間あったのだから,3割削減ということは30時間程度の学習内容が削減されたことになる。しかし,上述のように,89年改訂と98年改訂では「内容」に示される学習単元自体はほとんど変化していない。縄文時代や鉄砲の伝来だけで30時間もの授業ができるはずはない。

つまり,理系科目と違い文系科目では,学習内容の厳選は主に歯止め規定による学習内容の軽減なのである。小学校社会科の「内容の取扱い」では「網羅的に取り上げることがないよう」「精選するとともに」「いたずらに深入りしないよう」といった,抽象的に学習内容を制限する文言が多く登場している。すなわち,これらの文言こそがゆとり教育における「3割削減」の正体ということになるのだが,実は,この歯止め規定にしても89年改訂と表現はほとんど変わっていない。つまり,文系科目における学習内容の削減は教師の胸先三寸で決まっていたわけである。「あれやこれを削減しろ」と文科省が指示を出していたわけではない。 

2.5 指導要領の法的拘束力

では理系科目の歯止め規定はどうだろうか。文系科目では抽象的な文言で学習内容を制限していた。それゆえに学習内容を減らすも減らさないも教師の裁量であったわけだが,理系科目では「多項式を一つの文字に置き換えての因数分解は取り扱わない」など明確に,学習内容が制限されている。これは実質的に学習内容の削減といっていいのではないか。

これにはあえて反論する必要はないのかもしれない。なぜならば,義務教育段階における学習内容の「軽減」(或いは「削減」も)は必然的に高校の段階で解消されるものだからだ。もう一度,中学校の数学の軽減処理を見てもらえばわかると思うが,いずれも高校では当然に必要とされる考え方,或いは学習内容である。おそらく,わざわざ教えてもらうというよりも,当然に知っているものとして授業が進められるか,演習の中で身に着けていくのではないだろうか*3。円周率をπと書くときにわざわざπの書き方を練習させたりはしないだろう。それはそういうものである。

また,これはゆとり教育そもそもの狙いでもある。ゆとり教育では,単に学習内容を削減して子どもを楽にさせようという意図があったわけではない。「教育課程の改善のポイント」にもあるように,ゆとり教育が意識していたのは,子どもの知的発達過程と学習内容の難易度との関連である。中学生にとって難しい問題が,高校生にとってはより簡単な問題になることはあるだろうが,その逆はほとんどないだろう。その分指導時間が減るのであれば,学習内容を移行するのは合理的である。

が,この主張についてもあえて批判的に検討してみよう。学習内容の軽減が実質的に学習内容の削減であるとするならば,問題は学習指導要領の法的拘束力である。つまり,内容の取扱いに示された瑣末な配慮事項を教師が遵守する必要があるのかということだ。

2.5.1 法的拘束力とは何を意味するか

学習指導要領の法的拘束力が問題となったのは,学習指導要領から「試案」の文字が削除された55年改訂「高等学校学習指導要領一般編」が発行されたことに続き,58年改訂「学習指導要領」が「告示」の形で公示されたことに端を発する(松原 2012)。学習指導要領の法的拘束力については諸説があるが,松原悠(2012)によれば伝統的な分類法として三つの説に分けることができるという。たとえば,「伝習館事件」の第1 審判決では,学習指導要領の法的性格について三つの分類基準が示されている。

学習指導要領は,果たしてどのような法的性格を有するかを確定する必要に迫まられる。この際,三通りの解釈が可能であるように思われる。その一つは,学習指導要領のすべての条項が法的規範のないもの(指導助言文書),その二はすべての条項が法的規範を有するもの(法的拘束力ある規定),その三は法的拘束力のある条項と指導助言文書たる条項とに分けるもの,である(判例時報社 1978 p.3)

つまり,学習指導要領の法的拘束力については,それを全面的に認める説(その二)と全く認めない説(その一),また両者の中間として一部の条項に法的拘束力を認める一方で,一部の条項についてはそれを認めなという説(その三)の三つに分類することができる。しかし,いずれの説にも共通することは,学習指導要領を,そこに書かれているものを一言一句遵守するような性質のものとは捉えていない点である。たとえば,文部省初等中等教育局長であった諸沢正道は,学習指導要領の法的拘束力を認めながらも次のように述べている。

もともと学習指導要領が教育課程編成の基準であるといっても,労働基準法に規定する労働基準のような厳しい基準を意味するものではない。それは教育の特質からいって当然に地域や学校の実態に応じて多様に,弾力的に運用されるべきものである(諸沢 1978 p.21)。

実際の指導では,これらの教科書に基づいて教師がそれ以上に詳しい授業をするわけで,掛図やスライドなどを使ったり,教科書以外の種々の教材を用いる場合も多い。したがって学習指導要領の規制するのは明治維新を教えるということのみで,その具体的な指導の展開というのはすべて教師の創意工夫にまつわけである。以上のような具体的な例示をみれば,学習指導要領は指導のごく大枠を示すのみで,なんら教師の指導の実際を拘束するようなものでないことが明らかであろう(諸沢 1978 p.23)。

諸沢の指摘するとおり,そもそも学習指導要領によって教師の指導活動の全てを拘束することは現実的に不可能である。学習指導要領は必然的に,教師に対して一定の裁量を認めているものと解すべきだろう。また,諸沢と同じく文部省の初等中等教育局長を歴任した菱村幸彦は,学習指導要領の「法的拘束力」という用語について,次のように言及している。

学習指導要領に法的拘束力がある,などというと教師は驚き,とたんに拒絶反応を示す。『拘束』という言葉がおだやかでない。(中略)学習指導要領の法的性質に関して,ことさら『法的拘束力』などという法律用語を用いるのは,無用の誤解をまねくのみで,適当ではないのかも知れない(菱村 1976 p.19)。なにも『こふきいも』や『サンドイッチ』をたまたま指導しなかったからといって,基準違反とか法的拘束力違反などと言うものではないことは明らかだ(菱村 1989 p.23)。

学習指導要領の法的拘束力が問題となるのはあくまでも,「国語」の時間に「数学」を教えたり,小学生に「微分積分」を教えたりするといった極端な状況に限定される。多少,指導要領からそれた指導を行ったところで直ちに問題になるわけではない。そもそも,教師が一言一句,指導要領を遵守していることを誰が監視し,告発し,問題とするのだろうか。

2.5.2 現場の教員の認識

しかし,実際に指導要領を解釈し実行するのは現場の教師である。彼らは指導要領の法的拘束力をどのように受け止めていたのだろうか。『現代教育科学』2006年1月号では「現場の証言・法的拘束力の『学習指導要領』をどう思うか」という特集が組まれており,現場の教員が学習指導要領の法的拘束力をどのように受け止めていたのかについて複数の証言がある。

中でも,染谷幸二と福山憲市の二人は、学習指導要領が直接的に教員にどのように受容されているのかについて言及している。染谷は,「教師のメンタル面までは拘束できない」と題した文章の中で,学習指導要領の現実的な拘束力がそれほど強くはないことを指摘している。

学習指導要領には,法的拘束力があると言う。しかし,教師のメンタル面までは拘束できない。小学校で英会話を授業することに反対する教師がいる。「算数の教科書は使わなくていい」と公言する管理職がいる。基礎学力を論じる以前の問題である。こうした状況の中,教育現場では学習指導要領さえ読んだことがない教師がいる。悲しい現実である(染谷 2006 p.84)。

また,福山も同様に「学習指導要領に対する教員の意識は弱い」と題し,現場の教員が学習指導要領の法的拘束力にたいして,あまり強い関心を払っていないことに言及している。

職員室の中で【学習指導要領】それ自体が話題に上ることは少ない。教員の中には【学習指導要領】の法的根拠が学校教育法施行規則二十五条などに示されていることさえ,忘れてしまっている人がいる。(中略)教員は,全国という目で【学習指導要領】を見ることに甘い。目の前の教育内容が一番大切なのである(福山 2006 p.83)。

その他の教員は,主に新指導要領の実施にともなう,「生活科」や「総合的な学習の時間」といった新設教科による現場の混乱,学習内容や授業時数の削減に伴う公立校の「質の低下」といった部分に批判の焦点をあてている。3桁の計算を教えたいけどできない,などの細かな学習指導要領の拘束性についての声は聞かれない。現場の教員が律儀に歯止め規定に従っていたのかについては疑問が残る。

2.5.3 指導要領の最低基準性と歯止め規定の見直し

しかし,ゆとり教育ではそもそも歯止めに規定に従う必要はないのである。98年改訂の一つの特徴は,その「最低基準性」が実施前から明示されていたことにある。指導要領が最低基準であるというのは,「指導要領は最低限,すべての子どもが学ぶべき学習の基準であり,実際の教育活動ではその範囲を超えて教えても良い(教えるべき)」ということを意味している。

この立場は市川伸一(2003)が指摘するとおり,文科省が「ゆとりバッシング」に対して苦し紛れに打ち出したものではない。ゆとり教育論争は,実際にゆとり教育が実施される以前の90 年代後半から盛んに行われていたが,その論争のごく初期の段階でゆとり教育の「最低基準性」は文科省の側から積極的に明言されている。たとえば,ゆとり教育が実施される3 年前の1999 年に行われた,教育学者である刈谷剛彦と,ゆとり教育に関する文部省の「スポークスマン」として活動していた寺脇研の対談では次のような会話がある。

刈谷「これまで,子どもにとってハードなものを押し付けてきたというが,実際にはゆとり政策の中で,家庭や地域での学習は増えず,テレビ等にまわっている。その結果,学力の分極化傾向を生み,全体的には低下が起こっている」

寺脇少子化で受験は緩くなったので,勉強量は減っているだろう。わからないから意欲が下がる。全部わかれば『もっとやりたい』という意欲が出てくる。『3割削減』は全員共通の部分を減らしたもので,ここはみんなが100 点をとれるようにする。もっと学べるしくみとして,選択幅の拡大や地域の教育力も考える」

(中略)

寺脇「今度は学年にも幅をもたせてあるし,中学校の選択教科は指導要領より上のこともできる。指導要領は,全員に共通して教えるミニマム(最低線)だ。それは,今も同じ」

刈谷「それは,指導要領の考え方としてはドラスティックな変化だ。そこまで明言されていなかった」

寺脇「決めたことも教えきれていないのに,その上のことなど言えなかった。今度はみんながわかるのだから,もっと上のことも考える」

刈谷「そうなったときに,指導要領に準拠してきた教科書は使えない」

寺脇「先生がそれぞれ用意しなくては。そもそも,総合的学習にも教科書はない。また,学校ですべてを修める考え方はとらない。「応用塾」というような,カルチャーセンターのような塾があってもいい」

刈谷「そうなると,ますます地域間格差,階層差,家庭の影響が露骨に出る」

(出典:市川 2003 pp.90-92)

この対談の中で,寺脇は98年改訂が最低基準であることを明言し,中学校の選択教科による学習の弾力化など具体的な方策も提示している。また,これは4章において後述するが,90 年代後半の時点で刈谷が「社会階層による格差拡大」を自明視していたこと,その原因を「ゆとり政策」に求めていたことには留意しておいてもらいたい。

つまり,学習内容の3割削減とは,「最低基準」としてのゆとり教育の話なのである。この,最低基準としてのゆとり教育,指導要領の弾力的な運用というのは,ゆとり教育に通底する方針でもある。これまでに見てきた学習時間の減少や選択教科の拡大,そして学習内容の削減も,学校教育に弾力性をもたらすための措置である。にもかかわらず,その「最低基準」にしか目を向けなければ削減されているように見えるのは当然だ。

しかしながら,これはあくまで文科省の立場からの主張である。果たして指導要領をどこまで遵守するべきか,現場に混乱があったことは間違いない。そのため,文科省は新指導要領実施の翌年,2003 年には歯止め規定の見直しを早々に決めている。『初等中等教育における当面の教育課程及び指導の充実・改善方策について』と題された2003年の中教審答申では,その検討課題の一番目に「学習指導要領の『基準性』の一層の明確化」が挙げられている。さらに,その具体的課題として「歯止め規定」についても言及されている。

学習指導要領の「基準性」を踏まえれば,これらのいわゆる[はどめ規定]等の趣旨は,学習指導要領に示された内容をすべての児童生徒に指導するに当たっての範囲や程度を明確にしたり,学習指導が網羅的・羅列的にならないようにしたりするための規定であり,児童生徒の実態等に応じてこの規定にかかわらず指導することも可能なものであるが,その趣旨についての周知が不十分であるため,適切な指導がなされていない状況もみられる(中央教育審議会 2003)。

実際に,最低基準性が周知されていない状況が確認されていたのか,或いは単に世間からの「ゆとりバッシング」にたいするポーズであったのかはわからない。いずれにせよ,ゆとり教育は平成15年12月26日には改訂され,平成16年度からは指導要領の基準性が一層明確になった形で実施されていたのである。

これでもはや,学習内容の3割削減を実現する手立てはなくなった。学習内容にかけられていた制限は,この時に撤廃されているのである。「歯止め規定の見直し」は実質的に「学習内容の3割削減」という方針を文科省が撤回したものとみてよい。実際に歯止め規定を遵守している教師がどれだけいたのかはわからないが,少なくとも2004年度以降に学習内容が削減されていたのだとすれば,それは児童の学習実態を考慮したものであろう。「ゆとり教育による学習内容削減」ではない。 

2.6 指導要領をどう読むか

「学習内容は3割も削減されていない」というのが前節までの結論である。そうなると次の疑問は明らかだ。すなわち,「それでは何割削減されたのか」というのが明らかにされなければならない。3割も削減されていないのは確かだが,全く変化がないわけではない。それではゆとり教育で本当に削減された学習内容は何割だったのか。はじめに言っておくと本稿ではこの疑問に答えることはできない。

一つ目の理由は,授業時数の削減と違って学習内容を定量的に評価することは困難だからである。一つの学習単元を単位量とすればいいと思うかもしれないが,全ての単元が同じ重みをもっているわけではないだろう。「3割削減」という言葉を誰も疑問に思わなかったのだろうか。何をもって「3割」なのか。

二つ目の理由は,指導要領が示す学習内容には配当時数が設定されていないことによる。実際に指導要領の学習内容をどれだけの深さと長さで教えるかは教師の裁量の範囲である。「図形領域」を重視する教師がいれば,「数量関係領域」を重視する教師もいる。授業時数が箱であるならば,学習内容はその中身だ。箱は全員に共通だとしても,そこに何を詰めていくのかは教師によって変わる。それを一律に評価するということは難しい。

三つ目の理由は,指導要領と実際の指導実態が乖離していることによる。指導要領上では高校に移行されているはずの学習内容が実際には実施されていなかったり,或いは削除された項目が別の教科に現れることがある。たとえば,中学校数学では,資料の整理や標本調査に関連する学習単元が高校へ移行されているが,この単元は大学入試では殆どでてこない。そのため授業で扱わなった高校も相当数あると思われる。また,削減された項目として二進法があげられているが,これは98年改訂で新設された,高校の情報科の中で扱われることがある。

これらの理由に加えて,先述したようにゆとり教育では多くの項目が移行・統合された扱いとなっている。そのため「ゆとり教育で何が削減されたのか」を知るには小・中・高の指導要領を全領域にまたがり,体系的に,また実態に即して把握する必要がある。小学校で削除されている単元も中学校に移行しているかもしれないし,移行されたはずの単元が教えられていなかったりする。全ての教科について,義務教育および高校教育の内容を精査するのは筆者の能力を超えている。

そのため実際にゆとり教育で学習内容がどれだけ削減されたのかを知りたいのであれば,自分で実際に指導要領を逐一確認しなければならない。そこで重要になってくるのは「学習指導要領の読み方」である。本節ではゆとり教育にまつわるいくつかの誤った言説を紹介しつつ,指導要領の読む上での注意点を説明したい。

2.6.1 円周率が3

2.6.2 削減は「ゆとり教育の弊害」か

もう一つ,指導要領を読む上での注意点を挙げておこう。本来,指導要領の改訂は「よりよい教育」を目指して行われるはずである。しかし,指導要領をめぐる議論では学習内容が「増えたのか」「減ったのか」という単純な議論に終始することも多い。新たな学習内容が追加されたのであれば,本当にそれが公教育において全員に教える必要があるのかを検証しなければならないし,学習内容が削減されたのであれば,それが妥当なものであったのかが検証されなければならない。

したがって指導要領を読み込む際には「なぜ変更されたか」という点も注意しなければならない。しかし,ゆとり教育では「学習内容の3割削減」というインパクトが強く,ゆとり教育で削減されたものは,授業時数や学習内容の削減にともない「しかたなく」削除されたものだと思われている。当然のことながら,ゆとり教育で削減されたものは適当に決められたわけではない。そこには固有の背景が存在するはずである。

そうした例の一つとして英語の「筆記体」が挙げられる。ゆとり教育とともに必修ではなくなったため,筆記体が指導されなくなったことは「ゆとり教育の弊害」として語られることもある。筆記体の非必修化はゆとり言説の中でも数少ない事実であるため、マスメディアも何度も繰り返しているお気に入りのネタだ。しかし,筆記体が指導されなくなったことは,授業時数の削減や学習内容の削減とは無関係のことである。英語の授業時数の変遷をみながらそのことを確認しよう。

英語の「筆記体」が,全員が学ぶべき必修のものであったのは77年改訂が最後となる。77年改訂では第一学年の「言語活動」を行う際は「上記(1)の言語活動は,原則として,次の言語材料を用いて行わせる」としており,その「言語材料」の中で,文字については「アルファべットの活字体及び筆記体の大文字及び小文字」と規定されているため,原則的には全ての生徒が第一学年で筆記体を学ぶことになっていた。

89年改訂では「言語材料」の扱いに変更があり「(1)の言語活動は,別表1 に示す言語材料のうちから,1の目標を達成するのにふさわしいものを適宜用いて行わせる。」となっている。77年改訂が原則実施であったのに対し,89年改訂では教師の裁量でふさわしいと思われるものを「適宜」用いることになったのである。そのため理屈としては筆記体を教えないという判断も可能である。

98年改訂では筆記体の地位はさらに低下し,言語材料で扱う文字は「アルファベットの活字体の大文字及び小文字」となり,筆記体は「指導計画の作成と内容の取扱い」の中で「文字指導に当たっては,生徒の学習負担に配慮し筆記体を指導することもできること」とするに留まっている。しかし,教師の裁量で教えることができるという点では89年改訂と同様である。

それでは,果たしてこれは「ゆとり教育の弊害」だったのだろうか。本当は教えなければならない,教えたいにも関わらず,ゆとり教育によってそれができなかったのだろうか。それを確認するためにも,次は授業時数の変遷を見ていこう。

既に何度も書いたので詳細は割愛するが77年改訂は「第一次」ゆとり教育である。77改訂では学習内容,授業時数の削減が行われた結果,英語は従来の週4時間から週3時間へと縮減されている。しかし週1時間もの授業時数を削減したことには反発も大きく,続く89年改訂で英語の授業時数は週3 から4 時間行うことが可能になった。ここで注意しなければならないのは,あくまで「可能」になったということであり,本当に実施されたかどうかはわからないということだ。

先述したように77年改訂と89年改訂では総授業時数は変わっていない。つまり英語の授業時数を増やそうとすれば,必然的に他の教科の時数を減らす必要がでてくる。具体的に言うと,第一学年では「特別活動」,第二学年では「音楽」「美術」「特別活動」,第三学年では「社会」「理科」「保健体育」「技術・家庭科」「特別活動」のいずれかの時数を削減する必要がある。ゆとり教育を批判する文脈では無前提的に「(89 年改訂の)週4時間から(98 年改訂の)週3時間に減った」とされることもあるが,実際にどれだけの学校が英語の時数を増やしたかは定かではない。

98年改訂では,英語は必修教科になるとともにその時数は週3時間と設定された。しかし,1章で述べたように,ゆとり教育では選択教科が必修教科の補充に充てられている。加えて,小学校では総合的な学習の時間によって英語教育が導入されているため,実際には週3時間+ αといったところだろう。ここで単純に授業時数だけを考えても,ゆとり教育の英語時数は77年改訂の頃よりも増えている。仮に筆記体が公教育で「教えなければならないこと」だとするならば,それを削減する必要も,教師が指導しない理由も存在しない。

さらに07年改訂では英語の授業時数は週4時間となり,加えて小学校での英語学習が第5,第6学年で導入された。指導要領の上では77年改訂以来,最も充実した英語教育が行われているといっていいだろう。しかし07年改訂でも筆記体は復活しなかった。明らかに筆記体が削除されたのは授業時数の減少が原因ではない。

しかし,時数の削減ではなく,学習内容の削減により筆記体が削除されたと主張する向きもあるかもしれない。しかしこれは逆である。例えば77年改訂と比較して98年改訂を見ると,授業時数は増えて学習内容が減少している。つまり「ゆとり」の時間が生まれているわけだ。ここまでは筆記体が「削除」されたと表現しているが,先述したように筆記体は消えたわけではなく,教師の裁量に委ねられている。77年改訂では,ゆとり教育よりも多い学習内容が,ゆとり教育よりも少ない時数の中で行われていたのだから,今の教師が筆記体を教えようと思えば,かつてよりも容易に可能なはずである。

加えていえば、そもそも筆記体の習得のように機械的な学習であるならば、それを授業の中で教える必然性は薄い。筆記体を教えようと思えば宿題を課せばいいだけのことである。そうすれば授業時数の増減とは無関係に筆記体を教えることができる。にもかかわらず教えられていないならば,それは現場の教師が公教育において筆記体を教える必要性を認めなかったということでしかない。ろくに英語の読み書きもできない一般市民皆様方の判断よりも、現場の教師の判断の方を優先させるべきではないだろうか。

2.7 教科書のページ数減少は学習内容の減少を反映しているのか

前節までは学習指導要領を手掛かりとしてゆとり教育の内容を見てきた。しかし,世間で語られる「ゆとり教育言説」は指導要領だけを根拠にしているわけではない。指導要領と同じく,或いはそれ以上に話題に上ることが多いのが「教科書」である。特に,教科書のページ数が何ページ増えた,減ったという話題は紙面をにぎわすことも多い。教育論議としてはあまりにもレベルが低いと思わないではないが,実際に日本の教育現場では教科書が重要な地位を占めているのは事実である。そこで,本節では教科書のページ数減少が,学習内容の減少を反映しているわけではないこと,すなわち教科書を手掛かりにして教育を語ることの誤りを指摘する。

まずは、一般の教科書の基本的な構成を確認しよう。以下に示したのは,平成23年度から小学校の第6学年で使われている社会科教科書の構成である。

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見てわかるように,教科書の構成は画一的なものであり,一つの小単元につき2ページが割り当てられている。また一つの小単元につき1時間の授業が割り当てられているため,1時間当たりのページ数も2ページとなっている。そのため,教科書のページ数が減少する原因は限られる。一つの小単元に割り当てられるページ数が減少するか,小単元自体が削除されるか,或いは資料部分などが削られるかである。

このうち,学習内容の削減を反映しているのは小単元自体が削除された場合だけである。たとえば,仮に小単元当たりのページ数だけが半減したとしよう。その場合,学習内容も半減されるだろうか。教師が2分の1の速さで話すのでもなければ,1 時間あたりの情報量は変わらないだろう。この場合,教科書のページ数減少は,せいぜい,教科書が授業に寄与する割合が減少したと解釈できる程度である。教科書のページ数が減っても,学習内容・授業時数が変わらないとすれば,その隙間は教師が埋めることになる。

それでは,ゆとり教育が始まり教科書はどのように変化したのか。実際に見てみよう。表2.3は68年改訂から07年改訂までの教科書ページ数の推移と授業時数を示したものである。なお,計算に使用した教科書は東京書籍が発行したものであり,ページ数の情報は公益財団法人教科書研究センターの教科書目録情報データベースを利用した。

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68年改訂,つまり「詰め込み教育」でも教科書のページ数が1時間当たり2ページなのは現在と変わらない。続く77年改訂では,授業時数が35時間削減され,それに伴い,教科書のページ数が40ページほど削減されているが,1時間あたりのページ数はむしろ増えている。その後の89年改訂・98年改訂では授業時数・学習単元にほとんど変化はない。しかし,1時間当たりのページ数が減っている。77年改訂と98年改訂の教科書を比較すると,244 ページから172 ページへと「約3割」減少していることになる。「3割削減説」ここに復活である。

2.4 節で述べたように,ゆとり教育,特に文系科目では学習単元が削除されたり,或いは移行・統合されたということはほとんどなかった。また,ページ数の減少が授業時数に比例するのであれば,減少は10ページ程度に収まるはずである。それではなぜ,教科書のページ数だけが減少を続けているのだろうか。

2.7.1 歯止め規定による教科書の拘束

一つ目の理由は「歯止め規定」である。先述したように,「歯止め規定」が現場の教員を実際に拘束していたかには疑問が残る。教員は歯止め規定を律儀に守らずとも何らかの不利益処分を実際に受けるわけではないからだ。しかし,教科書会社にとっては事情が異なる。周知のように教科書を発行するには「教科書検定」を受け,文科省からの認可を受ける必要があるからだ。

菱村(2003)によると,歯止め規定はもともと教科書のページ数を抑制するために導入されたという。当初は「教科書検定基準」を設けることで教科書の記述内容を削減しようという案があったが,それでは教科書の検定基準と指導基準(学習指導要領)の二重基準になってしまう。そこで学習指導要領に歯止め規定を設け,それを検定基準に反映させることで教科書の記述内容削減を実現したという経緯がある。89年改訂から教科書の1時間あたりのページ数が減少するのは,89 改訂から「歯止め規定」が増加していったことと無関係ではないだろう。

実際に,歯止め規定が見直されたことによって教科書のページ数は増加している。指導要領が一部改正されたのは2004年度のことであるが,翌2005年度からは改正された指導要領に準拠した教科書が使われている。社会科教科書の場合、ページ数は172ページから196ページへと20ページ以上増加した(表2.3)。もちろん,指導要領の一部改正によって授業時数が増加したり,学習内容に追加があったわけではない。ただ歯止め規定が見直されただけである。

補足すると,歯止め規定は2004年度に一部改正され,指導要領の最低基準性を明確にしているが,現行指導要領となる07年改訂では歯止め規定の完全な廃止が決定されている。「脱ゆとり教育で教科書が○○ % 増加」という話はよく聞くが,教科書のページ数が増えたのは,実際の学習内容が増えたことに加え,歯止め規定の廃止を反映していることも大きい。実際に07年改訂では,小学校第6学年社会科の授業時数は5%しか増加していないが,教科書のページ数は20%増加している。学習単元についてはほとんど変化がないにもかかわらずである。

2.7.2 指導法の変化

割愛

2.7.3 出版社の経営事情

同上

3章

引用・参考文献

[1] 池上彰 2014 「池上彰の『日本の教育』がよくわかる本」PHP文庫

[2] 市川伸一 2003 「学力低下論争」ちくま新書 

[3] 小野元之 2006 「基調講演:日本の子どもに求められる読解リテラシー」『読解リテラシーの測定,現状と課題―各国の取り組みを通じて』東京大学大学院教育学研究科教育測定・カリキュラム開発<ベネッセコーポレーション>講座国際研究会,2006年8 月6 日 

[4] 教育課程審議会, 1998, 幼稚園,小学校,中学校,高等学校,盲学校,聾学校及び養護学校の教育課程の基準の改善について(教育課程の改善のポイント)

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/old_chukyo/old_katei1998_index/toushin/1310248.htm

[5] 教科書協会 2014 「教科書発行の現状と課題」

http://www.textbook.or.jp/publications/data/14tb_issue.pdf

[6] Graham, S., Weintraub, N., & Berninger, W.V. 1998. The Relationship Between Handwriting Style and Speed and Legibility, The Journal of Educational Research,Volume 91, 290-297

[7] 公益財団法人教科書研究センター 教科書目録情報データベース

http://textbook-rc-lib.net/Opac/search.htm?s=-cKZ-xZqMVYzA_3dOR9fO1zB6wh

[8] 佐藤博志・岡本智周 2014 「『ゆとり』批判はどうつくられたのか」太郎次郎社エディタス

[9] Jackson, A.D. 1970. A comparison of speed legibility of manuscript and cursive handwriting of intermediate grade pupils, The University of Arizona.

[10] 中央教育審議会, 2003, 中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会総則等作業部会(第4 回)配布資料

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/005/gijiroku/03071801/003.htm

[11] 中央教育審議会, 2003, 初等中等教育における当面の教育課程及び指導の充実・改善方策について

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/03100701.htm

[12] 澁澤文隆・佐伯眞人・大杉昭英編著 2000 「改訂・中学校学習指導要領の展開―社会科編」明治図書

[13] 東京書籍 2002 「新しい社会6 上」東京書籍 78 参考文献

[14] National Mathematics Advisory Panel 2008 Foundation for Success The Final Report of the National Mathematics Advisory Panel U.S. Department of Education.

[15] 根元博・杉山吉茂[編著] 1999 「改訂・中学校学習指導要領の展開-数学科編」明治図書

[16] 判例時報社 1978 『判例時報』vol.900 判例時報

[17] 菱村幸彦 1976 「教育課程の法律常識―教育指導の法的理解のために―」第一法規出版

[18] 菱村幸彦 2003 「指導行政のポイント-" 歯止め規定の見直し"」教育開発情報センター

http://www.kyouiku-kaihatu.co.jp/uploads/file/material/pdf/pdf/kenshu072.pdf

[19] 古橋昌尚/ダルトン・コリーン/市澤正則 2014 「共通学習基礎州基準(CCSS)導入計画: アメリカ合衆国教育改革の新たな賭け」『清泉女学院大学人間学部研究紀要』 11 号 pp.59-70

[20] 松原悠 2012 「学習指導要領の法的拘束力に関する諸説とその共通点」『教育制度研究紀要』7 号pp.81-94

[21] 諸澤正道 1978 「学習指導要領の拘束性と弾力性」大塚智孝編『季刊教育法』vol.30総合労働研究所

[22] 文部科学省 2006 「高等学校等における未履修の状況について」http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/028/siryo/07090404/005/003.pdf

*1:ただし,後述するように,中学校から高校に移行された「資料の整理」「標本調査」(高校では数学B「統計とコンピュータ」「数値計算とコンピュータ」,数学C「確率分布」「統計処理」に相当)については大学入試で出題されることは殆どないため,指導していない高校も相当数あったのではないかと思われる。

*2:後述するように歯止め規定が見直された2005 年度以降の教科書では,これらの学習事項も記述されている。

*3:高校教員の中学校指導要領に対する意識は薄い。ベネッセの第5 回学習指導基本調査では,2010 年の段階でも,自分の担当教科に関する現行(ゆとり教育)の中学校指導要領について,「よく知っている」と答えた高校教員はわずかに3.4%,「まあ知っている」と答えた教員でも34.4% にとどまる。

時として現場からも「学力低下」の声が挙がる原因は,あるいはここにあるのかもしれない。つまり,小学校教員から見れば,ゆとり教育で教える内容が減っており,中学校教員から見れば,今までの子どもたちが知っていたことをゆとり教育を受けた子どもたちは知らない。また,教える内容も減っている。そして,高校教員にとっては知っているはずの知識を子どもたちが持っていないのだから,学力低下は明らかだと見えるのかもしれない。

津田和俊さんについてメモ

放射能デマを信じるように円周率デマを信じる津田さん

「円周率が3」はデマである。東大の出題意図は定かではないが*1、津田さんのように我が意を得たりとばかりに持ち出す馬鹿が相当数いたのでデマの拡散・強化に一役買ったのは間違いないだろう。

至言である。ちなみに津田さんはデマについても数々の素晴らしいお言葉を残されているので必見である。

放射能デマを共感だけで支持する人のように学力低下に共感する津田さん

放射脳を思わせる一般人のパニックとは裏腹に、ゆとり教育の前後に実施された学力調査でゆとり教育による学力低下を支持するものは殆ど無い。唯一TIMSSの第8学年数学においてゆとり期間中の有意な得点低下が見られるが、TIMSS1999からTIMSS2019までの20年間で日本の順位は一貫して韓国・香港・台湾・シンガポールに次ぐ5位となっており高水準の学力を保っている。

低線量被曝による放射線障害を怖がるように教科書のページ数減少を怖がる津田さん

小学校第6学年で戦国武将(群雄の割拠)が正式に取り扱われるのは68年改訂学習指導要領のみであってむしろ例外である。小学校における戦国武将の扱いが小さいのは「人物学習」自体が論争の対象となってきたこと、児童・生徒の興味を引く教材であっても歴史学習の本旨からは外れていること、フィクションによって醸成された一般の認識とは異なりその実態は不正確な部分が多いこと、等々の理由があるがここでは割愛する。

また、以下の表は1971年から2011年までの小学校第6学年社会科の教科書のページ数の変遷である。見ての通り1単元(1コマ)あたり約2ページであるのはこの40年間変化していない。恐らく津田さんは自分が受けた教育も全て忘れてしまったのだと考えられる。歴史学習=戦国武将だと思っているのも納得である。ちなみにゆとり期間中も資料集等においては戦国武将が取り扱われている。

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付言すると、上表のページ数減少と学習内容・授業時数の削減率は一致していない。これは70年代以降に詰込み教育へのバックラッシュとして学習内容の削減が求められ、教科書がその槍玉として挙げられた結果、教科書と問題集、或いは資料集との分離が進められたことが背景にあるのだがここでは割愛する。まあ何も考えずに厚い教科書を有難がるパッパラパーがいるのだから何も考えずに薄い教科書を誉めそやすアッパラパーがいるのも道理である。

ちなみに津田さんは言葉の使い方についても大変厳しいお方である。

放射能デマによる謂れなき差別に心を痛める津田さん

特に何の根拠も提示されていない差別的発言。ちなみに津田さんは差別問題についても一家言を持っておられます。

まだまだありますが面倒臭くなったのでここで一旦終わります。後は当人とのやりとり(反応してくれれば)をここに追記する予定です。まあこの手の自称理系の人って理性的で客観的で科学的な自分がアイデンティティだったりするので誤りを指摘されるとすぐキレるんですけどね…

*1:この問題の出題意図については以前東大に問い合わせたことがあるが返信は無かった。

オウム真理教及びその後継団体の新規信者数について

新興宗教にあっさり騙されるレベルのはてなーリテラシー
論破王・ひろゆき氏 「2ちゃんねる」を知らない若者世代からの支持も(NEWSポストセブン) - Yahoo!ニュース

例えは悪いけど、地下鉄サリン事件を知らない世代がオウムの後継団体にあっさり勧誘されるアレみたいな気味の悪さを感じる。/そも「論破」と主張しているだけで実際は論点ずらしてるだけだし。

2021/03/22 23:43

これがトップブコメになるのだからはてなーリテラシーは全く絶望的である。この馬鹿しか信じないような珍説を公安調査庁が初めてお披露目したのは「平成23年版内外情勢の回顧と展望」においてである(平成〇〇年版報告書はその前年の記録に基づく)。以下引用する。

以上のような活動の結果、主流派においては、平成22年に入り、教団報告によっても90人以上の新規信徒を獲得した(上祐派と分かれて活動するようになった平成19年5月以降の約3年半では300人以上)。その内訳を見ると、平成21年同様、年齢別では青年層が、地域別では北海道及び近畿が目立った。青年層が増加している背景には、地下鉄サリン事件から15年以上経過し、教団の実態を知らない若者が増えてきているとの事情があると考えられることから、主流派の勢力拡大に向けた動きには注意を要する。

まず初めに確認しておきたいのだが、この主張に根拠は無い。入信した若者にインタビュー調査等を実施しているわけでもなければ、そもそもオウム真理教及びその後継団体が若年層を中心に勧誘を行っているのは、平成13年版「内外情勢の回顧と展望」から公調が指摘し続けていることである。また、後述するがこの報告書における新規信者数がどのようにカウントされているのかも不明である。

一方で、当該報告書では2010年代以降、毎年のようにオウムの後継団体が100人前後の新規信者を獲得していると報告されており、これは各全国紙でも度々報道されている。それではこの20年間のオウムとその後継団体の信者数の推移を確認してみよう。

平成12年:1650人

令和02年:1650人

はいそういうわけである。念のため注記しておくと、これは別に信者の死亡等により入れ替わりが生じているわけではない。団体の構成員が高齢化しているのは事実だが、平成22年版報告書の時点で教団の構成員は40代が中心であり、60代以上の信者は1割もいない。また、H12~H18, H25~R2の期間の信者数は報告書では常に1650人とされている*1。毎年のようにぴったりと数が入れ替わっていると考えるのは不合理であり、普通に読めばこの20年間、オウムとその後継団体の信者実態は変わっていないと考えるべきである。

それでは何故このような事態が生じるのだろうか。報告書では確かに毎年100人前後(たまに200人以上)の新規信徒の存在を確認しているのである。報告書の記述を信じるならば、10年前と比較しても既に1000人以上は信者が増えているはずである。実は、この謎を解くヒントもまた報告書の記述の中に隠されているのである*2

平成26年(2014年)中,公安調査庁が教団から提出を受けた組織や活動の現状に関する報告においても,130人の新規信徒を報告した。ただし,獲得した信徒の全てを組織に定着させるまでには至っておらず,比較的短期間で脱会する者も生じた。平成27年版内外情勢)


このうち,国内の信徒については,教団が組織的な勧誘活動を活発に展開した結果,平成 27年(2015 年)中,約 100 人の新規信徒を入会させたものの,これら信徒を含め在家信徒の中には,組織に定着するに至らないなどして脱会する者も多数に上ったことから,信徒数は,平成 25 年(2013 年)から横ばいとなった。平成28年版内外情勢)

(引用者注:平成25年から平成30年の総信者数は各年1650人で変化はない)

はいそういうわけである。ギャグみたいな記述だがこれも公調式悪魔の算術だと各年100人累計200人以上の信者増加(増加とは言ってない)になるのだ。そもそも公調自身がオウムの勧誘が巧妙化している証拠として「教団名を秘匿したヨガサークルや仏教研究会を入り口に勧誘活動を展開している」ことを毎年のように屡述しているにもかかわらず、同じ口で何を言っているのだろうか。「ヨガか、いいね」→「オウムやん」となるのは必然の結果である。

念の為、公調が「100人以上の信者増加」と言い始めた平成22年版報告書から新規信者数の推移を確認してみよう。

平成21年 122人
平成22年 108人
平成23年 213人
平成24年 255人
平成25年 不明
平成26年 130人
平成27年 約100人
平成28年 約130人
平成29年 100人を超える
平成30年 100人に近い                                令和元年 90人                                    令和02年   60人以上(Aleph)

注:平成23年以前の数値は平成24年版内外情勢による

この1000人を超える新規信者は一体どこに消えてしまったのだろうか…「オウムを知らない若者」という神話生物を騒ぎ立てる人の知能程度に合わせれば、これは恐らくオウムの残党が未だに事件を反省せず脱会しようとする信者を闇に葬り去っているのだと考えられる。公調は一刻も早くこの事件を調査するべきだ。

常識的に考えろ

もうちょっと真面目に考えてみよう。こんな馬鹿げた妄想を信じる前に、まずはもっと当たり前の、つまらない現実に目を向けるべきだ。つまり、「オウムを知らない若者がオウムに入信する」よりも「オウムを知っている若者が(それ故に)オウムに入信する」可能性の方が遥かに現実的である。これが分からない人の頭は残念ながらワイドショー仕様になっているのだろう。当たり前のことを当たり前に考えることができなくなっているのだ。世の中は人が犬を噛むような面白おかしい珍奇な話ばかりで溢れているわけではない。

実際にこの仮説にはある程度の裏付けもある。平成18年版内外情勢によれば、この時点で在家信徒(1000人)の約3割が地下鉄サリン事件以降に入信した信者である。また、現実に信者数の著しい増加が見られたのは平成9年(1000人)から平成12年(1650人)の時期である。

勿論この急激な増加には一時離脱していた信者が戻ってきたという部分もあるだろうが、事件の興奮未ださめやらぬ中(メディアによって喧伝された)オウムの教義に理解を示した者、或いは反社会的闘争(逃走)の象徴としてのオウムに共感を抱いた者、或いは…まあとにかく未だオウムが強烈にその存在感を発揮していた時期に(正にそれ故に)入信した人間も数多含まれていたであろうことは想像に難くない。1650人という数字がその後20年近く変化していないことを考えればなおさらである。

付言すると、公調はもう少し考えてから報告書を書いた方が良い。もし本当に何も知らない人が公正中立の立場であの報告書を読めばオウムの余類に同情する人も多いだろう。それこそ教団側から不当な弾圧の証拠として勧誘材料に使われかねない。「オウムを知らない若者」という奇説を本当に信じているならば、情ではなく理を尽くすべきである。

報告書の数字はどのようにカウントされているのか

そもそも報告書の数値は公調が調べた結果ではなく教団が報告した数字である。したがって「オウムに騙される若者が増えた」と信じている人は正にオウムに騙されているわけである。と、思っていたのだが、うーん…これが良く分からない*3。まずは平成13年版報告書の信者数を引用すると「構成員は出家信徒554人、在家信徒597人の計1,151人(平成12年11月15日現在)」だそうである。一方で平成21年版報告書のグラフによると平成12年1月の観察処分決定時の信者数は1650人である。まあ、なんか、よく分からないけど、時期も少しズレているし何かあるんだろうと勝手に思っていたが、これについて当のオウム側(Aleph)が言及していた。以下引用する。

公安審査委員会のこの決定を受けて、その後公安調査庁は、構成員数を一気に数千人分切り下げざるを得なくなくなりました。

したがって、破防法棄却の時点(97年1月)では、対象団体の構成員をあくまでも「オウム真理教に所属する出家及び在家信徒」に限定することによって、対象となる「団体」とオウム真理教との間に等身大の関係(=不即不離)が一応成立していたと見ることができます。

しかし、公安審査委員会は、その後制定された団体規制法による観察処分の原決定(00年1月)において、公安調査庁が具体的な根拠を示すことなく主張する「構成員約1650人」という数字をそのまま追認する決定を行ないました。一方、当時、実際にAlephに所属していた会員数は、これよりも500人少ない1146人でした。

拡張される団体規制 ~「構成員不詳」「主宰者不在」の架空団体への観察処分[1-(2)]


公安調査庁が発表する「本団体」の構成員の数は、常に、わたしたちが把握し報告している人数と懸け離れたものでした。今回の請求でも、わたしたちAlephが報告している会員数と、ひかりの輪が報告している会員数を足し合わせても、国内で467人、ロシアで172人の隔たりがあり、公安調査庁が発表する数字には遠く及ばないのです。この差は一体何なのでしょうか。

これについては長年、疑問に思ってきましたが、今回の請求で、驚くべきことが明らかになりました。公安調査庁の証拠(証1-5)において、公安調査庁がいう「構成員」がどのように扱われているのかが明記されていたのです。すなわち、

公安調査庁が把握している構成員の名簿については、これが本団体側に渡った場合、公安調査庁の構成員認定基準や調査能力等が本団体側の知るところとなり、今後の調査に重大な支障を生じるおそれがあるので、本調査書には、構成員名簿を添付しない。」

というものです。これによって、「本団体」側や公安審査委員会にすら明かされない、公安調査庁が独自に認定し、作成している「構成員名簿」の存在が判明したのです。

しかし、「構成員」である以上、当然、観察処分を受けている「本団体」側に報告義務があるわけですから、「本団体」側の構成員報告に漏れがあれば、公安調査庁は「本団体」側に対して、欠けている構成員名や「構成員認定基準」などを示し、正確に報告するよう指導をしなければならないはずです。にもかかわらず、「本団体」側に対してその名簿や認定基準を知られまいとするというのは、本末転倒した話です。この法律が全く想定していなかった事態が生じているのです。

2009年1月13日口頭意見陳述

ダメだ。分からない。公調の言い分を信じるならば毎年100人以上、累計で1000人以上増えているはずの信者がどこかに消えていることになるし(上述の通り短期脱会だろう。そもそも入会しているかどうかも怪しい)、オウム側の言い分を信じるならば公調の発表する数字は全く信憑性が無く実態はその3分の1程度ということになる。「危険団体の信者数」という極めて重大な部分で齟齬が生じているのだが、これを指摘している人が誰もいないのは一体どういうわけなのか。

 

追記

オウム真理教及びその後継団体の新規信者数について - 「趣味は若者論です」

あなたが引用している公安の報告書を素直に読むと「入信者と脱退者が拮抗しているため信者数は横ばい」となるのですが。数字の信頼性はともかく、アレフに引っかかる若者が存在する証拠の1つにはなるのでは?

2021/03/23 20:40

ご指摘ありがとうございます。もちろんその可能性もあるのですが、記事にも書いた通り、新規信徒100人前後の変動に対して毎年1650人で変わらないのは不合理であると私は判断しました(毎年入信者の数と同数の脱退者が生じると考えるよりも、そもそも定着する信徒が殆どいないと考えた方が合理的だという判断です)。

20年間で脱退者が0人というのも不合理なので、報告書の数字を信用するならば、仰る通りある程度の入れ替わりはあると思います。信者の年齢構成比は平成22年版報告書以外には記述されていないため、残念ながら詳しいことは分かりません。公調がもう少し詳細な報告書を出してくれると良いのですが…

 

*1:H19~H23の期間は一時的に1500人となっているが(H24の数値は不明)、これが教団の実態を示しているかは不明である。たとえば、報告書では平成22年版(H21の状況)から若年信者の増加が記述されているが、実際に総信者数が増加したのはH24かH25のいずれかである。ここでもやはり新規信者数と総信者数の間に食い違いが生じている。

*2:騙される馬鹿が悪いのであって別に公調は隠しているわけではない。

*3:報告書の記述によれば、少なくとも新規信徒数については教団側が提出している。

ゆとり教育とは何だったのか―俗説に対する批判的検討 1. ゆとり教育で学習時間は減少したのか

5年ほど前に書いた私的な論文を大幅に削除・修正したものです。供養としてここに置いておきます。あと4章分残ってます。

1.1 「土曜日の授業」とは何を意味しているのか

ゆとり教育*1に対する第一の誤解は「学習時間の大幅な減少」だろう。98年に改訂され,2002年から実施に移されたゆとり教育は,その目玉の一つとして「完全週五日制の導入による『ゆとり』の創出」を掲げていた。学校で行う学習を削減する代わりに,子供自身が自ら学ぶための時間を確保しようというのがその目的である。こうして土曜日の授業が削減される形で,ゆとり教育の授業時間は大幅に削減されたと考えられている。しかし,ここでいう「土曜日の授業」とは一般に思われているような3ないし4時間*2の授業ではない。

週五日制ゆとり教育が始まる前から議論され,段階的に実施されてきた。平成4年9月から第二土曜日が休校日となり,平成7年4月からは第二土曜日に加えて,第四土曜日が休校日となる隔週五日制が実施されている。ゆとり教育で削減された「土曜授業」というのは,この隔週五日制における土曜授業のことを指している。たとえば,平成9年に出された教育課程審議会の中間まとめでは,週五日制に伴う授業時数の削減について「年間授業時数は完全学校週五日制が実施されることに伴う土曜日分を縮減した時数とし,現行より週当たり2単位時間削減とする」(初等中等教育局 1997)としている。

学習指導要領に定められている年間の標準授業週数は35週であるため,週当たり2時間の削減は年間で70時間の削減となる。たとえば,89年改訂と98年改訂の小学5年生の授業時数を比較すると表1.1のようになる。ここでは以降の説明のため小学5年生の例を挙げているが,年間70時間が削減されているのは小学校・中学校の各学年で同じである。ただし,各教科時数の内訳は同じではない。

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1.2 クラブ活動の削減

したがって,年間70時間がゆとり教育で削減された授業時数ということになる。この内35時間が通常の教科学習*3の削減であり、35時間がクラブ活動の削減である。小学校の学習指導要領では引き続きクラブ活動を実施することが求められているが、これは35週で計算される教育課程編成計画と、実際の授業週数である40週の差分の時間において実施されている。ただし,宮川(2003)によれば,クラブ活動の時間が教科学習の補填に使われた事例もあったという。

 平成十年版(筆者注:ゆとり教育)では学級活動の授業時数のみの示し方になっているので,クラブ活動は特に,これまでのような時数を確保する必要はなくなったという理解の学校がある。(中略)さらにこのところ,驚くような事例が出現している。学力向上への積極的な取り組みの工夫として,いわゆる「補習」の時間を設定するため,クラブ活動の授業時数を半減させているというのである。これは本末転倒現象である(宮川 2003 p.105)

文科省(旧文部省)の『公立小・中学校における教育課程の編成・実施状況調査の結果について』ではクラブ活動の実施率が示されているが,平成6年度は25時間以下の学校が1割を切っているのに対し,平成15年度では20時間以下の学校が8割を超えているため,宮川の指摘する状況は一般的なものであったと思われる。付言すると,その他学習指導要領に時数の規定の無い特別活動(児童会・生徒会活動・学校行事等)の授業実績も大幅に減少しており,教科学習の時数を確保するために特別活動の時間が削られていた実態が窺える。

1.3 主要教科は「二重に」削減されたのか

1.3.1 授業時数の変遷

前節までは,ゆとり教育における授業時数の削減が週当たり2時間であったこと,及び教科学習という枠の中では週1時間程度の削減であることを説明した。それでは,その枠の中身はどうなっているのか。「完全週五日制」に並ぶ,ゆとり教育のもう一つの目玉は「総合的な学習の時間(以下,単に「総合」と呼ぶ)」の新設である。小学校では第3学年から週当たり3時間,中学校では各学年で週当たり2時間を最低限の時数としている。この総合の新設により,主要教科の時数は二重に削減されているのではないか,という主張がある。本節では,この「二重削減説」を検討する*4

まずは,各教科の授業時数の変遷を確認しておこう。表1.2, 1.3には68・69 年改訂から98年改訂までの各教科の授業時数をのせてある(表1.2の社会は生活科の時間を含める)。小学校では,総授業時数が5785 時間から5367 時間へ418 時間削減されている。各学年約70 時間の削減である。削減率は7.2% となる。中学校では,総授業時数が3150 時間から2940 時間へ210 時間削減されている。こちらも各学年70 時間の削減である。削減率は6.7% となる。

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それでは主要教科の時数はどうなっているだろうか。小学校では,国語・社会・算数・理科の主要4教科は3659時間から3148時間へ511時間削減されている。削減率は14.0% である。中学校では,国語・社会・数学・理科・外国語の主要5 教科は1890時間から1565時間へ225時間削減されている。削減率は17.2% である。ここで,中学校の授業時数について補足しておこう。89年改訂で一部の教科に幅があるのは,この改訂で教科時数の弾力的な運用が可能になったためだ。そのため,削減率の計算には98年改訂と77年改訂の数字を用いた。また,「外国語」の授業時数が98年改訂しか示されていないのは,89改訂以前の外国語は必修教科ではなく選択教科の枠の中で運用されていたためである。

小学校・中学校ともに総授業時数が削減される割合以上に主要教科の時数が削減されている。その理由は,小学校では「総合的な学習の時間」,中学校ではそれに加えて「選択教科」という教科が存在していることによる。小学校で「総合」に配当されている時間は,第3学年・第4学年で105時間,第5・第6学年で110時間,計430時間である。中学校では,各学年70時間を最低時数として,第1学年で100時間,第2学年で105時間,第3学年で130時間の「総合」が実施可能となっている。総合の時数は3学年合計で210~335時間になる。加えて,中学校では「選択教科」に155~280時間の時数が配当されている。これらの時数が主要教科の時数を圧迫しているのである。

1.3.2 総合的な学習の時間とはなにか

まずは,総合がどのような教科であるのかを簡単に確認しておこう。98 年改訂の小学校学習指導要領総則では総合の取扱いについて,次のように説明している。見てわかるように,総合は,教科の趣旨,ねらい,学習活動および実施に当たっての配慮事項しか定めておらず,他の教科のように指導の目標,内容が具体的に明示されていない。

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総合のねらいは「自ら課題を見付け,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,よりよく問題を解決する資質や能力を育てること」「学び方やものの考え方を身に付け,問題の解決や探究活動に主体的,創造的に取り組む態度を育て,自己の生き方を考えることができるようにすること」とされており,これはほとんど「ゆとり教育」の目的そのものである。

しかし,そのねらいを達成するための実践は,地域や学校,児童の実態を踏まえて各学校が創意工夫するものとされており,具体的な学習内容は示されていない。これは「総合」の目的が子どもの「生きる力」を育むことにあり,したがってその学習活動は必然的に子どもの生活の場,地域と密接に関連するため,全国一律の学習活動を提示することは望ましくなく,かつ困難なものであるという理由による(児島 1999)

伝統的な教科学習が系統的にその学習内容を明示していたのに対し,総合は上記のように抽象的・あいまいな学習活動となっている。そのため,総合は「ゆとり教育の象徴」「学力低下の原因」と見なされることも多い(岡本・佐藤 2014)。何をやっているのかわからないものは時として何もやっていないものと見なされる。しかし,当然のことながら何もやっていないということは有りえない。総合は教科学習と全く無関係な時間でもないし,また無駄な時間でもない。

1.3.3 英語活動の例

たとえば,総合によって小学校で英語活動が導入されたのはわかりやすい例だろう。英語が小学校で必修教科となったのは,平成20年改訂(平成23年から実施)であるが,実際には平成10年改訂の時点で既に導入されている。上に示した総合の取り扱いは,指導の内容を具体的に示しているわけではないが,3においていくつかのテーマは提示している。その中の一つに「国際理解」がある。また,学習活動の配慮事項(3)では国際理解に関する学習の一環として,「外国語会話等」とある程度具体的な学習内容が提示されている。来たる必修化のための小学校英語の段階的導入という側面も総合は持っていたのである。

そのため,文科省は平成14年度から,小学校における英語活動の実態を調査するために『小学校英語活動実施状況調査』を実施している。表1.4は平成15年度に行われた英語活動の,教科ごとの年間平均実施時数である。参考として平成14年度の数値も載せてある。ただし,こちらは総合のみの時数である。表1.4のとおり,総合による英語活動はゆとり教育の当初から高い実施率で年間10時間ほどが実施されている。総合だけで計算すると小学校で40時間ほどの英語活動を行っていたことになる。総合による英語活動は平成15年度以降も微増を続け,平成19年度の時点では各学年9割以上,年間50時間近い英語学習が実施されている(文部科学省 2008a)。

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もちろん,総合との関連が図られている教科は英語だけではない。そもそも,総合は「クロスカリキュラム」とも呼ばれるように,もとより教科横断的な学習を志向している。「総合」という言葉には「各教科等それぞれで身に付けられた知識や技能などが相互に関連付けられ,深められ児童生徒の中で総合的に働くようになる」(教育課程審議会 1998)という意味がある。総合は教科学習から遊離した学習活動なのではなく,かえって教科学習の中核を占めているのである(少なくとも理念上は)。

たとえば,「国際理解」というテーマならば英語,国語,社会といった教科学習と結びつけられることが多く,「環境」というテーマならば理科や算数と結びつけられることが多い。「健康」や「福祉」といったテーマであれば家庭科や道徳と結びつけられる,といった具合である。もちろん,総合の指導内容や指導方法は各学校の創意工夫にゆだねられているため,一律にその内容を説明することはできない。総合の実践例を知りたい場合は,各社が発行している指導計画例や文科省が公開している指導資料などを見ることができる。

ところで,総合に対する批判は集約すれば次の2点であろうと思われる。第一に,各教科を総合的・横断的に学習すると言っても,そのためにはまずもって各教科についての基礎・基本的な学習が必要不可欠である。基礎を疎かにしたまま応用的な学習をしても上滑りに終わるだけである。第二に,総合はその教科としての曖昧さゆえに必然教師側の負担が増えるため,その運用が困難なものとなってしまう。負担をものともせず総合の趣旨に則った授業計画・指導実践を行えた教師がどれほどいたのだろうか。

1.3.4 PISAから見る日本の学力

第一の点について,本来は具体的な授業実践との関連における個別的な検討が必要となるが,上述したように全国一律の学習内容が提示されていない総合の性質上それは難しい。代わって,PISA・TIMSSなどの大規模国際学力調査では,日本の児童・生徒の学力は常にトップレベルであることが示されている(PISAの結果まとめTIMSSの結果まとめ)。特に,PISAの報告書では,日本の平均学力の高さと集団内格差の小ささから,その原因を学校教育の変革に求めている。

日本はPISA2012において,全ての領域(数学的リテラシー,読解力,科学的リテラシー)で,トップないしはそれに近い成績を収めた。問題解決能力においても例外ではない。しかし,より重要なのは,問題解決能力の領域で平均552点の結果を残した日本の生徒は,数学的リテラシー・読解力・科学的リテラシーという他の主要領域で日本と同程度の成績を収めた他の国々の生徒よりも高い成績を収めていたことだ。特に,下位・中位の生徒においてその傾向が顕著であった。(中略)

この日本の好成績については一つの説明が考えられる。日本はこの時期に教科学習,或いは総合的な学習の中で,生徒主体のクロスカリキュラムを実践することを進めており,それによって全ての生徒の問題解決能力を開発することに注力していたのである。

1990年代の後半,日本政府は学習指導要領の変更を通じて,「生きる力」という学習アプローチを導入した。このアプローチの目的は,生徒の批判的・創造的思考を強化すること,また,生徒自らが問題を発見し解決する能力を涵養することにあった。こうした教育改革は,従来の教育を,探求型・児童(生徒)中心型の学習へと大きく変更させることになった。児童(生徒)が意欲的に学習に関与することの必要性が,その核心だったのである。(中略)

こうした教育改革は,いくつかの論争を巻き起こした。「総合的な学習の時間」はそれを実施するための大きな裁量が教師・学校に与えられたものの,全ての教師―特に中学校において―が,「総合的な学習の時間」の準備ついて,十分な手応えを持っていたわけではなかったのである。結果的に,総合の是非を巡る議論は,2011年・2012年に実施された学習指導要領の変更につながることになる。新しい学習指導要領において「総合的な学習の時間」は削減され,代わりに従来の教科学習を教えることが歓迎されたのである。

それでもなお,「生きる力」という学習理念は新しい学習指導要領にも引き継がれている。新しい学習指導要領でも,全ての教科において,観察や実験を通して既得の知識を応用する学習活動を増やしていくことが,学校側に求められている。学習の関連性を高めていくために,カリキュラムや指導法の改善を図っていく日本の不断の努力は,単にPISA における高得点をもたらしただけではない。それだけではなく,日本の生徒の学校に対する帰属意識や学習に対する態度についても,PISA2003とPISA2012の間で目立った改善を見せている(PISA 2012 Results Volume V pp.124-125 引用者訳括弧内は引用者注)。

PISAの報告書でも指摘されているように,ゆとり教育の提唱する学力観と,PISAで測定される学力には重なる部分が多い。たとえば,OECDが2003年に発表し,PISA調査の基本的枠組みにもなった「キー・コンピテンシー」という能力は,90年代の日本において「新しい学力観」の名で先取りされている。この新学力観はその後のゆとり教育(98年改訂)においてはより強調された形で引き継がれており,その後一般に「脱ゆとり」と認識される2008年改訂においても通底する方針となっている。つまり,ゆとり教育は当初から「PISA型学力」を目指していたのであり,その意味で報告書の指摘は無難なものである。

1.3.5 現場にはどう受容されたのか

第二の点について,川村光(2011)は,2県の全公立小・中学校と,そこに勤務している教師を対象とした二度にわたる「総合的な学習の時間」に関する質問紙調査を実施し,その結果を比較することで「総合的な学習の時間」の実施状況とそのインパクトを検討している。川村は2004年に第1回の学校調査を,2005年に第1回の教員調査を行っている。これらの質問紙調査の結果を,2009年に行った第2回学校・教員調査の結果と比較することで,総合が学校組織の中でどのような体制で行われていたのか,また,個々の教師が総合に対してどのような意識を持っていたのかを明らかにしているのである。

PISAの報告書でも指摘されていたとおり,当初,総合の実施に難色を示していたのは主に中学校の教員であった。川村の調査でもそのことが裏付けられている。表1.5は,2004年に実施した学校調査と,2009年に実施した学校調査の結果から小学校・中学校の教員集団の総合に対する意識の変化をまとめたものである。

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小学校では,当初から総合をおおむね好意的に捉えている。一方,中学校教員の総合に対する期待は芳しいものではない。たとえば,その学習効果の不安については,小学校で3割程度にとどまる一方,中学校の教員では約5割に上っている。また,小学校では約3分の2の教員が「喜々として取り組んでいる」一方,中学校では半数にも達していない。中学校では学習内容が高度化することもあり,総合の「教科クロス学習」という性質上,その指導計画を作成することが困難だったのかもしれない。

しかし,5年後の2009年調査では中学校教員集団の総合に対する意識は大幅に改善し,学習効果に対する不安は23.8%にまで半減している。総合に対する理解と熱意も向上しており,総合の趣旨を理解しているかを問う設問では,小学校教員を上回る90.0%,「喜々として取り組んでいる」教員も15ポイント以上増加している。また,2005年に行われた教員調査と2009年の教員調査の結果の間にも同様の傾向が見られる(表1.6)。

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総合に対する中学校教員の認識がポジティブなものへと変化していった原因は,川村の指摘するとおり,中学校における総合の授業がパターン化された授業実践として定着したことが大きいのだろう。当初は総合の実践に戸惑っていた中学校教員も,授業実践が蓄積するにつれ,その学習効果を実感するようになっており,総合に対して前向きな姿勢を見せるようになっている。これは当初より予想されていたことでもある。たとえば,児島邦宏は『小学校「総合的な学習の時間」の年間指導計画』の中で,次のように述べている。

無からの出発であるだけに,まず,一つ一つの単元づくりから出発し,その先に計画表が次第に埋められ,全体の年間指導計画の作成へとたどりつくこととなる。おそらく数年,もしかしたら,10 年ぐらいかかるかもしれない。子どもからの,子どものための総合的学習であるだけに,着実な,価値のある活動を,息長く積み上げていくことこそ重要であろう(児島編1999 p.1)。

この言葉のとおり,総合は数年をかけて学校組織内に定着し,一つの学習活動としての地位を獲得したのである。それでは,総合は実験的教育だったのかという人もいるかもしれないが,そもそも「教育の万能通貨」なるものは存在しない。3章で詳述するように,70年代の「詰込み教育」もゆとり教育と同様にその実施直後から失敗の烙印を押され,その後「詰込み教育の反省」として,教科学習の大幅な削減と引き換えに導入された80年代の「ゆとりの時間」は碌な実践報告も無いまま98年改訂の際に消滅した。

どこかに「普通の教育」というものがあり,自分こそはその普通の教育を受けたと考えている人もいるかもしれないが,その人が受けた教育も結局は過渡的なものである。新しい実践が,最初から何の問題もなく遂行されるはずもない。また,総合がより効果的な学習活動へ変化していることと,実践当初の総合が有用な学習活動であったことは矛盾するわけではない。

1.3.2 選択教科とはなにか

主要教科の時数が圧迫されていた原因は二つあった。一つが「総合的な学習の時間」であり,もう一つが「選択教科」である。そこで,次は選択教科について説明しよう。選択教科と聞くと音楽や美術,或いは習字といった活動を思い浮かべるかもしれないが,ゆとり教育における選択教科はそれまでのものとは大きく異なっている。ゆとり教育における選択教科とは,週五日制や総合的な学習の時間と並んで,ゆとり教育を代表する制度なのである。

初めて学習指導要領が公布されたのは1947年のことであるが,選択教科は「選択科目」という名前でこの指導要領に登場している。その内容は「習字,外国語,職業および自由研究」である。選択教科は何度かその内容に追加・削除があったものの,外国語と職業教育が選択教科の柱になっているのは51年改訂,58年改訂,69年改訂においても同様である。すなわち「全ての生徒に必要だとは思われないが,特定の生徒に必要とされる教科」というのがいわば"伝統的"な選択教科である。

しかし,「ゆとりと充実」の学校教育を目指した77年改訂以降,選択教科の性格も変化していく。77年改訂では生徒の特性や興味・関心に応じた教育を実現するため「音楽」「美術」「保健体育」「技術・家庭」が選択教科に追加され,つづく89年改訂でも臨時教育審議会(臨教審)で示された「個性重視の原則」を実現するために,選択教科の弾力化と時数の増加が図られている。

ただし,89年改訂までの選択教科は,その拡大と弾力化が目指されながら,運用実態はそれ以前と比較してそれほど変わってはいない。77年改訂では「ゆとりと充実」を実現するために,第3学年で音楽や美術の教科が選択することが可能になったものの,選択教科の時数はほとんど変化しなかった。また,89年改訂では選択教科の枠が大幅に拡大されたものの,選択教科を従来以上に実施するためには他の教科や特別活動の時数を削る必要があったため、ほとんど実施されなかったのである。

1.3.3 ゆとり教育における選択教科

その状況が大きく変化したのがゆとり教育以降である。98年改訂学習指導要領では,選択教科について三つの大きな変化があった。一つ目は,それまで選択教科であった「外国語」が必修教科になったことだ。それまでの選択教科は週3ないし4時間,年間で105~140時間が外国語の時数に使われていた。つまりゆとり教育以後の選択教科は,すべての時数を外国語以外の選択教科に使うことができる。実際にゆとり教育における選択教科の時数を確認しよう。第1学年では0~30時間,第2学年では50~85時間,第3学年では105~165時間である。合計すると155~280時間になる。このすべての時数が外国語を除いた選択教科として使われるのである。

二つ目の変化は選択教科が実効的な教科になったことだ。89年改訂では選択教科の枠が拡大しても,他教科と競合するため実際に使われることはなかった。しかしゆとり教育では,選択教科と競合するのは総合的な学習の時間である。表1.3を見てわかる通り,波線がある教科は選択教科と総合の二つだけである。仮に,総合の時間を上限一杯に設定したとしても,選択教科の時数として155時間残されているのである。逆に,総合の時数を下限に設定した場合には,選択教科の時数として280時間を使うことができる。

三つめの変化は,選択教科が,必修教科の弾力化のための教科という性格をもったことだ。89年改訂では,各学年における選択教科はその内容が限定されていた。第1学年では外国語のみが選択教科として設置可能であり,第2 学年は音楽・美術・保健体育・技術家庭・外国語が設置可能となる。全教科の選択教科を履修することが可能となるのは第3学年のみである。それが98年改訂では,全学年において,全ての教科を選択教科として設置することが可能となった。

また,選択教科の内容にも変更が加えられている。89 年改訂では,選択教科の内容として,「課題学習,作業,実験,調査などの学習活動を学校において適切に工夫」するものとされていたのが,98 年改訂では,「課題学習,作業,実験,調査,補充的な学習,発展的な学習などの学習活動を学校において適切に工夫」するものとされている。「補充的な学習」と「発展的な学習」という内容がここで追加されている。つまり,ゆとり教育における選択教科は,いわゆる「個に応じた指導」を実現するものとして導入されたものであり,したがって,ゆとり教育における教科学習は必修教科単体で完結するようには設計されていないのである。

それでは,実際に選択教科の時間は,どれだけ主要教科の時間として使われたのだろうか。中教審が平成19年に出した指導要領改訂の「審議のまとめ(中間報告)」(文科省2007)では,平成18年度時点の選択教科は3 学年平均で225時間が実施されており,そのうち,国語・英語・社会・数学・理科の主要教科に充てられた時間は144時間となっている。中でも「補充的な学習」の割合が高かったとされている。つまり,各教科あたり30時間程度は,選択教科として主要教科の授業が行われていたのである。

そこでもう一度主要教科の時数を比較してみよう。中学校では総授業時数が6.7%の削減であるのに対し,主要5教科は1890時間から1565時間へと17.2%も減少していた。指導要領の時数表を見ただけではこの原因はわからない。多くの人は総合の時間が主要教科を圧迫していると思うかもしれない。確かに,総合的の時間を上限一杯に実施すると3 学年合計で335時間となり,主要教科の325時間の減少を説明できるように思える。

しかし,これは単なる錯覚である。仮に総合が上限一杯に実施されたとしても,選択教科の時数として155時間が残されているし,そもそも総合は上限一杯に実施されるわけではない。選択教科は3学年合計で225時間,主要5教科だけで144時間実施されているのである。つまり,実際の主要5教科の時数は1565+144=1709時間である。したがって主要5教科の削減率は9.5 %となる。選択教科を考慮しなければ主要教科が2割弱も削減されているように見えるが,実際には1割程度しか削減されていなかったのである。

平成20 年改訂の際には,多くのメディアで授業時数の増加が強調されていた。しかし,それらの報道の中で選択教科について言及したものは,筆者の知る限りほとんど存在しない。ささいなことであると思われるかもしれないが,平成20年改訂で選択教科は「廃止」されているのである。つまり,平成20年改訂で増加した授業時数は,単純に授業時数が増やされただけでなく,選択教科を廃止したことによる指導要領上の授業時数増加も含まれている。総合を「まともな学習」と認めるかどうかは判断の問題だが,選択教科の時間を無視しているのは単なる勉強不足だろう。

1.4 教育課程外の活動―朝の読書

ここまでは,あくまで教育課程の枠組みの中で,ゆとり教育における授業時数を検討してきた。しかし,本章で検討しているのはゆとり世代の学習時間であって,ゆとり教育の授業時数ではない。学校や教員が生徒に課す学習活動は授業以外にも様々な形態がある。本節はその一つである「朝読書」を取り上げよう。ここで朝読書を取り上げるのは二つの理由がある。一つは,朝読書はその実施形態が明確であり,いくつかの調査によりその実施率が計算されているため,実態を把握しやすい。もう一つの理由は朝読書が全国に普及していった時期と「ゆとり教育」の時期が重なっているためである。朝の読書活動の概要は次のとおりである。

朝の読書とは,小・中・高等学校で,朝の授業開始前に10分間程度,教師と生徒全員が自分の読みたい本を読む読書活動で,本を読むことによって,児童・生徒に読む力と生きる力を与えることをめざしている。10分間行う学校が多いことから,朝の10分間読書とも呼ばれる(薬袋 2014 p.61)。

朝の読書は船橋学園女子高校教員であった林公・大塚笑子によって1988年から開始されたが(同上),全国的な広がりを見せ始めたのは90 年代後半のことである。1996年には実践校が100校であったのが1997年には200校に,その後1998年に300校,1999年には900校と増加を続け,2002年の時点では1000 校を超えている*5(白根 2011)。

2000年代に朝読書実践校が急激に増えたことと,ゆとり教育は無関係ではないだろう。ゆとり教育はその実施前から,学力低下不安による批判に晒されていた。そのため,文科省ゆとり教育の実施に先立つ2002年1 月に『確かな学力向上の2002アピール 「学びのすすめ」』という文書を公表している。同文書では,ゆとり教育の趣旨をいっそう明確にするとともに,その実施にあたっての具体的な方策がいくつか提示されている。その中には,「学びの機会を充実し,学ぶ習慣を身に付ける」ための取り組みとして教育課程外の学習が重視されており,その一つとして「朝の読書」が推奨されている。

ベネッセが行っている「学習指導基本調査」でも,この時期に教育課程外の学習が増加していることが確認できる。学習指導基本調査は,小学校・中学校における学習指導についての意識と実態をとらえるために1997年から行われており,第3回調査となる2002年調査では,特にゆとり教育の影響をたずねる質問が多くなっている。その中に,「朝読書など教育課程外の学習活動」を行っているかどうかを尋ねた設問があり,小学校で83.3%,中学校で70.1% が「やっている」と回答している。実施時期についての内訳は,小学校で「以前からやっている」が62.1%,「今年度からやっている」が21.2%,中学校では「以前からやっている」が50.4%,「今年度からやっている」が19.7% である。

朝の読書運動はその後も普及を続け,2011年の時点で,小・中学校ともに実施率は75% を超える(白根2011)。このことは,小・中学生の読書活動にも直接的な影響を与えていると考えられる。以下の図は,全国学図書館協議会毎日新聞が共同で行っている「学校読書調査」の結果である。

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図1.1,図1.2はそれぞれ,1 か月間の平均読書冊数,不読者率の推移である。どちらも,2000 年代前半を境に小中学生が読書活動に向かう傾向が鮮明になっている。特に,小学生の平均読書冊数の増加,中学生の不読率の減少が顕著である。

それでは,朝の読書の学習効果はどれほどあるのだろうか。読書活動は教育課程外の学習活動といっても,「国語」と密接に結び付いた活動であることは予想できる。山崎博敏(2008)は独自に作成した国語・算数(数学)の問題を用いて,小・中学校における学力と朝読書の関係を調査している。それによれば朝読書は,小学校において国語・算数に有意な正の影響(p<.001),中学校においては国語に有意な正の影響(p<.01)を与えるという。ただし,この調査で使われた問題は,小学校で国語3問・算数2問,中学校では国語2問・数学2問となっており(各教科とも制限時間は10分),問題数が極めて限定されているのに加えて,問題内容も公開されていない。結果の妥当性には留保をつけておくべきだろう。

1.5 教育課程外の活動―宿題・家庭学習の増加

1.5.1 宿題の増加

朝の読書運動は,確かに2000年代に入り急速に普及した様子がうかがえる。また,学力にポジティブな影響を与えることも示唆されている。しかし,朝の読書は直接的に教科的学力を向上させるわけではない。読書することによって一般的な読解力が向上し,学力に正の効果を与えることは有り得るが,数学や理科などの教科的知識を自由な読書活動から得ることは難しいだろう。或いは,児童・生徒が選択する本によって,そこから得られる知識にはバラつきがあるはずだ。そこで,本節では朝の読書よりも密接に教科学習に結びついていると思われる「宿題」という学習活動から,ゆとり世代の学習時間を検討してみよう。

「学校の勉強」は授業だけで成り立っているわけではない。授業を受けているだけで一流大学へ入ってしまうような人間もいないわけではないが,大抵の人は,授業の中身を全て理解しているわけでもなければ,全て覚えているわけでもない。授業を受けるだけならチンパンジーでもできる。そのため,授業の内容を理解する,或いは覚えておくために,授業とは別の学習活動として予習・復習が課されることが一般的である。それが宿題だ。

「学びのすすめ」にも,朝読書などと並んで「適切な宿題や課題など家庭における学習の充実を図ることにより,子どもたちが学ぶ習慣を身に付ける」ことが推奨されている。この「学ぶ習慣」というのはゆとり教育の大目的の一つでもあり,また実際にその目的は達成されていた。つまり,ゆとり教育では授業時数の減少を補うかのように宿題の量・頻度が増加し,それに伴い,家庭での学習時間も大幅に伸びているのである。まずは,ゆとり教育において教師がどれほどの宿題を課していたのかを確認しよう。

1.5.2 宿題の頻度

まずは宿題の頻度からだ。利用するのはベネッセ教育研究所が1997年から実施している『学習指導基本調査』のデータである。この調査は小学校,中学校,高校における学習指導の実態,教員の意識を調査することを目的として,全国の教員を対象に実施されている。また,経年比較を可能にするために,質問紙の内容には同一のものが使われている*6

学習指導基本調査では,第1 回調査となる97・98年調査から,宿題を出す頻度を小・中学校の教員に尋ねている。その結果を図1.3,図1.4に示した。ただし,小学校と違い中学校では教科担任制となるため,課業回数は授業の回数ごとになっている。

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小学校では「毎日出す」と答えた教師は98年調査では84.8%,逆に「ほとんど出さない」は3.1%となっている。02年調査ではそれぞれ,85.8%,2.7%である。98年調査から02年調査ではあまり変化がないが,07年調査ではそれぞれ94.0%,1.0%となり98年調査と比較して「毎日出す」が10ポイントほど増加している。

しかし,02年調査以後は授業日数が減少しているため,それに伴い宿題の量も減少しているはずである。そこで,週当たりの授業日数を考慮した宿題の回数も計算しておこう。98 年調査では月二回の週五日制のため一週5.5日,02・07年調査では一週5日である。ただし,週五日制では金曜日に休日二日分の宿題が出されると考えられるため,「毎日出す」と答えた教師の課業回数は一週間で7回とした。

98年調査では7×0.848+5.5÷2.5×0.099+1×0.017+0.25×0.001≒6.2回
02年調査では7×0.858+5÷2.5×0.081+1×0.026+0.25×0.004≒6.2回
07年調査では7×0.940+5÷2.5×0.022+1×0.006≒6.6回

次に中学校を見てみよう。中学校では宿題を出すのは各教科の担当教師である。そのため日数ごとの課業回数ではなく授業時数ごとの課業回数となっている。したがって平均課業回数を計算するには一週当たりの授業時数を考慮する必要がある。97年時点では隔週五日制のため週当たり28.5時間程度の授業,02・07年時点では週当たり28時間の授業が行われていると考えられるが,ここでは,ゆとり教育の前後で宿題の頻度が大きく変化したことを確認するため,97年の週当たり授業時数は30時間,02・07年時点の週当たり授業時数は1.4節の結果*7に従い27時間とした。

97年調査では30×(0.155+0.251÷2.5+0.220÷4.5+0.106÷16)≒9.3回
02年調査では27×(0.184+0.350÷2.5+0.197÷4.5+0.121÷12)≒10.2回
07年調査では27×(0.256+0.289÷2.5+0.178÷4.5+0.100÷12)≒11.3回

授業時数が1割減少していると仮定しても,中学校での宿題の頻度は増加している。もちろん実際には週27ないし30時間のすべてで宿題が出されるというわけではない。体育や道徳の時間で宿題が課されることはほとんどないだろう。そのため上記の計算は正確な宿題の回数ではない。それでも,ゆとり教育の実施にともない宿題の回数が増加している傾向は確認できる。また,宿題の増加傾向は中学校で顕著になっているが,97年調査と07年調査では,「授業のたびに出す」と「全く出さない」がそれぞれ10ポイントほど増減しており一部の学校・教師が平均を引き上げているわけではないことも確認できる。

1.5.3 宿題の量

宿題の頻度が増加していることはわかった。それでは宿題の1回当たりの量はどうだろうか。学習指導基本調査では一回の宿題にかかる時間も集計されている。大まかな傾向は宿題の頻度と同じである。小学校では,98年調査の宿題一回あたりの平均時間は27.2分となっている。02年調査ではほとんど変わらずに27.5分である。しかし,07年調査では30分を超え34.2分となっている(前掲p.93)。宿題の回数をかけると,98年では一週間で169分,02年では171分,07年では226分となる。つまり,98年と07年を比較すると,57分,週1時間(コマ)以上の差が存在することになる。

また,中学校では97年調査の宿題1回当たりの平均時間が29.0分,02年調査,07年調査ではほとんど変わらず,それぞれ30.3分,31.3分となっている(前掲p.95)。宿題の回数をかけると,97年調査では270分,02年調査では309分,07年調査では354分となる。97年調査と07年調査の数値を比較すると,84分,週1.7時間(コマ)に相当する差が存在することになる。ただし,先ほど述べたように,全ての教科で宿題が出されるわけではないので,この差は過大に評価されている。また,宿題にかかる時間は実際の時間ではなく,あくまで教師の推量であることには注意されたい。表1.7には小学校と中学校の宿題の頻度と量,その合計を示した。

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1.5.4 ベネッセ調査の問題点

以上の結果から,ゆとり教育では宿題の増加,或いは家庭学習の指導*8により児童・生徒の学習時間をコントロールしていたことがわかる。一部の論者が主張しているような,通塾率の増加による学習時間の格差拡大という現象はここでは見られない。むしろ,学校や教師の関与によって宿題や家庭学習の時間が伸びることで,削減された授業時数が補填されている。「学びのすすめ」でも見たように,ゆとり教育では学校外の学習を充実させることで,学ぶ習慣を身につけさせることを目指していたが,その目的はまさに果たされていたということになる。

しかし,ベネッセの調査には信頼性の点で問題がある。ベネッセの調査は教師・生徒の自己申告に基づいている。そのため,教師・生徒が果たして宿題の回数や学習時間を正確に把握できていたのかには疑問が残る。たとえば,家庭での学習時間を尋ねる設問では児童・生徒に対して「ふだん」の学習時間を聞いている。しかし全ての児童・生徒が毎日,計画的に勉強しているとは限らない。学習基本調査では,「家での学習の様子」も調査されており,06 年調査では小・中学校ともに「計画を立てて勉強している」と答えた割合は過去のいずれの調査よりも高くなっているが,それでも小学校で62.5%,中学校で50.9% に留まっている。計画的に勉強していない児童・生徒が「ふだん」の勉強時間を正確に答えるのは難しいだろう。

1.6 学習時間の総計―社会生活基本調査

それでは,ベネッセの調査よりも信頼性の高い,学習時間の経年比較調査は存在するのだろうか。実は存在する。総務省統計局が昭和51年から5年ごとに行っている「社会生活基本調査」(以下,社基調と略記)である。社基調は,生活時間の配分や余暇時間における活動の状況など,国民の社会生活の実態を明らかにするための基礎資料を得ることを目的に実施されている(総務省統計局 2011)。この生活時間には学校の授業やそれに関連した学習として「学業」が含まれている。調査の対象は平成18年調査で,約8万世帯の10歳以上の世帯員約20万人,抽出方法は層化二段確率比例系統抽出法である(補遺参照)。

社基調では,ある週の土日から次の一週間を調査対象日としている。つまり,ある週の土日2日間及び次の週の7日間の合計9日間が調査の時期となるのである。調査対象者はこの9日間のうち,いずれかの連続する2日間について調査されることになる。土日の生活時間を2週にわたって記録するため,隔週五日制の影響を考慮した平均学習時間が手に入る。これはゆとり教育の学習時間を経年比較するうえでは好都合である。また,社基調では自分の生活時間を,あらかじめ配布された調査票に15分刻みで記録していくという方式をとっている。記憶にたよった回答ではない分,他の調査よりも信頼性は高い。

それでは,社基調では,児童・生徒の学習時間はどのように推移しているのだろうか。社基調では「学業」は次のように定義されている。「学校の授業や予習・復習・宿題,行内清掃,ホームルーム。また学習塾での勉強はここに含める」。要するに,学校での勉強とそれに類する学習活動が「学業」に含まれているのである。そのため,英会話クラブやそろばん塾などは「学業」には含まれていない。なお,社基調は昭和51年以来,5年ごとに実施されているが,小学生・中学生の学習時間が調査対象となったのは平成8 年調査からである。また,昭和61年,平成3年の高校生には15歳以上の中学生を含んでいる。図1.13は在学者の学習時間を,昭和61年調査から時系列に並べたものである。

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社基調の結果でもベネッセの学習基本調査と同じ傾向がみてとれる。小・中学生の学習時間は昭和61年から一貫して低下を続けているが,ゆとり教育実施後の平成18年調査では,学習時間の低下に歯止めがかかっている。授業時数が減少しても総学習時間は維持ないし微増となっているのである。また、社基調における学業時間には校内清掃やホームルームの時間も含まれているため,実際には小学校でも増加に転じている可能性がある。

続く平成23年調査では,小中高のいずれでも1日当たり10分以上の学業時間増加が確認できる。平成23年は小学校で新指導要領(08年改訂)が実施された年であり,したがって小学生の学業時間増加は単に授業時数増加を反映している面もあるが,中学・高校では98年改訂が実施された最後の年であり,指導要領上の授業時数に変化は無い。ゆとり教育実施前の平成13年調査と比較すると,1日当たり学業時間は中学生で約30分,高校生で約20分増加している。

1.7 ゆとり教育で格差は拡大したのか

補遺

2章

引用・参考文献

[1] 明石 要一・中村 幸雄 1996 「児童会活動の活性化のためのシステムづくりに関する研究: 千葉県下450校の児童会活動の現状分析を通して」『千葉大学教育学部研究紀要. I, 教育科学編』44巻 pp.97-110

[2] 今村 信哉 2003 「児童会活動/特別活動の宿命?時間との戦い」『特別活動研究』2003年6月号 pp.95-96

[3] OECD, 2013, PISA 2012 Results:Creative Problem Solving Students’ skills in tackling real-life problems Volume V, OECD

[4] 大森 修 2002 「新教育課程の詰めをする」『学校運営研究』2002年3月号 pp.66-67

[5] 川口 大司 2013 “Fewer School Days, More Inequality,” Hitotsubashi University Global COE Hi-Stat Discussion Paper Series No. 271.

[6] 河合 剛英 2002 「いつでも『学年T・T』が可能な時間割表の作成を」学校運営研究 2002年4月号 pp34.35

[7] 川村 光 2011 「『総合的な学習の時間』の10年間―2004年学校調査・2005年教員調査と2009年学校・教員調査の比較分析結果報告―」『関西国際大学研究紀要』12号pp.1-12

[8] 教育課程審議会, 1998, 教育課程審議会答申「幼稚園,小学校,中学校,高等学校,盲学校,聾学校及び養護学校の教育課程の基準の改善について」http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/021/siryo/04122701/002/009.htm

[9] 教育政策研究会 1987 「臨教審総覧<上巻>」第一法規出版 

[10] 栗原 由紀子 2010「 社会生活基本調査ミクロデータにおける平日平均統計量と標本誤差の計測」『統計学』99号 pp.20-35  

[11] 栗原 由紀子・坂田 幸繁 2014 「ミクロデータ分析における調査ウェイトの補正効果社会生活基本調査・匿名データの利用に向けて」『人文社会論叢. 社会科学篇』31号pp.93-113 

[12] 国立教育政策研究所学習指導要領データベース https://www.nier.go.jp/guideline/

[13] 児島邦宏 1999 「小学校『総合的な学習の時間』の年間指導計画」明治図書

[14] 白根恵子 2011 「『朝の読書』の現状と課題」『佐賀女子短期大学研究紀要』45集 pp.29-34  

[15]初等中等教育局, 1997, 教育課程審議会中間まとめの骨子http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/old_chukyo/old_katei1998_index/toushin/1310232.htm

[16] 全国学図書館協議会, 2016, 「第61回学校読書調査」の結果 http://www.j-sla.or.jp/material/research/54-1.html

[17] 総務省統計局 2007 「平成18年社会生活基本調査・調査の結果・結果の概要」http://www.stat.go.jp/data/shakai/2006/gaiyou.htm  

[18] 中央教育審議会, 2003, 初等中等教育における当面の教育課程及び指導の充実・改善方策について http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/005/siryo/03081102/003/005.htm  

[19] 中央教育審議会, 2007, 初等中等教育分科会(第55回)・教育課程部会(第4期第13回)合同会議議事録・配付資料http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/siryo/07102505/003/007.htm

[20] ベネッセ教育研究開発センター 2008 「第4 回学習指導基本調査」http://berd.benesse.jp/shotouchutou/research/detail1.php?id=3247

[21] ベネッセ教育研究開発センター 2007a 「第4 回学習基本調査・小学生版」http://berd.benesse.jp/shotouchutou/research/detail1.php?id=3228

[22] ベネッセ教育研究開発センター 2007b 「第4 回学習基本調査・中学生版」http://berd.benesse.jp/shotouchutou/research/detail1.php?id=3227

[23] 丸山義王 1982 「児童の学校生活とゆとり―小学校の日課表との関連からみたゆとりについて―」『学校経営研究』7巻 pp.89-98

[24] 薬袋秀樹 2014 「朝の読書の実践と普及のための活動- 1987~1997年度-」『日本生涯教育学会論集』35号 pp.61-70

[25] 宮川八岐 2002「学校行事実施上の課題」『特別活動研究』2002年7月号pp.102-104

[26] 宮永正行 2002 「教頭として考える―『ゆとり』は,『やる気』を育てる」学校運営研究2002年4月号 p.51

[27] 文部科学省, 2004b, 小学校英語活動実施状況調査概要(平成15年度実績)http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/004/siryo/04081101/017/001.pdf

[28] 文部科学省, 2004a, 平成16年度公立小・中学校における教育課程の編成・実施状況調査の結果についてhttp://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/004/siryo/04120701/005.htm

[29] 文部科学省, 2006, 平成18年度公立小・中学校における教育課程の編成・実施状況調査の結果について http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/1263169.htm

[30] 文部科学省, 2007, 初等中等教育分科会(第55 回)・教育課程部会(第4 期第13 回)合同会議議事録・配付資料http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/siryo/07102505/003/007.htm  

[31] 文部科学省, 2008a, 平成19年度小学校英語活動実施状況調査集計結果http://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/286184/www.mext.go.jp/b_menu/houdou/20/03/08031920/002.htmWARP によるキャッシュページ)45

[32] 文部科学省, 2008b, 子どもの学校外での学習活動に関する実態調査報告http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/20/08/__icsFiles/afieldfile/2009/03/23/1196664.pdf

[33] 文部省, 1985, 公立小・中・高等学校における特別活動の実施状況に関する調査について http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/t19850828001/t19850828001.html  

[34] 文部省 1992 「学制百二十年史」ぎょうせい 

[35] 山崎博敏 2008 「学力を高める『朝の読書』一日10分が奇跡を起こす―検証された学習効果」メディアパル

*1:ここでは98年改訂学習指導要領に基づく学校教育を指す。以下の記述も同様である。「ゆとり教育」という言葉の問題については次の記事を参照されたい 正体不明の「ゆとり教育」 - HaJK334の日記

*2:授業時数は単位時間あるいはコマとも呼ばれるが,本稿では単に時間と呼ぶ。断りのない限り,「1時間」とは小学校では45分の1コマ授業,中学校では50分の1コマ授業のことである。

*3:ここでは表1.1から「特別活動」を除いたものを指す。つまり,小学校では国語・社会・算数・理科・音楽・図画工作・家庭・体育・道徳・総合的な学習の時間,中学校では国語・社会・数学・理科・音楽・美術・技術家庭・保健体育・道徳・総合的な学習の時間である。以下,単に「教科学習」と呼ぶ。

*4:ただし,本稿では一貫して総合が指導要領通りに実施されていたことを仮定している。一部の学校では他の教科の時数を総合の時間として読み替えていた可能性があるが,そうした「弾力的」な運用に関しては実態が不透明であるため,本稿においては指導要領通り,小学校で3時間,中学校で最低2時間の総合が行われていたと仮定する。

*5:ただし,朝読書の実施状況は調査によって幅がある。朝の読書推進協議会の調査では,2007 年時点で小学校の71%,中学校の69% が朝読書を実施している。一方で,同じ2007 年に実施された「全国学力・学習状況調査」では,小学校で91.8%,中学校で83.5% の学校が実施している。

*6:ただし,第1 回調査(1997~1998:中学校版),第2 回調査(1998:小学校版)は,全国6 地区(岩手 県,新潟県,東京都,岡山県,福岡県,熊本県)の公立校教諭を対象としており,第3 回調査(2002:小・ 中学校版)では全国14 地区(北海道,岩手県宮城県新潟県,石川県,群馬県,東京都,山梨県,愛知 県,大阪府兵庫県岡山県,福岡県,熊本県)を対象としている。また第4 回調査(2007:小・中学校版)以降,全都道府県の教員数に応じた抽出確率で,無作為に学校を抽出している。経年比較を可能にするため,各年度のサンプルは2007 年調査に合わせて限定されているが,調査地域や調査対象が異なるため厳密な比較はできない。

*7:本稿では削除

*8:本稿では削除。詳細はベネッセ調査を参照のこと

はてな民のリテラシーの低さまとめ

まえおき

唐突だが所謂「ネトウヨ」と呼ばれる人たちは決して馬鹿ではない。俗説に反した彼らの社会経済的地位の高さは様々な論者が指摘しているが、それは実証的にもある程度示されている(樋口他 2019)。一見奇妙に見える彼らの言動も、ジョナサン・ハイトらがその一連の研究で示しているように、その大部分は自然な人間本性に由来しているのだろう。「普通の日本人」という自称は言い得て妙である。

勿論、だからといって彼らの差別的振る舞いが許されるわけではないが、私が彼らの言動と同程度に、時としてそれ以上に不愉快に感じるのは彼らを批判する側のリテラシーの低さである。これはごく単純な理屈で、単に無知である人よりも、自分の無知を顧みずに他人の無知を嘲る人の方がより不愉快だという話である。直截に言えばはてなの連中のことだ。

動物園のチンパンジーよろしく飼育員から与えられた情報という名の餌を寸毫の思慮もなく無節操に摂取しては糞の役にも立たない小学生の感想文を垂れ流しているのだがまあそれはいい。忙しい現代人の通弊という奴だろう。それはいいのだがそのくせ良識ある市民気取りで恥知らずにも科学だの知性だのリテラシーだのを大上段に語ってみせるのだからチンパンジーの代わりにこいつらを見世物にしてやったらどうだという気にもなる。

まとめ

というわけで、はてな民のリテラシーの低さについてはこれまでも度々記事にしてきたのですが、如何せん奴ら自ら省みるということを全く知らない連中です。私がシコシコ頑張ってアホなブコメへの反論記事を書いている間にも光陰矢の如し、ホリエモンもびっくりのスピードではてなー達は次のステージへ向かって行きます。私が書いた記事など見向きもされません(いつも読んで下さっている方はありがとうございます)。

そこで、この記事ではてなー達の未だ断罪されぬ悪行の数々を記録しておき、それをいち早く提示することでこれから先新着エントリーに群がるはてなー達の暴走に掣肘を加えたいと思います。なお、以下にまとめる記事は、はてなー達が概ね肯定的な反応を示した元記事やコメントへの反論記事に限定しています。また、「はてなー」と「はてな民」の区別に特に意味はありません。

特定集団のせいで国が滅びると信じるはてなー

典型的なはてな民案件です。この中学生が残り10分の授業時間で必死に捻りだした糞みたいな感想文に対する反論を真面目に書いている間にブームは去っていました。

表の読み方がよくわからないはてなー

前出の記事に全く反応が無かったため書きました。日本人の成人の大多数が"単純な表の読み方すら分からない"という極めて深刻な事態を告発したつもりだったのですが反応はありませんでした。

出典を確認できないはてなー

はてなブログで初めて投稿した記事です。元記事で「若者の映画離れ」の根拠として提示されていた統計が全くの逆の統計(映画館へ行く若者が増えた)であることを説明しています。正直めっちゃバズると思っていましたが殆ど反応が無かったので軽くビビりました。

ネットの主役でありたいはてなー

「若者のPC離れ」という珍説と表裏一体をなす「ネット(PC)世代のおじさん」説を検討しています。後者については完全に間違っているとは言えないのですが、世代論の陥穽を知るにはうってつけの材料だと思います。

悲劇の主人公でありたいはてなー(氷河期)

事あるごとに氷河期を自称する人(≠氷河期世代)に若干イラついて書いた記事です。40-50代の自殺率が世界一というありえないデマとそれに対する「ヒント:氷河期」「氷河期で全部説明できる」「氷河期」というありえない頭氷河期のブコメ群に驚きました。

漢字は読めるが10以上の数は数えられないはてなー

一時期ちょっとだけ話題になった「秀免」「秀面」についての記事です。いずれの誤用も2020年中6名(元記事の著者曰く「思っているよりも多くて愕然とする」)で計12名しか確認できませんでした。ちなみに誤用者の年齢は全員が30代半ば以上、8割以上が40代以上でした。

統計リテラシーを母親の腹の中に置いてきたはてなー

典型的はてな民案件2です。こうした反応を見るにつけ二度とリテラシーを語るなよ貴様らと思うのですが悲しいかな私の心の声がはてなー達に届くことはありません。

新興宗教にあっさり騙されるレベルのはてなー

10年ほど前から流布している「オウムを知らない世代がオウム信者」になっているという珍説を検討しています。2010年代以降、オウムの後継団体は毎年100人前後の新規信者を獲得していると報告されているのですが、不思議なことにその総信者数はこの20年間殆ど変化していません。そのカラクリを説明しています。

人の死を肴に糞の役にも立たない持論を開陳するはてなー

なぜ人は統計を参照しないのか。筆者はその謎を探るためネットの秘境はてな村へと潜入した…あまり知られていないのですが、日本は比較的統計資料が整備されている国であり、あなたが疑問に思ったことに関連する統計は大抵の場合ネット上にアップされています。それすら参照できないあなたの自論に価値はありません。自覚してください。

 

これらの記事はほんの一例であって普段はブコメの100字制限の中で頑張ってはてなー達を叩いています(メインアカウントは"HaJK334"で言い足りない時は"HaJK33〇"で追記しています)。まだまだ増える予定です。

コロナパニックでリテラシーの低さを露呈するはてなー達

猿でもわかる統計リテラシー

できるだけ分かりやすく説明する。ここに、それぞれ100名で構成される二つの集団A,Bがあったとする。そして、それぞれの構成員はその集団内で重複しない0~99の値を持つとしよう。これは、その人が持つ「ワクチンに対する正しい知識」の総量である。また、その補数を「ワクチンに対する間違った知識」の総量としよう。この集団A,Bに対し「コロナワクチン接種を希望するか」というアンケートをとった時、どのような結果になるだろうか。

それぞれの集団における0~9, 90~99の値を持つ人の回答は予測しやすい。前者は確信をもって接種を希望しないだろうし、後者もまた確信をもって接種を希望するだろう。それでは40~60あたりの人はどうだろうか。言い換えれば「ワクチンの正しい知識も間違っている知識もそれなりに持っている人」である。自分の持っている知識では確信が持てない以上、その判断は他の要素の影響を強く受けることになる。

ここで、先ほどの0~99の数値を「ワクチンを希望する確率」と読み替えてみよう。当然ながら、この確率は「ワクチンに対する知識」の多寡だけで決定されるわけではない。特に、ワクチンに対して確信的知識を持っていない人はなおさらである。たとえば、副作用の定量的なリスクは把握していないが、重症化のリスクならば良く知っている場合、アンケートに対する回答は後者のリスク判断に左右されるだろうし、年齢や性別によるリスク回避度の違いも回答に影響を与えるだろう。

と、(はてなーの読解力的に)長々と書いたが、こんなの説明されなくても分かるだろ…要は結果が二値でも説明変数はいっぱいあって君らが考えているようなクイズの正解・不正解の割合じゃないんだよということだ。余りこういうことは言うべきではないが、こんなのどこの国でやっても100%同じ結果が出るし、ついでに言うと性別でクロスしても間違いなく差が出るぞ(Suzuki et al. 2019;  久富 2016)。で、男性(女性)の知性が低いとか言っちゃうわけ?なぜネトウヨを笑えるのか不可思議極まりない。同レベルだろお前ら。

SNSについて

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仮に若年層の希望割合の低さがSNS以外にあるとしても相関は出る。何故ならば情報収集手段としてのSNS利用率は若年層の方が高いからだ(情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査)。これを誰も指摘していないことに呆れを通り越し恐怖すら覚える。

普段は自分の気に入らない調査結果に対して標本調査法など一度も勉強したことがないくせにサンプリングがおかしいと安易に断定したり計算方法を知りもしないサンプルサイズの問題だとか言ってみたりする素敵なはてなーさん達は一体どこにいってしまったんですか?疑似相関も好きですよね?ニコラスケイジとプールがどうのっていつもはしゃいでるじゃないですか。

動機の語彙

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「動機の語彙」とは、特定の社会状況のなかで、行為の正当性を自他にたいして受容させ、かつそれを理解可能とするために言及・参照される類型的な語彙としての動機である(藤原 2008)。相当の語弊はあるが超わかりやすく書けば、人間の行動は常に理解可能な内的動機が存在するとは限らず、一般に表明される動機はむしろ社会的承認のために選択された外的なものであるということだ。超超わかりやすく書けば「社会的言い訳」である。

この理論が典型的に当てはまるのは犯罪などの「社会的に望ましくない行動(=正当性を強調する必要がある行動)」の動機についてであり、近年は万引きを巡る議論の中でも取り上げられることが多い(大久保 2013; 東京都庁 2017)。この記事が出る1か月前にNATROM氏が指摘していたのも正にこの動機の語彙の理論である。

接種しない本当の理由は、注射は痛いからとか、単に面倒だとか、なんとなく嫌とか、だったとしても、問い詰められたら、「早すぎる開発・承認は信頼できない」とか「長期的な副作用が心配」とかもっともらしい答えを考えるだろう。どうかするとネット上で見かけた陰謀論の類いを答えるかもしれない。一度口にすると、一貫性を保つため、ワクチンが余るようになっても忌避し続けかねない。

ワクチンを接種しない人を批判してはいけない - NATROMのブログ

ちなみに

これは2001年に全国の18歳から69歳までの成人男女を対象に行われた、「科学技術の基礎的な概念の理解度」を調査した結果である。この調査はアメリカやヨーロッパの研究者と協力して開始した「科学技術の公衆理解に関する国際比較研究」の一環として行われ、日本では科学技術政策研究所が『科学技術に関する意識調査』として調査を実施した。したがってその結果は各国間で比較可能なものとなっている。

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ちなみに日本は平均正答率51%で15ヵ国中13位という堂々たる成績を収めた(結果が信じられなくて調査を2回やったくらいである)。まあ率直に言って、上記の設問は語句の定義が曖昧なものもあり、あまり良い設問とは言えない。わからない問題には素直にわからないと回答する割合が日本は他国と比較して高かったのかもしれないし、「男腹・女腹」のように文化的な差異が背景に存在しているのかもしれない。

ただし、いずれにせよ日本人の平均的リテラシーが(不思議なことに)一般に思われるより相当に低いという事実だけは読み取れる。冒頭の説明に戻れば、ワクチンに対して確信的な態度を示せる人は少数派ということであり、その判断は科学的リテラシー以外の要素に負うところも大きいと考えられる。

おまけ

新見公立短期大学の2006年度入学生と一般日本人の正答率の比較

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新見公立短期大学看護学科学生の高等学校における理科履修科目と科学リテラシーに関する調査(4) : ゆとり教育で科学リテラシーは低下したか?

引用・参考 

大久保 智生(2013)香川県における万引き防止対策に関する一考察 : 個人の規範意識の醸成から社会全体での万引き防止へ 心理科学 34(1), 39-52

Suzuki, Y., Sukegawa, A., Nishikawa, A., Kubota, K., Motoki, Y.,  Asai-Sato, M., Ueda, Y., Sekine, M., Enomoto, T., Hirahara, F., Yamanaka, T., Miyagi, E., (2019) Current knowledge of and attitudes toward human papillomavirus-related disease prevention among Japanese: A large-scale questionnaire study., J Obstet Gynaecol Res. May;45(5):994-100

東京都庁(2017)第6回万引きに関する有識者会議 議事概要 p.10

https://www.tomin-anzen.metro.tokyo.lg.jp/chian/kaigi/manbiki/

久富 真一(2016)ワクチン接種における意思決定のジレンマについて ビジネスクリエーター研究学会 第17回大会 

http://www.business-creator.org/wp-content/uploads/2011/01/161113_No.8.pdf

藤原 信行(2008)「動機の語彙」論再考 -動機付与をめぐるミクロポリティクスの記述・分析を可能にするために コア・エシックス (4), 333-344

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仮にワクチンについての科学的知識を